4-2 契約書と家族会議
リディアの返事に、兄アルバートがとうとう堪えきれず笑った。
「妹ながら、恐ろしいほど現実的です」
「笑いごとではないぞ、アルバート」
「分かっております、父上。ですが、少なくともリディアは自分の人生を他人任せにはしていません」
その言葉に、リディアは少しだけ目を伏せた。家族に心配をかけている自覚はある。けれど、だからといって黙って差し出されるつもりはなかった。
会議は長く続いた。支度金は侯爵家から伯爵家へ相場より多めに支払われること。リディア個人にも十分な年金が与えられること。領地の別邸は彼女の終身使用を認めること。使用人は侯爵家の者を置くが、リディアの意向を最優先すること。セシリアの身分は公には明かされないものの、侯爵家内部では正当な保護対象とすること。
さらに、子が生まれた場合の扱いについては最も時間がかかった。
「血筋は問題ない。だが、届け出上はリディア嬢の子となる」
グランヴィル侯爵の言葉に、セシリアの肩がわずかに揺れた。
「書類上はそのようになります」
リディアは静かに頷いた。
「ですが、養育に関する日々の判断はセシリア様を尊重してください。私は、母親の座まで奪うつもりはありません」
セシリアは驚いたようにリディアを見た。言葉を探し、結局何も言えずに頭を下げる。その沈黙だけで十分だった。
「これでは、侯爵家の秘密を抱える者が多すぎる」
侯爵はなおも渋い顔をした。
「だからこそ、秘密を守る利益を全員に用意します」
リディアは最後の頁を開いた。そこには違約時の補償、名誉毀損への対応、使用人への情報制限、記録に残す文書と残さない口約束の区別まで記されている。
「完璧な策ではありません。ですが、何も決めずに曖昧な婚姻をするよりは、ずっと安全です」
沈黙が落ちた。
やがて、グランヴィル侯爵が深く息を吐く。
「エリアス」
「はい、父上」
「この婚姻が成立したのち、半年以内に領地運営の成果を示せ。家門を乱すだけの選択なら、私はお前に爵位を譲らん」
「承知しました」
エリアスの返事に迷いはなかった。セシリアが隣でそっと息を吐き、リディアは内心で項目を一つ消す。侯爵位の委譲条件。確認済み。
「エルフォード伯爵」
今度は侯爵がリディアの父へ視線を向ける。
「貴家の令嬢を、形式上とはいえ我が家へ迎える。支度金は相場の倍を用意しよう。加えて、彼女個人の生活保障も契約通りにする」
「感謝いたします。ただし、娘が望まぬ不利益を受けることがあれば、伯爵家は沈黙いたしません」
「それでよい。互いに弱みを握るより、互いに守る理由を持つ方が長く続く」
リディアはその言葉に、初めてグランヴィル侯爵の顔をまっすぐに見た。頑固で冷たい人物だと思っていたが、彼は彼なりに侯爵家を守ろうとしているのだろう。守ろうとするものが違えば、選ぶ手段も違う。それだけのことだ。
昼を過ぎる頃、契約書の大枠はまとまった。
署名はまだ先になる。正式な文言を法律家に整えさせ、侯爵家の記録に残すものと、三家だけで保管するものを分けなければならない。それでも、もう後戻りは難しいところまで来ていた。
会議が終わり、客人たちが席を立つ。セシリアは帰り際、リディアのそばへ歩み寄った。
「リディア様。わたくし、必ず務めを果たします」
「無理はしないでください。務めより、まずはあなたが健やかであることです」
「それを侯爵夫人になる方に言われると、不思議な気持ちになります」
「私、侯爵夫人らしいことはほとんどしませんので」
セシリアは一瞬きょとんとし、それから笑った。緊張で張り詰めていた顔が、ようやく年相応の柔らかさを取り戻す。
その笑顔を見て、リディアは胸の奥で小さく安堵した。
この契約が正しいのかどうか、未来になってみなければ分からない。けれど少なくとも今、ここにいる誰か一人だけが泣く結末ではなくなった。
数日後、リディアのもとへ正式な婚姻式の日取りを記した書状が届いた。
その余白には、エリアスの筆跡で短く一文が添えられている。
『領地の別邸の蔵書目録を同封します』
リディアは封筒から分厚い目録を取り出し、婚姻式の日取りよりも先にそちらへ目を通した。
「これは、思ったより悪くない結婚かもしれないわね」




