第36話:夜風は未来を運ぶ
天使が目の前の女性を見つめる。
『奴は……グラ=ゼルか。 面倒なのが来たな』
グラ=ゼルの出で立ちは粛清者そのもの。
その目つきはあらゆる状況に対応すべく、天使を見つめ、その視線は揺らぐことを知らなかった。
「ネヴ=ソス、だな。 貴様は本来、存在する価値すら無い。
――この場で粛清する対象だ」
グラ=ゼルは、自身の体格に見合わない無骨なハンマーを生成する。
黒鉄の塊をそのまま引き抜いたような武器だった。
「だが、奴が来るならば……即座に処分するのは得策ではない」
片手で軽々と担ぎ上げる。
「精々足掻け。
貴様は、ただ保留されているに過ぎない」
天使は双剣を構えた。
静寂が落ちる中、夜風だけが河川敷を撫でていた。
先に動いたのは天使だった。
地面が爆ぜる。
一瞬で間合いを潰し、双剣を同時に振るう。
直後、凄まじい金属音が静寂を叩き割った。
超質量のハンマーが、双剣の軌道そのものを押し潰していた。
そのまま横薙ぎに振り抜かれる。
空気が圧縮され、衝撃波となって炸裂した。
天使の巨躯が吹き飛ぶ。
白い残光を引きながら、夜闇の中へ叩き飛ばされた。
グラ=ゼルは、落下地点へ向けてゆっくり歩き始める。
まるで、逃げ場など存在しないと言わんばかりに。
『武器同士の打ち合いは最善ではない。 肉体そのものを狙え』
ネヴ=ソスが即座に判断を下す。
天使は瓦礫を踏み砕きながら立ち上がった。
そして、先ほどよりも深く強く地を踏み込む。
地力の向上。
そこへ超速能力を重ねる。
その瞬間。
天使の速度は、一時的に光速領域へ到達した。
「消え……いや、違う」
燈莉が息を呑む。
消えたのではない。
速すぎる。
白い閃光だけが、グラ=ゼルの周囲を幾重にも走っていた。
グラ=ゼルは微動だにしない。
だが、その目は追いついていなかった。
次の瞬間、閃光が一点へ収束する。
光速の斬撃。
天使が一直線に駆け抜け、袈裟斬りを放った。
グラ=ゼルの衣服が裂け、鮮血が夜気へ散る。
血が足元を伝い、静かに地面を染めていく。
だが。
グラ=ゼルは倒れない。
ゆっくりと振り返り、後方で停止した天使を見る。
天使は睨みつけた。
奴はまだ人間態。
今の一撃で沈めるつもりだった。
「ネヴ=ソスよ」
低く響く声。
「皇帝候補だったにしては――粗末な剣術だ」
その瞬間、グラ=ゼルの肉体が軋みを上げた。
グラ=ゼルの全身が脈動する。
筋肉が膨張し、皮膚の下で何か巨大なものが蠢いていた。
やがて――
裂けた。
肩口から黒い外殻が突き破る。
鋼鉄と生物を混ぜ合わせたような装甲が、肉体を覆い始めた。
腕が肥大化していく。
特に右腕は異常だった。
筋肉と外殻が幾重にも重なり、巨大な破城槌のような腕へ変貌していく。
握られたハンマーも変化を始めた。
柄が脈打つように伸びる。
黒い骨格のような節が連結し、二メートルを超える長柄へ変貌した。
ハンマー頭部はさらに肥大化。
鈍重な鉄塊だったそれは、いつしか処刑器具そのものへと変わっていた。
表面には赤黒い亀裂が走り、その隙間から灼熱の光が漏れ出す。
熱ではない、空間そのものが軋んでいた。
顔もまた、人の形を失っていく。
頬から上を黒い外殻が覆い隠し、横一直線に並んだ複数の赤い眼光が開いた。
一つ一つが、獲物を測定する照準器のように明滅する。
背中からは、処刑人の外套を思わせる黒布が垂れ下がっていた。
しかし、その下にあるのは人間の背ではない。
脊椎のような外骨格が露出し、赤い光を脈打たせている。
足元の地面が沈む。
ただ立っているだけで、周囲のコンクリートに亀裂が走っていた。
存在そのものが、空間へ圧力をかけている。
「……なに、あれ……」
燈莉は言葉にした瞬間、理解する。
これは融合体ではない。
もっと別の何か。
人型を保っていた今までが、異常だったのだ。
天使は双剣を構え直す。
十数の目が、異形を見据えていた。
『来るぞ』
ネヴ=ソスの声。
直後、グラ=ゼルの姿が消えた。
巨体とは思えない速度。
爆音と共に地面が陥没し、黒い巨影が目前へ迫る。
そして、長柄の大槌が天使へ振り下ろされた。
天使は咄嗟に後ろへ飛び、大槌の一撃を避ける。
その一撃で地面は陥没し、大槌が砕いた周辺の土壌が壁のように盛り上がる。
突然隆起した地形に天使は持ち上げられ、宙を舞った。
『危機的状況だ。 防御に全振りしろ』
十数の目が一斉に一方向を向く。
視線の先には宙を飛ぶグラ=ゼルが映っていた。
そのまま大槌を一振り。
天使は咄嗟に身構えるが、刃状の手甲が完全に砕かれた。
そのまま衝撃が全身をくまなく巡る。
叩き落とされた天使は、亀裂が身体中に走るような感覚に悶え苦しむ。
身体はすぐさま再生を始めるが、格の違いそのものに天使は追い詰められる感覚を味わった。
グラ=ゼルが一気に距離を詰める。
すぐに距離を取るため、立ち上がりながら地を蹴り後ろへ飛ぶ。
そのまま光速で移動し、双剣を構える。
「そんな手が、私に通用するとでも考えていたのか?」
グラ=ゼルは大槌を自身の周囲を埋め尽くすように振り回した。
光速には届かない。
だが、当たれば終わりの暴威が空間そのものを埋め尽くしていた。
天使は再び距離を取った。
そして思考する。
剣を投げたところで、タイミングが合わなければ大槌に阻まれる。
答えが出ない。
「天使よ。 出ないのならば、こちらから行くぞ」
グラ=ゼルは再び大槌を構える。
走り出すのは時間の問題だった。
天使は再び光速で移動するが、グラ=ゼルは大槌を振るったまま向かってきた。
このままでは対抗策が無い。
『まずいな』
ネヴ=ソスの声には、焦燥が混じっていた。
燈莉は二人の戦いを見ていた。
自分が入り込める余地があるのかどうか。
このまま見ていれば、澄羽はあの女に負ける。
「適応進化」
燈莉の視界が変わる。
だが相変わらず、天使も大槌の軌道も解析することができなかった。
しかし、燈莉は大槌の軌道を注視した。
大槌が振るわれるたび、空気が押しつぶされ、大槌に続くように空気が引っ張られる。
(そっか……視点を変えれば行ける…!!)
燈莉はグラ=ゼル周辺の空気の流れを伺った。
そして、微かな間。
空気が引っ張られてる位置、大槌が既に通り過ぎた地点。
そこを狙った。
燈莉の身体が右腕から融合体へ変化していく。
その右腕にはドリルが生成されていた。
「殲滅螺旋……!」
ドリルが一直線にグラ=ゼルへ突き進む。
グラ=ゼルが気づいた時には、そのドリルは眼前まで迫っていた。
グラ=ゼルの赤い目が、僅かに見開かれた。
直撃。
貫通には至らない。
だが、黒鉄の装甲を抉り、肉を削り取ることには成功した。
グラ=ゼルの身体が少し揺らぐ。
天使は一瞬だけ燈莉を見た。
『今だ』
天使は双剣を削られた体表に突き刺し、そのまま斬り裂く。
かなりのダメージを与えることに成功した。
グラ=ゼルが不敵な笑みを浮かべる。
「やるじゃないか」
そのまま大槌を横に振った。
間合いの範囲内、回避は不可能だ。
その時だった。
「構造崩壊!!」
燈莉の声の直後、大槌が回転しながら宙を舞った。
グラ=ゼルが両手を見ると、親指と小指が付け根ごと崩壊していた。
力に差があっても、一部に全力を込めれば崩壊させることは可能だった。
天使は燈莉に感謝しながら剣を投擲し、グラ=ゼルの胸に深々と突き刺す。
そして空高く舞い上がった。
グラ=ゼルは激痛を感じながらも剣を抜こうと試みた。
それが時間稼ぎとなった。
月を背に飛び上がった天使は、片足にエネルギーを集中させる。
片足を突き出し、落下する。
「終わりだ」
グラ=ゼルは剣を抜きながら理解する。
間に合わない。
回避も、防御も。
この一撃だけは――受け切れない。
だが、その瞬間。
音が、割り込んだ。
遠くからではない。
すぐ近くで、突然鳴った。
空気を裂くようなエンジン音だった。
「あれは……!」
燈莉が目を見開く。
次の瞬間、それは現れた。
黒い機体。
鋭く研ぎ澄まされたようなフォルム。
バイクだ。
前輪が上がった状態で空中を飛びながら、戦場に割り込む。
天使のキックが、バイクに直撃する。
だが――
金属音が響き、火花が散る。
それだけだった。
必殺のキックは、横から叩きつけられたバイクのフレームによって弾かれていた。
天使の身体がわずかに押し返される。
あり得ない現象だった。
その一撃は、明らかに通るはずのものだった。
それが――
ただの物体に止められた。
バイクはそのまま空中で姿勢を変え、地面へと着地する。
鈍い音と共に、砂塵が舞い上がる。
砂塵が晴れ、その中から姿が現れる。
長い外套を揺らしながら、青年がバイクに跨ったまま顔を上げる。
ヘルメットのバイザーを上げ、天使を直視した。
誰も、動かない。
空気が、違う。
戦場の流れそのものが、別のものに書き換わったような感覚。
グラ=ゼルが、わずかに目を見開いた。
無意識に、拳に力が入る。
「……お前は」
その声には、初めて明確な変化があった。
青年は答えない。
ただ、天使を見る。
じっと。
観察するでもなく、測るでもなく。
知っているものを見る視線。
そして、青年は小さく口を開いた。
「……またな、白鷺澄羽」
次の瞬間、エンジンが唸る。
バイクが地面を蹴り、一直線に走り出す。
――気づけば、もう数十メートル先にいる。
あまりにも一瞬。
誰も、追えない。
残されたのは、静寂だけだった。
「……あれは……何……?」
燈莉の声が、わずかに震える。
返答はない。
天使は、動かない。
その視線だけが、男が消えた先を追っていた。
そして。
「……いない」
燈莉が呟く。
その言葉で、ようやく気づく。
グラ=ゼルの姿が、消えていた。
静寂が、河原を包んでいた。
先ほどまでの激突が嘘のように、風だけが草を揺らしている。
やがて、白い巨躯が崩れるように縮み、天使は人間の姿へ戻った。
澄羽は膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。
「あっ……」
燈莉も慌てて融合を解除した。
変化が解け、元の姿へ戻る。
互いに傷だらけだった。
しばらく、誰も喋らない。
遠くで、川の流れる音だけが聞こえていた。
「……終わった、のかな」
燈莉が、小さく呟く。
澄羽は息を整えながら、空を見上げた。
「……多分」
その返事は、どこか曖昧だった。
終わったとは思えない。
また来る。
きっと、もっと恐ろしい何かが。
リクス=ヴァイア。
トゥ=レイヴ
グラ=ゼル。
そして、あの青年。
知らないものばかりだ。
それでも。
今だけは、少しだけ肩の力を抜けた。
燈莉は、自分の掌を見る。
それは震えていた。
正直、怖かった。
今も怖い。
A.E.O.I.の隊員として、本来なら天使を排除しなければいけない。
でも、自分は澄羽を守ろうとした。
澄羽も、自分を守った。
その事実だけは、もう誤魔化せない。
「……私」
燈莉が口を開く。
「まだ、どうすればいいのか分かりません」
澄羽は黙って聞いていた。
「A.E.O.I.を辞めるつもりは、ありません」
その声には、迷いがあった。
だが、逃げではない。
「大事な人を失いたくないって、決めたから。
でも」
燈莉は、ゆっくりと顔を上げる。
「白鷺さんを、敵だとも思えなくなりました」
真っ直ぐな言葉だった。
「だから私は……」
一度、言葉を止める。
覚悟を決めるように。
「A.E.O.I.に残ったまま、あなたを助けます」
風が吹き、長い髪が揺れた。
「隊員として見るものも、あると思うから」
内部にいるからこそ分かること。
止められるもの。
動ける場面。
それがきっと、ある。
燈莉は俯かなかった。
逃げるような目もしていない。
ただ、不器用なまま立っていた。
澄羽は、少しだけ目を丸くする。
それから。
ふっと、小さく笑った。
「……そっか」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
燈莉は少し不満そうに眉を下げる。
「もっとこう……あるじゃないですか」
「例えば?」
「裏切るかもしれないとか……警戒するとか……」
澄羽は少し考えて。
「……燈莉って、そういうの苦手そうだし」
「それは否定できませんけど……!」
思わず言い返してしまう。
その瞬間、二人の間に少しだけ笑いが生まれた。
ほんの僅か。
けれど、確かに。
戦いの中では生まれなかった空気だった。
澄羽は立ち上がる。
まだ傷は痛む。
それでも、前より軽かった。
燈莉も続いて立ち上がった。
夜風が、二人の間を通り抜ける。
澄羽は少しだけ視線を逸らしながら。
「……じゃあ、これからよろしく」
と、小さく言った。
燈莉は、一瞬目を丸くして。
それから、少しだけ笑う。
「はい。 よろしくお願いします、白鷺さん」
敵でもなく。
完全な味方でもなく。
それでも。
確かに二人は、同じ方向を見始めていた。
寝静まった住宅街。
本来なら、とっくに補導されていてもおかしくない時間帯。
澄羽は、一人で帰路を歩いていた。
この戦いは、いつまで続くのかは分からない。
それでも、敵が共通しているのなら。
少し前みたいに、誰かと協力できるのなら。
仲間がいるということは——
きっと、悪いことじゃない。
家までは、あと少し。
坂を登り、少し進めば、右に曲がるだけ。
澄羽は静かに坂を登り切る。
その瞬間だった。
街灯の下に、人影が立っていた。
「お久しぶりです。 白鷺さん」
聞き覚えのある声。
白い髪。
静かな瞳。
夜の中に溶け込むような青年。
葉狩シュウだった。
「……シュウさん」
澄羽が足を止める。
シュウはゆっくりと澄羽を見つめた。
まるで、何かを確認するように。
「少し、雰囲気が変わりましたね」
「……そうですか?」
「ええ」
短く答える。
感情があるようにも、無いようにも見える声。
だが、次に放たれた言葉だけは、妙に重かった。
「——仲間ができたからですか?」
澄羽の肩が、わずかに揺れる。
シュウは続ける。
「花守燈莉」
名前を呼ばれた瞬間、空気が少しだけ冷えた気がした。
「……見てたんですか」
「見ていた、というより」
シュウは静かに目を細める。
「知っていました」
その返答に、澄羽は何も言えない。
シュウは街灯の光から半歩だけ外れ、その影が深くなる。
「以前、言いましたよね」
穏やかな声だった。
だからこそ、余計に怖い。
「立ちはだかる者は、全て排除しなければならないと」
「……」
「それなのに、貴女は手を取った」
責める口調ではない。
失望でもない。
ただ、確認している。
その事実が、澄羽には重かった。
「……だって」
澄羽は小さく俯く。
「燈莉は、敵じゃなかったから」
シュウは少しだけ沈黙した。
夜風が吹く。
住宅街の木々が揺れる。
やがて。
「そうですか」
とだけ、彼は呟いた。
その声には、ほんの僅かに諦めにも似た色が混ざっていた。
「ですが、覚えておいてください」
シュウの瞳が、真っ直ぐ澄羽を捉える。
「貴女は、いずれ選ぶことになります」
静かな声。
なのに、逃げ場が無かった。
「守りたいものを斬るか」
「——斬られて、全てを失うか」
澄羽の呼吸が止まる。
シュウはそれ以上何も言わなかった。
ただ、静かに横を通り過ぎる。
すれ違う瞬間。
「……貴女は、優しすぎます」
小さく、そう零した。
その言葉だけを残して。
葉狩シュウは、夜の向こうへ消えていった。
その夜風は、どこか未来の匂いがした。




