4-1 契約書と家族会議
契約というものは、紙の上に文字を並べただけでは成立しない。
署名する者の覚悟。守らせるための力。破ったときに失うもの。そして何より、その場にいる全員が、これはただの我儘ではなく必要な取り決めなのだと理解すること。
だからリディアは、三人だけで話を終わらせるつもりはなかった。
エルフォード伯爵家の大食堂が、臨時の会議室として使われることになったのは、それから五日後の朝である。長い卓の一方にはリディアとリディアの父であるエルフォード伯爵と伯爵夫人、兄のアルバートが座り、反対側にはグランヴィル侯爵、エリアス、そしてラングフォード子爵夫妻とセシリアが並んでいた。
人数だけを見れば、これは婚約のための顔合わせに見える。だが卓上に置かれているのは花束でも菓子折りでもなく、分厚い契約書の草案だった。
「まず確認しておきたい」
グランヴィル侯爵は低い声で言った。年齢を重ねた威厳のある人物だったが、その目には明らかな不満が浮かんでいる。
「エルフォード伯爵令嬢。貴女は本当に、このような奇妙な婚姻を望んでいるのか」
「はい。奇妙であることは承知しておりますが、私の望みは変わりません」
リディアは背筋を伸ばして答えた。病弱という噂に合わせた淡い色のドレスを着ているが、その声は少しも弱々しくない。
「婚姻後、寝室を共にせず、子も産まず、侯爵夫人としての役割を他家の令嬢に任せる。貴女はそれで侯爵夫人を名乗るつもりか」
「名乗る必要がある場では名乗ります。ですが、名を利用して権勢を求めるつもりはありません」
「では、何が欲しい」
「平穏です」
即答だった。
侯爵の眉間に深い皺が刻まれる。だが、リディアは怯まなかった。ここで曖昧に微笑めば、後になって都合よく解釈される。それだけは避けなければならない。
「私は出産を望みません。社交も望みません。夫婦としての愛情も求めません。その代わり、侯爵家が必要とする家格、婚姻の体裁、そして後継者を得る道筋を用意いたします」
「道筋、だと」
「はい。エリアス様は私と婚姻することで、侯爵家にふさわしい正妻を迎えたことになります。セシリア様は、表向きは私の代理として侯爵夫人の務めを果たす。将来生まれる子は侯爵家の子として育てられる。私は侯爵家の奥向きにも、エリアス様の私生活にも干渉しない」
淡々と並べられる条件に、ラングフォード子爵夫人が小さく息をのんだ。娘が愛する人のそばにいられるかもしれない。その安堵と、娘が背負う役目の重さ。その両方が、彼女の表情に滲んでいた。
「それは、セシリアを隠された愛人のように扱うということではありませんか」
子爵の声には、父親としての怒りが含まれていた。身分差ゆえに耐えてきた屈辱を、これ以上娘に負わせたくないのだろう。
「いいえ」
リディアは即座に否定し、契約書の一枚を卓上に滑らせた。
「ここに、セシリア様の保護条項を設けています。住居、生活費、使用人、医療、子の養育に関する発言権、万一の際の後見、そして侯爵家から不当に遠ざけられない権利。契約上、彼女は単なる愛人ではなく、侯爵家が責任を持って遇する人物となります」
セシリアは目を伏せた。その横顔は緊張で白くなっていたが、逃げ出す気配はない。
「お父様、お母様」
セシリアは両親へ向き直った。
「わたくしは、エリアス様のおそばにいたいのです。ただ都合よく隠されるだけならお断りします。けれどリディア様は、わたくしにも選ぶ権利があると言ってくださいました。だから、これはわたくしが選ぶ道です」
子爵夫人の目元が潤む。子爵は苦しげに唇を結び、それからエリアスを見た。
「グランヴィル侯爵子息。娘を泣かせるなら、たとえ相手が侯爵家であろうと許しません」
「誓います。私はセシリアを隠して恥じるつもりはありません。守るために隠すことはあっても、軽んじるために隠すことはしない」
その言葉に、グランヴィル侯爵が鼻を鳴らした。
「甘いな。貴族社会はそれほど都合よくできてはいない。噂が立てば終わりだ。侯爵家の名にも傷がつく」
「ですから、噂にならない形を整えます」
リディアはもう一枚の紙を差し出した。そこには婚姻式の段取り、病弱な花嫁という説明、厚いヴェールの使用、式後すぐの静養、領地の別邸への移動、その後の代理出席の理由までが細かく書き込まれていた。
「私は社交界に顔を知られておりません。病弱であるという噂はすでにあります。婚姻式ではヴェールを用い、式後は療養を理由に領地へ下がる。侯爵夫人としての外向きの務めは、体調に配慮した代理出席という形を取ればよいでしょう」
「そこまで考えていたのか」
エルフォード伯爵が呻くように言った。父の声には呆れと心配、そしてわずかな誇らしさが混じっている。
「何も対策を考えずに結婚する方が、後から怖いですもの」




