第14話:見えてしまったもの
暗い空だった。
星も、月もない。
ただ、冷たい風だけが吹いている。
その中心に――天使が立っていた。
その前に立つのは、数人の人影。
一人は、見覚えがある。
……玲司。
もう一人は、燈莉。
どうして。
どうして二人が、あの天使と向き合っているの?
その隣に、知らない少女がいた。
長い髪。
黒に近い衣服。
静かに微笑んでいる。
その微笑みが、なぜか一番恐ろしかった。
空気が重い。
今にも、何かが始まる。
やめて。
声を出そうとするのに、喉が震えるだけで音にならない。
足も動かない。
天使が、俯いた。
その表情は、苦しそうで。
迷っているようで。
――戦いたくないと、言っているみたいで。
けれど。
ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間。
一瞬だけ。
天使の視線が、こちらを向いた。
……え?
気のせい?
いや、違う。
確かに、目が合った。
悲しそうな瞳。
でも、その奥に、覚悟が宿る。
ごめん、と言われた気がした。
次の瞬間。
その表情は、決心へと変わる。
玲司の周囲に歪みが走る。
燈莉の腕が振り上げられる。
少女が、何かを囁く。
天使の翼状の突起が大きく広がる。
光と闇が、ぶつかり合う――
その直前。
世界が、ひび割れた。
――――――――――――――――――――――
美空は息を詰めたまま、はっと目を開いた。
視界いっぱいに広がるのは、見慣れた天井。
残骸となったカーテン越しの光が、夢の残滓を押し流そうとする。
心臓の音だけが、やけにうるさかった。
夢だった。
そう思えるだけの材料は、いくらでもある。
戦う理由も、あの場に玲司や燈莉がいる理由も、何一つ分からない。
見知らぬ少女がそこにいたことも含めて、現実味なんてどこにもなかった。
それでも。
天使の表情だけが、頭から離れなかった。
苦しむように歪んだ顔が、ほんの一瞬、決意に変わる。
その狭間で、確かにこちらを見た気がした。
夢の中の天使は、戦う直前、ほんの一瞬だけ動きを止めていた。
迷っているようにも、何かを覚悟しているようにも見えた、その横顔。
強さとは不釣り合いなほど、人間らしい表情だった。
――どこかで、見たことがある。
そう思った瞬間、胸の奥が、きゅっと縮まる。
理由は分からない。
名前を結びつけることも、正体を疑うこともできない。
それでも。
何かを一人で決めようとするときの、あの間。
無理に前を向こうとする、あの目。
記憶の中の澄羽の姿が、勝手に浮かんできた。
「……なんで」
呟いて、美空は首を振る。
天使と澄羽が結びつくはずがない。考えすぎだと、自分でも分かっている。
けれど、浮かんでしまったものは、消えてくれなかった。
澄羽は、今どこで、何をしているのだろう。
確かめなければいけない理由なんて、どこにもない。
それでも、美空は思った。
――澄羽に会わないと。
夢で見たあの光景が、何度も頭の中で流れては消えない。
靴を履くと、美空は衝動のまま駆け出していた。
立ち入り禁止のテープを越え、被害がほとんど残っていない住宅地へ。
息が切れても、足を止めることはなかった。
朝日が差し込む道を、すれ違う学生たちは皆、反対方向へ歩いていく。
誰の視線も気に留めず、美空は走り続けた。
そして——澄羽の家の前に立っていた。
玄関の前に立ったまま、美空は息を整えた。
インターホンに手を伸ばしかけて、ためらう。
——澄羽は、いるのだろうか。
その時だった。
「……誰ですか」
低く、落ち着いた声。
振り返ると、そこには見知らぬ女性が立っていた。
長い黒髪。
どこか現実離れした雰囲気を纏いながらも、視線だけは鋭く、美空をまっすぐ捉えている。
「あ……えっと……」
言葉に詰まる美空を、女性は一瞬観察するように見つめてから、静かに口を開いた。
「……あなた、澄羽とどういう関係ですか?」
唐突な問いだった。
責める調子ではない。
けれど、距離を測るような、はっきりとした線がそこにあった。
「クラスメイト、です」
美空は正直に答えた。
「それで……その……」
続けようとして、言葉が見つからない。
夢のことも、理由も、うまく説明できない。
ただ、胸の奥に残っている不安だけが、どうしても消えなかった。
女性は、美空の言葉を遮らずに聞いていた。
「……心配で、来ました。理由は、ちゃんと分からないんですけど……」
しばらくの沈黙。
やがて、女性は小さく息を吐いた。
「そうですか」
その声には、わずかに柔らかさが混じっていた。
だが、次に続いた言葉は、はっきりとしていた。
「今は、会わせられません。……心配してくれているだけで、十分ですから。今日は、帰ってください」
拒絶ではない。
けれど、踏み込む余地も与えない声音だった。
美空は唇を噛みしめる。
「……わかりました」
それ以上、何も言えなかった。
女性は一度だけ、美空に視線を向ける。
「気をつけて」
それだけ言って白鷺夜美は玄関へと進み、静かに扉を閉めた。
その音が、家の中に小さく響いた。
夜美は、その場から動かなかった。
しばらく、玄関に立ったまま、何かを考えるように俯いている。
その時。
「……今の、誰?」
階段の上から、かすれた声が落ちてきた。
夜美は、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
「クラスメイトの子よ。心配して、来ただけ」
嘘は言っていない。
だが、全てを伝えることもしなかった。
少し間を置いて、澄羽の声が返ってくる。
「……そう」
それきりだった。
足音は聞こえない。
同時に、玄関の外では誰かの足音が遠ざかっていく。
それを、澄羽は見ることはできない。
ただ、誰かが、ここまで来た。
その事実だけが、胸の奥に残る。
廊下から部屋に戻ると、澄羽はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
外から聞こえていた足音はもうない。
誰かが来て、そして帰っていった――その事実だけが、遅れて胸に落ちてくる。
澄羽は、ゆっくりと自分の腕に視線を落とした。
そこには、何の異変も見当たらない。
赤みも、歪みも、記憶に残るはずの痕跡さえも。
指先でなぞると、確かな感触が返ってくる。
温度も、硬さも、あまりに普通だった。
「……ない」
思わず、声が零れた。
あれほど確かにあったものが、どこにもない。
失われたのか、作り替えられたのか、もはや判別もつかない。
視線が、自然と部屋の隅へと流れる。
使わない布団が、必要以上に重ねられている場所。
澄羽はそこに近づかない。
触れないし、確かめもしない。
それでも、空気の中に残る違和感だけが、確かにそこにあった。
忘れることを拒むように、静かに。
澄羽は布団から目を逸らし、もう一度、自分の身体を見る。
何も変わっていないように見える、その姿を。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉なのかも分からないまま、呟いた。
けれど、その言葉が空虚であることを、澄羽自身が一番よく分かっていた。
傷は消えた。
だが、それは癒えたわけではない。
澄羽は理解していた。
もう、傷つくことで確かめる必要すらないのだと。
自分は、戻れない場所まで来てしまったのだと。




