第16話:虚界の牙
訓練室の床が、ひび割れていた。
玲司の足元から放たれた歪みが、空間を削り取る。
空気が軋み、数メートル先に設置された装甲板の一部が音もなく消えた。
破壊ではない。
そこだけが、存在ごと抜け落ちる。
「出力、三割で安定」
機械の音声が響く。
だが次の瞬間、歪みが拡大する。
床面が連鎖的に裂け、玲司の右腕に黒い亀裂が走った。
「っ……!」
膝をつく。
亀裂は皮膚の表面に浮かび上がり、赤い光を帯びている。
サーベラスが、内側から唸る。
『足りない』
そんな錯覚。
「……黙っていろ」
息を整える。
歪みが収束する。
「今日はここまでにしますか?」
通信越しの声。
玲司は立ち上がる。
「いや、まだ――」
その時。
強化ガラスの窓越しに廊下の壁面モニターの映像が目に止まった。
白雨市の様子だ。
炎上する街区、複数の融合体、その中央で戦う細身の刃…。
燈莉だった。
有機融合体が跳躍する。
彼女の身体が弾き飛ばされる。
玲司の呼吸が止まる。
モニターが拡大する。
燈莉は立ち上がるが、敵は増えている。
囲まれている。
その瞬間。
胸の奥で、何かが強く脈打った。
サーベラスが、戦場の匂いに反応する。
視界の端が歪む。
白雨市の座標が、立体的に浮かび上がる。
距離、空間構造、到達可能性。
全てが鮮明に見えてきた。
――焦りは、制御を狂わせる。
ローゼの声が、記憶の中で蘇る。
衝動に弱い、自分を後回しにする。
だが――
モニターの中で、燈莉の刃が弾かれる。
戦闘員が倒れる。
通信が乱れる。
胸の奥で、獣が嗤う。
玲司の中で、何かが決壊した。
右腕の亀裂が広がり、血が滲んだ。
そして、空間が軋む。
虚界穿孔ではない。
もっと繊細に、もっと限定的に。
向こう側へ穴を開けるのではなく、向こう側へ踏み込む。
空間の表層をなぞる。
鏡面のように揺れる界面を、強制的に開く。
「――鏡界侵入」
前方の空間に、縦の裂け目が走る。
その向こうに見えるのは、白雨市の炎。
不安定だ。
亀裂が肩まで広がる。
意識が揺れる。
それでも、踏み込んだ。
裂け目が閉じる。
訓練室には、ひび割れた床と沈黙だけが残った。
有機融合体の爪が、燈莉へ振り下ろされる。
受け止めきれない。
その瞬間。
空間が、縦に裂けた。
音はない。
だが、世界が一瞬だけ静止した。
怪物の腕の一部が、突然消える。
切断ではなく、削除。
まるで存在が抜け落ちたように。
燈莉が目を見開く。
「……玲司?」
裂け目から、玲司が踏み出す。
右腕には黒い亀裂。
頬まで広がっている。
「遅れた」
短く、それだけ言う。
有機融合体が咆哮し、後退する。
多脚機械型が壁面から跳躍。
玲司は腕を振る。
虚界穿孔。
歪みが走る。
だが制御が甘く、地面まで抉れる。
「玲司、出力を落として!」
燈莉が叫ぶ。
「分かってる……!」
息が荒い。
亀裂がさらに広がり、血が滴る。
多脚機械型が建物の壁面を走る。
上から急降下。
玲司が歪みを上に放つが、軌道がぶれ、外れる。
燈莉が前へ出る。
ブレードを逆手に持ち替える。
「解析完了」
視界に走る補助線。
関節部。
負荷集中点。
だが――違う。
ただ斬るのでは足りない。
カイメラが脈打つ。
敵の内部応力が、数値として浮かぶ。
燈莉は刃を浅く滑らせる。
貫かず、接触だけ。
「――構造崩壊」
刹那、多脚機械型の脚部内部で応力が暴走する。
金属が内側から弾け、関節が逆方向に折れる。
そのまま地面へ落下した。
玲司が目を見開く。
「今のは……」
「玲司のおかげで、読めた」
後退していた有機融合体が咆哮。
燈莉が踏み込む。
敵の腕をブレードで受け流し、融合部へ一閃。
同時に構造崩壊を発動し、肉と金属の境界を裂く。
だが残りはまだいる。
そして、奥からさらに大型個体が姿を現す。
玲司の呼吸が荒くなる。
亀裂が目元まで伸びる。
燈莉が横目で見る。
「それ以上は危険よ」
「……分かってる」
だが、立ち止まらない。
燈莉が横に並び、細身ブレードを構える。
「玲司が削って」
「燈莉が断て」
一瞬だけ視線が交差する。
有機融合体が突進。
それに合わせて玲司が空間を抉る。
敵の装甲が歪み、内部構造が露出する。
その刹那、燈莉が踏み込む。
刃が弱点を正確に断ち切る。
一体、崩壊。
だが、残りは三。
多脚型が同時に襲いかかる。
玲司の視界が赤く染まり、サーベラスが嗤う。
『噛み砕け』
膝が震える。
だが、今は飲まれない。
「……これで終わらせる」
右腕の亀裂が、光を帯びる。
空間が唸る。
虚界穿孔とは違う。
穴を開けるのではない。
牙を形成する。
歪みが収束し、鋭い三日月状の裂断線が生まれる。
対象を捉え、噛み付くように閉じる構造。
「――虚界牙断」
放たれた瞬間。
空間が横薙ぎに咬み砕かれる。
融合体三体の中枢が同時に削り取られる。
数秒遅れて、巨体が崩れ落ちた。
砂塵が舞う。
玲司の頬から、亀裂が眼球にまで伸びる。
玲司は膝をついた。
「玲司!」
「……大丈夫だ」
声は掠れている。
だが、意識は保っている。
燈莉は周囲を確認する。
敵反応、消失。
白雨市の空に、ようやく静寂が戻る。
煙はまだ薄く漂っていた。
崩れたビルの影で、戦闘員たちが負傷者を搬送している。
「こちら三班、民間人二名保護。軽傷」
「北区画、反応なし。逃げ遅れは確認されず」
燈莉は瓦礫を跨ぎながら、熱源スキャンを走らせる。
カイメラの補助視界に、生命反応が淡く浮かぶ。
人間。
怪物反応は消失。
燈莉は小さく息を吐く。
少し離れた場所で、玲司が壁にもたれて座っている。
体中の亀裂は、まだ消えていない。
医療班が簡易処置を施している。
燈莉は歩み寄る。
「無理をしたね」
「そっちもな」
短い会話。
それ以上は言わない。
任務はまだ終わっていない。
その時、端末が震えた。
《燈朝市北病院》
燈莉の指先が、わずかに止まる。
こんな時間に。
胸の奥が、嫌な予感で冷える。
だがすぐに通話を開く。
「……花守です」
『燈朝市北病院の者です。花守様のご家族についてお伝えすることがあります』
心臓が強く打つ。
周囲の音が遠のく。
『お父様とお母様の意識が、先ほど回復されました』
時間が、止まった。
「……え」
『現在は会話は困難ですが、呼びかけへの反応を確認しております。容体は安定しています』
燈莉は言葉を失い、視界を滲ませる。
戦場に立っていることを、一瞬忘れる。
「……本当に?」
『はい。どなたかご家族の方が来院されましたら、医師からも詳しい説明をします』
喉が詰まる。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、通話を終える。
端末を握る手が、震えている。
瓦礫の街、焦げた匂い。
その中で、胸の奥に温度が灯る。
生きている。
戻ってきた。
「……よかった」
誰に向けた言葉でもない。
玲司が、遠くからそれを見る。
何も聞かない。
だが、燈莉の表情が戦闘時とは違うことだけは分かった。
燈莉は端末を開く。
連絡先一覧。
《美空お姉ちゃん》
数秒、迷う。
今は夜。
だが、知らせない理由はない。
メッセージを打つ。
『病院から電話があったんだけど、お父さんとお母さんの意識が戻ったって! 容体は安定してるから来てほしいって!』
送信。
既読がつくまでの時間が、やけに長い。
やがて返信。
『ほんとに?』
『任務が終わってないから美空行ける?』
『今すぐ行くね』
燈莉は空を見上げる。
白雨市の空は、ようやく静まりつつある。
「……行きたいけど」
事後処理はまだ続いている。
報告、封鎖、残留反応確認。
隊員としての責務。
娘としての願い。
その狭間で、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
「美空、お願い」
小さく呟く。
その時、第三班連絡係に通信が入る。
『こちら索敵班。融合体反応一件、完全消失を確認できず』
燈莉の目が開く。
『逃走の可能性あり。進行方向……』
数秒の間。
『燈朝市北方面』




