第0話・前編:神降ろし
――遠い昔、この山には「お神様」がおられたという。
お神様は雨を呼び、作物を実らせ、病を遠ざけ、村に尽きぬ恵みを与えてくださった。
人々は飢えることなく、寒さに震えることなく、静かに暮らしていた。
しかし、ある日を境に、お神様は姿を消された。
山は痩せ、川は濁り、村は少しずつ貧しくなっていった。
村人たちは考えた。
新たなお神様を生み出すしかない、と。
神に最も近いのは、穢れを知らぬ純粋な魂。
すなわち――子供。
それより後、村では幾度となく儀式が繰り返された。
選ばれた子供を山へ捧げ、神の器へ至らせるために。
だが、誰一人として、お神様には成れなかった。
ある者は命を落とし、ある者は狂い、ある者は跡形もなく消えた。
それでも、村人たちは儀式を止めなかった。
何十年。
何百年。
いつしか、それは祈りではなく、呪いのように受け継がれていった。
――そして今日。
また一人、神に最も近い子供が選ばれる。
――――――――――――――――――――――
山々の頂に、白い霧が絡みつく朝。
山奥に存在するこの村は、今日も異様な静けさに包まれていた。
その中を、一人の少女が歩いていく。
村人たちは少女の姿を見るたび、言葉を止めた。
ある者は目を伏せ、ある者は祈るように手を組み、またある者は、希望を見るような目で少女を見つめている。
その視線の意味を、少女はまだ知らない。
少女は周囲を気にしながらも、村で最も大きな建物へ向かった。
中には長老や老婆たちが集まっている。
「おはようございます」
少女が小さく頭を下げる。
その瞬間、室内の視線が一斉に集まった。
重たい沈黙の後、やがて中央に座る長老がゆっくり口を開く。
「目覚めたか」
低く、掠れた声だった。
「今日の正午、村の外れの祭壇へ来なさい」
「はい」
少女は素直に頷く。
その瞳に、恐怖や疑念は無い。
「では、支度をしてきなさい。――葉狩レナ」
名前を呼ばれた少女――レナは、にっこりと笑った。
「わかりました!」
そのまま軽い足取りで建物を出ていく。
閉じられた扉の向こうで、誰かが小さく呟いた。
「……今度こそ」
レナはそれを聞いていない。
外へ出た彼女は、山の頂を見上げる。
霧の向こう。
その先に広がる外の世界を想像する。
(山の向こうには、何があるんだろう)
見たこともない景色。
知らない人たち。
遠い場所。
考えるだけで、少しだけ胸が高鳴った。
儀式までは、まだ時間がある。
(今日は、みんなと何して遊ぼうかな)
そんなことを考えながら、レナは小さく駆け出した。
「もういい〜? それじゃ、行くねー!」
レナは顔を隠していた両手をぱっと下ろし、辺りを見回した。
かくれんぼ。
山奥に閉ざされたこの村では、子供たちの遊びも昔ながらのものばかりだった。
外の世界の遊びなんて、誰も知らない。
それでも、レナはこの時間が好きだった。
みんなで笑って、走って、隠れて。
それだけで楽しかったから。
(さっそく一人、見つけちゃおっかな!)
レナは、鬼役になるととにかく強かった。
勘が良いのか、運が良いのか。
どこに隠れているのか、なんとなく分かってしまう。
村の大人たちも
「レナちゃんは見つけるのが上手いねぇ」
と、よく笑っていた。
親が物を無くした時ですら、レナが探すとすぐ見つかる。
だから子供たちは皆、レナが鬼になると本気で隠れるのだった。
「うーん……」
レナは村の細道を歩く。
古びた木造家屋。
軒先に吊るされた干し野菜。
山から吹き下ろす冷たい風。
その中で、レナはふと立ち止まった。
(いる)
視線を向ける。
薪が積まれた小屋の裏。
藁がわずかに揺れていた。
レナはそーっと近づく。
気配を殺して。
そして勢いよく裏へ飛び込んだ。
「見ーつけた!」
「うわぁっ!?」
飛び上がったのは、同い年くらいの男の子だった。
「なんで分かったの!?」
「藁、動いてたよ?」
「えぇ〜……」
男の子は悔しそうに肩を落とす。
レナは楽しそうに笑った。
「次行こ、次!」
二人で歩き始める。
すると今度は、遠くの木陰から草が揺れるのが見えた。
「あっ、いた!」
レナは駆け出す。
木の裏に隠れていた女の子が悲鳴を上げた。
「またレナちゃんなの〜!?」
「見つけたからこっちね!」
「強すぎるよぉ……」
そんなやり取りを繰り返しながら、少しずつ人数が増えていく。
笑い声が山に響いた。
やがて。
「あと一人だね」
誰かが言った。
レナは辺りを見回す。
村の中には、もう隠れられそうな場所は残っていない。
「……どこだろ」
少しだけ首を傾げた、その時だった。
風が吹いた。
山の奥へ続く道へ。
普段、子供たちは近づかない場所だった。
その先にあるものを、皆が知っているから。
レナは、無意識にそちらを見つめていた。
「ねえ、あの奥な気がする!」
レナのひと言に、子供たちは顔を見合わせた。
「えっ……その先って、入っちゃダメなんじゃないの?」
「お婆ちゃんが言ってたもん……お神様が眠ってる場所だって」
誰も先へ進みたがらない。
山の奥。
村人たちが決して近づこうとしない場所。
子供たちですら、なんとなく怖いと感じていた。
そんな中、一人の男の子が前を指差した。
「でも見て! いつもあるジャラジャラが無い!」
入口に張られていたはずの鎖。
まるで侵入を拒むように吊るされていたそれが、今日は外されていた。
「ほんとだ!」
「なんで……?」
子供たちがざわつく。
だがレナは、どこか楽しそうに笑った。
「よーし、行ってみよっか!」
「あっ……待ってレナちゃん!」
結局、子供たちも後を追う。
山道を抜けるたび、周囲の音が減っていく。
鳥の鳴き声も、風の音も。
賑やかだった林の中は、いつの間にか静寂に沈んでいた。
軽く舗装された石道を進む。
古い石灯籠。
苔むした柱。
長い年月を感じさせる祭壇への道。
怯えた子供たちは、互いの服を掴みながら歩いていた。
それでもレナだけは、まるで探検でもしているかのように前へ進んでいく。
やがて、木々の奥に巨大な祭壇が姿を現した。
無数の石柱が並び、その中央には古びた石段が伸びている。
空気だけが、妙に重たい。
その時。
石柱の陰に、小さな影が見えた。
「みーつけた!!」
「うわぁっ!?」
飛び上がったのは、この中で一番幼い男の子だった。
「見つかっちゃったぁ……」
涙目になりながら立ち上がる。
レナは楽しそうに笑った。
「これで今回も私の勝ち! だね!」
「レナちゃん強すぎるよぉ……」
子供たちもようやく少しだけ笑う。
――その時だった。
「お前たち!!」
怒鳴り声が山に響いた。
全員の身体がびくりと震える。
振り返ると、数人の大人たちがこちらへ走ってきていた。
村の男たちだけではない。
長老の側にいた老婆たちまでいる。
その顔には、明確な焦りが浮かんでいた。
「どうしてここへ入った!!」
子供たちは一斉に縮こまる。
だがレナだけは、不思議そうに首を傾げた。
「だって、鎖が外れてたから……」
その瞬間。
大人たちの表情が固まった。
互いに顔を見合わせる。
何かを確認するように。
「……とにかく、もうすぐ正午だ」
長身の男が低い声で言った。
「昼の間は、絶対に家から出るな」
「えー? なんで?」
「いいから」
いつもより強い口調だった。
子供たちは困惑しながらも頷き、だいたいの子供たちは村への道を戻り始めた。
レナは祭壇を見上げる。
石段の先、閉ざされた扉。
その向こうから――
ほんの一瞬だけ。
誰かの声が聞こえた気がした。
『――――』
耳を澄まさなければ消えてしまいそうなほど小さい。
けれど。
泣いているようにも聞こえた。
「……?」
レナは不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの、レナちゃん?」
残っていた女の子が、おそるおそる尋ねた。
「ううん……なんかね」
レナは祭壇を指差した。
「誰かいる気がする」
その瞬間だった。
空気が凍りついた。
大人たちの表情が、一斉に強張る。
「……何を、聞いた?」
長老の側にいた老婆が、震える声で問う。
「えっと……」
レナは少し考える。
「泣いてるみたいな声?」
……誰も何も言わない。
近くの女の子は意味が分からず、ただ周囲を見回していた。
だが大人たちは違う。
彼らは知っていた。
祭壇の地下に何があるのかを。
長老の手が、小さく震えていた。
「……やはり」
誰かが呟く。
それは恐怖だったのか。
歓喜だったのか。
レナには分からなかった。
だが次の瞬間。
老婆の一人が、涙を流しながらその場に膝をついた。
「おお……おお、お神様……」
「今度こそ……今度こそなのですね……!」
他の大人たちもざわめき始める。
「本当にお神様なのか……!」
「いや……、儀式を受けるまではわからない」
誰かは祈るように手を組み。
誰かは震えながらレナを見つめ。
誰かは怯えるように後退った。
女の子は完全に困惑していた。
「え、なに……? レナちゃん、なんかしたの?」
レナ本人も、意味が分からない。
「えっと……?」
その時、長老がゆっくりとレナの前へ歩み出た。
そして。
深く、深く頭を下げた。
「……お待ちしておりました」
山に吹く風が止まる。
レナは目を丸くした。
「ちょ、長老さん!? や、やめてください!」
慌てて手を振る。
しかし長老は顔を上げない。
「ご準備を」
低い声が響く。
「もうじき、儀を始めます」
その言葉を聞いた瞬間、大人たちは一斉に動き出した。
誰かは祭壇へ走り。
誰かは村へ戻り。
誰かは何かを運び始める。
その時、大人の一人が女の子の手を掴む。
「あっ! ちょっと待って……」
声を上げるも、そのまま村の方向へと戻っていった。
空気が、一変していた。
先ほどまでの静かな山村ではない。
熱に浮かされたような狂気が、村全体へ広がっていく。
レナはただ、その様子を見ていることしかできなかった。
「……儀式?」
小さく呟く。
すると長老が、ようやく顔を上げた。
その目には涙が浮かんでいた。
「葉狩レナ」
掠れた声。
「あなた様が、この村を救うのです」
レナは意味が分からないまま、それでも小さく頷いた。
褒められている。
期待されている。
ただ、それだけは伝わってきたから。
そして彼女はまだ知らない。
今日という日が。
自分の人生だけでなく、世界そのものを変えてしまう日になることを。
空を覆っていた霧は薄れ、白い陽光が山へ差し込んでいた。
巨大な祭壇の前には、村人たちが静かに集まっている。
誰も笑っていない。
誰も話さない。
ただ、祈るように祭壇を見つめていた。
祭壇の最上部。
そこに、白い衣へ着替えたレナが立っている。
袖は長く、裾は地面に触れそうなほどだった。
村の女たちによって髪を梳かれ、飾り紐を結ばれている。
まるで神事の巫女のようだった。
「緊張していますか?」
老婆の一人が優しく尋ねる。
レナは少し考えてから、小さく笑った。
「……ちょっとだけ」
その笑顔を見て、老婆は泣きそうな顔になった。
「大丈夫ですよ」
震える声。
「あなたなら、きっと」
その言葉の意味を、レナはまだ知らない。
やがて。
低く重い音が山へ響いた。
古びた鐘の音。
同時に、村人たちが一斉に頭を下げる。
長老が石段を上がってきた。
その手には、古い木箱が抱えられている。
箱の表面には、見たこともない文字が刻まれていた。
「葉狩レナ」
長老が、厳かに名を呼ぶ。
「はい」
「これより、儀を執り行う」
レナは静かに頷いた。
長老は木箱を祭壇中央へ置く。
周囲に立つ老婆たちが、祈るように何かを唱え始めた。
言葉なのかも分からない。
歌にも似た、不思議な響き。
山の空気そのものが震えているようだった。
その時。
木箱が、ひとりでに開いた。
中には何も入っていない。
少なくとも、レナにはそう見えた。
しかし、祭壇の空気が変わる。
冷たい風が吹き抜けた。
村人たちがざわめく。
「おお……」
「始まった……!」
長老は震える手を合わせた。
「目を閉じなさい」
レナは素直に従う。
風の音だけが響いた。
そして。
――暖かい。
最初に感じたのは、それだった。
まるで陽だまりの中にいるような感覚。
怖さは無い。
痛みも無い。
むしろ、優しかった。
「……?」
レナは少しだけ目を開きかける。
だが、その瞬間。
視界の奥で、何かが弾けた。
知らない景色。
知らない声。
知らない人々。
世界中の光景が、一瞬で脳内へ流れ込んでくる。
海。
砂漠。
都市。
戦争。
泣いている子供。
笑っている人々。
病室。
死体。
飢え。
愛。
憎悪。
あまりにも膨大な情報。
だが不思議と、苦しくはなかった。
身体ではなく。
心そのものが、広がっていく。
そんな感覚だった。
(なに……これ……)
レナの意識が、世界へ溶けていく。
人々の感情が流れ込む。
苦しみ。
悲しみ。
怒り。
孤独。
そして。
――どうしようもない絶望。
レナの身体が小さく震えた。
今まで知らなかった。
世界には、こんなにも苦しいものがあるのだと。
村の暮らしは、幸せだったのだと。
初めて理解してしまった。
「――――ぁ」
声が漏れる。
涙が頬を伝った。
しかし、儀式は止まらない。
レナの内側で、何かが完成していく。
理解。
認識。
知覚。
全てが、際限なく拡張されていく。
やがて。
レナは、自分の知らないものを見つけられなくなった。
世界の構造。
生命。
宇宙。
未来。
過去。
全てが、そこにあった。
そして、レナは理解する。
自分が――人ではなくなったことを。




