第37話:遠ざかる日常
朝日が差し始める頃、澄羽は目を覚ました。
快眠した気もする。
だが、どこか身体に違和感が残っていた。
澄羽は湿った布団を裏返す。
寝具が、紅に染まっていた。
徐々に収まりつつあった現象。
それが、また起きていた。
思わずため息をつく。
『目覚めたか』
ネヴ=ソスの声が響く。
『以前に比べれば、身体はあの形態に適応し始めている。
だが、一昨日の戦闘は無理をし過ぎた』
強敵に対抗できるだけの力は、まだ足りない。
天使になったばかりの頃を、澄羽は思い出す。
……それにしても、一昨日?
違和感を覚え、スマホを開く。
「ネヴ=ソス、一昨日じゃなくて昨日じゃないの?」
『昨日は、一日を通して眠っていた。
真夜中にあれほどの戦闘を行ったのだ。回復には時間が必要だった』
澄羽は、自分の手を見る。
見た目は何も変わらない。
だが、その内側は——
もう、人間ではないのかもしれなかった。
「ネヴ=ソス、私ってさ……」
何かを言いかける。
だが、続かなかった。
『……』
沈黙だけが返る。
ネヴ=ソスがどこまで自分の思考を読めているのか、澄羽には分からない。
ただ、その静寂だけが妙に重かった。
『……あの教師が話していた旅行学習まで、今日を入れて二日。
今日は休日だ。準備をしておけ』
再び、時間が動き始める。
澄羽は立ち上がり、階段を降りた。
……リビングには誰もいない。
時間帯の問題もあるだろうが、夜美に会っていない日々がまた一日増加した。
相変わらず、澄羽は夜美のことが嫌いだ。
正直言って、消えれば良いという気持ちは嘘ではなかった。
しかし、しばらく姉に会っていないという事実がやけに心を締め付けた。
「お姉ちゃん……」
俯き、息を吐く。
直後、背後に気配を感じた。
振り向くと、そこには夜美がいた。
「澄羽……最近会ってなかったから、心配したよ」
「……そう」
ただひと言。
その言葉に、夜美は少し視線を落とし、そして上げた。
「ねえ、旅行学習があるってメールが来たんだけど、本当……?」
始まった。
「一時的な避難も兼ねて、だって」
沈黙が訪れる。
「そう、なのね……」
夜美は背を向けた。
その瞬間、澄羽の脳内に過去の記憶がよぎる。
部屋の隅を向いて座り込み、涙を流す夜美。
顔や手には青いアザがいくつも目立つ。
かつて救いたかったその背中。
昔の姉は、精神的にも物理的にも蝕まれていた。
生きる力を失ったかのように小さく見えた背中。
ただ、もう一度笑顔になってほしかった。
振り向いてほしかった。
それだけなのに……。
「わかった。 楽しんできてね」
夜美は振り返る。
その表情は、光に包まれたかのような笑顔だった。
しかし、澄羽はどこか悲しみが滲む表情をしていた。
理由は掴めなかったが、離れることに対しての悲しみでないことは確実だった。
「ありがとう。 二日後、行ってくるね」
旅行学習まで、あと二日。
それが、束の間の平穏になることを——この時の澄羽は、まだ知らない。
華奢な女が、廃墟の廊下を歩く。
胸元には深い裂傷が残っていた。
だが、その傷もじきに塞がるだろう。
人気の無い団地。
崩れた壁の隙間から夜風が吹き込み、瓦礫を微かに鳴らしている。
グラ=ゼルは、ある一室の前で立ち止まった。
ゆっくりと扉を開く。
「あっ、グラ=ゼルお帰り〜」
軽い声が届く。
リクス=ヴァイアだった。
部屋の中央には古びた机が置かれ、その周囲にはリクス、アルク=ディア、トゥ=レイヴ、イシュ=ノクスの四人が座っている。
彼らは、数枚のカードを均等に分けているところだった。
「……それは」
グラ=ゼルが視線を向ける。
「トランプという遊戯らしい」
リクスより先に、トゥ=レイヴが答えた。
「僕が持ってきたんだ〜」
リクスは笑みを浮かべる。
誰も、その入手経路を聞こうとはしなかった。
「グラ=ゼルも入るよね?」
既に席は一つ空いている。
断る理由も無かった。
グラ=ゼルは静かに椅子へ腰を下ろした。
「よしっ、始めよっか」
カードが配られていく。
ルール説明は必要なかった。
数分もすれば、全員が理解していた。
最初に動いたのは、グラ=ゼルだった。
一周するごとに、無駄の無い手付きでカードを捨てていく。
「えっ、ちょっと待って。早くない?」
リクスが声を漏らす。
グラ=ゼルは答えない。
ただ淡々と、不要な札を処理していく。
やがて最後の一組を置いた。
「上がりだ」
「もう!?」
その後三周目では、トゥ=レイヴも静かにカードを整理し、同時に出した。
「こちらも終了した」
「いやいやいや、なんでそんな強いの!?」
トゥ=レイヴは表情一つ変えない。
「規則性を理解すれば難しい遊戯ではない」
「そういう問題かなぁ!?」
リクスは不満そうに頬を膨らませる。
その間にも、アルク=ディアは一言も発していなかった。
身体を椅子へ預けたまま、出番が来るたびに静かにカードを置いていく。
そして。
最後の二枚を揃え、机へ置いた。
「……終わりだ」
短い声。
「え〜!? なんかみんな強くない!?」
とうとうリクスが叫ぶ。
イシュ=ノクスだけは、何も言わない。
ただ、伏せられたカードを静かに見つめていた。
その瞳だけが、妙に深い。
「一騎打ち、だね……! 負けないよ!」
イシュ=ノクスは、無言のまま小さく頷いた。
それから数周。
残されたカードは、三枚だけになっていた。
イシュは二枚のカードを背後で静かに混ぜる。
そして、何も言わずに差し出した。
リクスは目を細める。
「うーん……絶対こっち」
伸ばした指が、一枚を引き抜く。
確認。
ジョーカーではない。
「やったぁ!! 僕の勝ち!」
リクスが勢いよく立ち上がる。
対するイシュは、何も言わない。
だがその表情は、どこか穏やかだった。
その時だった。
低いエンジン音が、団地の外から響いた。
イシュがゆっくりと顔を上げる。
それだけで、部屋の空気が変わった。
リクスの笑みが僅かに止まり、グラ=ゼルは視線を細める。
アルク=ディアだけは、黙ったまま入口を見ていた。
やがて、エンジン音が止む。
数秒遅れて、階段を上がる足音。
一定の速度の、迷いの無い歩調。
廊下を進む音が、徐々に近づいてくる。
そして。
扉が開いた。
黒い外套を纏った青年が、そこに立っていた。
部屋に沈黙が落ちる。
イシュが立ち上がり、青年の元へ向かった。
「……元気、だった?」
消え入りそうな小さな声。
青年は何も言わずイシュの頭へ手を置き、静かに撫でた。
「元気だよ」
ただ、それだけを返す。
イシュは目を伏せ、小さく頷いた。
青年は部屋へ入り、机へ一枚の地図を広げる。
「さて、みんな」
全員の視線が向く。
「ネヴ=ソスは二日後、通仙府へ向かうらしいんだ」
青年は地図上の一点を指差した。
「誰か行かないか?」
沈黙が辺りを包む。
最初に口を開いたのは、アルク=ディアだった。
「……ならば、お前はどうする」
低く、重い声。
青年は少しだけ笑う。
「もちろん行く」
そして。
「人間の姿で。 でも、今回は観察メインだ」
再び静寂が落ちる。
そして、トゥ=レイヴがそれを破った。
「……ならば、俺が行こう」
静かな声。
だが、その場の空気がわずかに張り詰める。
リクスが目を丸くした。
「えっ、トゥ=レイヴが? 珍しくない?」
「通仙府には、ネヴ=ソス以上の戦力も来るそうだ」
トゥ=レイヴは淡々と続ける。
「A.E.O.I.の、あの女だ」
その言葉に、グラ=ゼルがわずかに目を細めた。
「……確か、ローゼだっけ」
「ああ」
トゥ=レイヴは短く答える。
「おそらく、放置すれば面倒になる。
ならば、早い段階で排除しておくべきだ」
感情の見えない声だった。
だが、その場の誰もが理解していた。
トゥ=レイヴは、勝てると判断している。
青年はそれを聞き、わずかに口元を緩める。
「頼もしいね」
「ただし」
トゥ=レイヴは続けた。
「必要以上に暴れるつもりはない。 俺の役目は、戦況を固定することだ」
その瞬間。
青年の目が、ほんの僅かに細められた。
「……固定、か」
「問題でも?」
「いや」
青年は小さく笑う。
「別に。 ただ――」
そこで言葉を切る。
窓の外。
白昼を眺めながら、静かに呟いた。
「通仙府で何が起こるのか、少し楽しみになってきただけだよ」
その瞬間。
この場にいる誰もが理解した。
ヴァル=ゼリクスが動くということの意味を。




