第0話・中編:外宇宙
境界でネヴ=ソスは違和感を覚えた。
この場所は「境界」という呼び名には似つかわしくない。
そこは、無数の構造を孕んだ領域だった。
視界の至るところに、円環構造が上下に積層し、果てなく連なる塔が存在している。
その塔は上下のみならず、左右、斜め、分割されたあらゆる方向へと枝分かれしながら、未来へ向かってもなお増殖していく。
それに呼応するかのように、領域そのものも拡張を続けていた。
ネヴ=ソスは一つの塔へと近づき、円環構造を注視する。
それらはどうやら内宇宙らしい。
外宇宙に比肩するものではない。
しかし内側の論理では到底把握しきれない規模の宇宙が、そこには折り重なっている。
それぞれはフラクタルのように集合し、また一つの巨大構造を形成する。
その構造自体が、さらに同様の様式で反復されている。
無限の自己複製。
ネヴ=ソスは内宇宙を覗き込もうとする。
だが同時に、この塔がなぜ塔という形状を取っているのか――その疑問が新たな興味を呼び起こした。
しかし次の瞬間、急速に肥大する構造から距離を取らざるを得なくなる。
瞬きを終えた時には、塔は視界を埋め尽くすほどに成長していた。
ネヴ=ソスは僅かな恐怖を覚え、観測対象を別の塔へと切り替えると、十分な距離を確保して停止した。
その時。
塔を構成する無数の多元宇宙の中の、さらに一つ。
超越的規模の構造の中で、逆説的に極小にも見える単一宇宙。
ネヴ=ソスの視線は、そこに吸い寄せられた。
先ほどまでの興味は塗り替えられる。
彼は速度を調整しながら、その内宇宙へ飛び込もうと試みた。
外宇宙の存在であっても、自身は決して巨大ではない――その事実を自覚しながら。
結果は、半分成功で、半分失敗だった。
ネヴ=ソスは目指していた宇宙の、三つ隣へと落下する。
内宇宙が、ネヴ=ソスに絡みつく。
外宇宙の存在にとって、それは圧迫であり、侵食であり、不快と呼ぶべき感覚だろう。
いま、ネヴ=ソスはそれを体験していた。
だが同時に、どこか懐かしさにも似た安堵があった。
「これが、内宇宙……」
境界を越えたばかりのネヴ=ソスは、外宇宙にいた時と同じように、宇宙の流れへ身を委ねることにした。
流れに身を任せたネヴ=ソスは、光の群れが進んでいる光景を目にした。
それは内宇宙に属する文明の艦隊だった。
多元座標を固定し、宇宙間航行を可能とする殻を纏った小型偵察機群。
彼らは他宇宙の観測と資源座標の確定を任務としている。
そのうちの一機が、異常を検知した。
空間密度の揺らぎ。
観測値に現れない質量。
因果律の外縁に触れる影。
報告を交わす艦隊を、ネヴ=ソスは視認する。
微細な金属構造。
内部に、生命反応。
内宇宙文明。
彼は速度を落とす。
興味が、静かに塗り替えられていく。
塔の構造でも、フラクタルでもない。
それよりも遥かに小さな、しかし確かに意志を持つ存在。
近づき、観測する。
偵察機の装甲が軋む。
外宇宙存在の位相と、内宇宙物質の定義が一致しない。
次の瞬間。
偵察機は、光も音も残さず崩壊した。
爆発ではない。
蒸発でもない。
存在座標が、耐えきれず解けた。
内部の搭乗員も、同様に。
ネヴ=ソスは停止する。
「……脆い」
意図はなかった。
ただ、距離が近すぎた。
だがその消失は、艦隊本体へと即座に伝播する。
警告信号が多元空間に放射される。
座標固定アンカーが展開され、艦隊が陣形を変えて砲口を向ける。
ネヴ=ソスは、その振動を受け取った。
それは意味を持っていた。
規則的な波形。
情報の塊。
理解不能のはずの振動が、わずかに形を成す。
「――――」
言語。
その概念が、内側で揺れる。
この種族は、どこか懐かしい。
だが次の瞬間。
多元位相砲が発射された。
因果を遡る衝撃が、ネヴ=ソスの外殻を掠める。
彼は初めて明確な攻撃を受けた。
ネヴ=ソスは驚愕した。
内宇宙文明が、外宇宙存在へ牙を向ける。
理解が追いつかない。
だが艦隊は躊躇しない。
第二射、第三射と宇宙の闇を衝撃が飛び、空間が焼ける。
ネヴ=ソスは後退し、逃走した。
その選択は反射的だった。
だが逃走方向は、偶然にも――
彼が目指していた宇宙。
そこには、さらに大規模な艦隊が展開していた。
多元航行母艦群。
数百、数千と、集まっている。
ネヴ=ソスは囲まれた。
内宇宙文明。
人間。
その形状が、より鮮明になる。
直立二足。
有機的構造。
内部に脆弱な生命核。
そして。
言語波形が、かつて触れた記憶の残滓を揺らす。
「……人間……?」
その単語は、完全ではない。
だが、確かに響いた。
次の斉射が放たれる。
ネヴ=ソスは、初めて危機を認識する。
多元座標が封鎖される。
位相固定アンカーが展開され、逃走経路が削られていく。
内宇宙文明の艦隊は増殖するように現れた。
空間の裂け目から、母艦級の構造体が次々と姿を現す。
砲口が、全方向からネヴ=ソスを捉える。
因果逆算式兵装。
位相崩壊弾頭。
内宇宙の技術としては、異常な水準だった。
第二斉射。
衝撃が外殻を震わせる。
内宇宙という環境下では、外宇宙存在である彼の定義は完全ではない。
干渉は、無視できない強度を持つ。
「……理解不能だ」
敵意を向けられている。
しかも――人間に。
懐かしさと危機認識が同時に発生する。
その瞬間、背後の空間が静かに歪んだ。
音はない。
光もない。
ただ、位相が重なる。
「兄上」
その振動は、外宇宙由来。
ネヴ=ソティア=ルゥ。
彼女は砲撃の軌道の隙間に立っていた。
まるで最初からそこに存在していたかのように。
艦隊は彼女を認識していない。
観測器は外宇宙存在の完全な把握に失敗している。
ネヴ=ソスは振り向く。
「……追ってきたのか」
「観測していただけよ」
即答。
感情の起伏はない。
だが彼女の外殻には、微細な歪みが生じている。
この内宇宙環境は、彼女にも負荷を与えている証拠だった。
第三斉射。
ネヴ=ソティア=ルゥが片手をかざす。
因果がわずかに逸れる。
砲撃はネヴ=ソスの外殻を掠め、背後の空間へと流れた。
「このままでは包囲が完成するわ」
「……人間だ」
ネヴ=ソスの視線は艦隊に向けられたままだった。
「この種族は……どこか、記憶の縁に触れる」
「内宇宙の生命体にすぎない、そうでしょう?」
淡々とした訂正。
「兄上が観測する必要はないわ」
一瞬の沈黙。
砲撃の光だけが、周囲の暗黒を断続的に照らす。
「二手に別れた方が良いかもしれないわ」
ネヴ=ソティア=ルゥが続ける。
「兄上は外宇宙側へ退避を。
私は多元宇宙を経由し、別方向へ離脱する」
「お前を追う可能性が高い」
「問題無いわ」
即答だった。
その瞬間、さらに巨大な母艦が座標を固定する。
数百規模にもなる多元航行母艦。
封鎖は、ほぼ完成していた。
「あの宇宙を目指していたのでしょう?」
ネヴ=ソティア=ルゥが僅かに視線を向ける。
「兄上が特別視している宇宙」
ネヴ=ソスは否定しない。
なぜ特別なのか、理由は不明。
だが確かに、他の内宇宙とは異なる。
「ならば、尚更」
ネヴ=ソティア=ルゥの外殻が淡く発光する。
「ここで消されるわけにはいかないわね」
次の瞬間。
彼女が位相を拡張する。
艦隊の一部が、観測不能領域に引きずり込まれる。
砲撃が集中する。
空間が裂ける。
「行って、兄上」
初めて、わずかに声が低くなる。
「外宇宙へ」
ネヴ=ソスは一瞬、静止する。
内宇宙の艦隊、人間、懐かしさ。
そして、目指していた宇宙。
「……生存を優先する」
外宇宙側へ位相転換。
ネヴ=ソスが包囲の隙間を抜ける。
その直後、複数の砲撃がネヴ=ソティア=ルゥへ直撃する。
彼女の外殻が破断する。
位相が乱れる。
それでも彼女は崩れない。
「兄上」
最後の通信。
「また、後ほど」
彼女は内宇宙側へ転位する。
艦隊の主力が追撃する。
その軌道は、一つの宇宙へと向かっていた。
ネヴ=ソスは境界の縁で振り返る。
内宇宙の戦火が、点のように瞬いている。
そして初めて、明確な感情が生じる。
焦燥だった。
外宇宙へと退いた瞬間、音はなかった。
光もない。
距離という概念も、すでに意味を持たない。
数も、時間も、因果も、定義の段階で崩れている。
ネヴ=ソスはその深層へ戻る。
だが、静止は許されなかった。
わずかな偏りが生じている。
外宇宙の均衡に、微細な乱れ。
それは彼の行動に由来していた。
内宇宙文明との接触、消滅、敵意の誘発。
そして――
ネヴ=ソティア=ルゥの離脱。
彼女の位相は、今や外宇宙の主層に存在しない。
欠落、その事実が静かに波紋を広げる。
ネヴ=ソスは無数の視線を観測する。
だが視線ではない。
裁きのようだが裁きでもない。
それは、外宇宙という構造そのものの自己修正。
優位個体の損耗、秘匿の破綻、侵攻性を持つ内宇宙文明への露呈。
それらは「危険」という言語に近い。
外宇宙の塵一つに満たない出来事であっても、反復すれば偏りとなる。
偏りは、いずれ崩壊を生む。
ゆえに、修正が必要と判断された。
誰が判断したわけでもない。
総意と呼ぶには曖昧で、自然現象と呼ぶには意思に近い。
ネヴ=ソスの位相が、ゆっくりと固定される。
拘束ではないが、自由でもない。
「……ソティア」
その名は、外宇宙にとって無意味な振動。
だが彼の内部では確かに形を持っていた。
外宇宙の深層で、より高位の構造が揺らぐ。
次期皇位継承体。
だが最適解ではない。
より優れた存在は、現在主層に不在。
その事実は、わずかな誤差を生む。
誤差は許容範囲を超えてはいない。
だが無視もできない。
内宇宙文明、人間。
侵攻し、領域を拡張する生命体。
彼らはすでに外宇宙存在を観測している。
完全ではないが痕跡は残った。
それは未来において反復され得る。
外宇宙は、秘匿によって安定している。
露呈は、揺らぎを生む。
揺らぎは、増幅する。
ゆえに、ネヴ=ソスの活動は停止される。
命令ではなく罰でもなく、均衡の回復のために。
彼の意識が、一つずつ沈んでいく。
時間という概念は存在しないが、内宇宙基準に換算すれば――約三年。
その程度の静止。
最後に浮かんだのは、一つの宇宙の像。
なぜ特別なのか、理由は不明。
だが確かに、そこへ向かっていた。
その宇宙で、何かが待っている。
そう判断したわけではない。
意識が閉じる。
外宇宙は再び均衡を取り戻す。
ネヴ=ソスは、沈黙する。
そしてその頃。
多元宇宙を越え、損耗した一つの存在が一つの宇宙の重力圏へと落ちていく。
それを、彼は知ることができない。




