35-1 曇らされた確認先
急報確認手順が整ってから数日、本邸には奇妙な静けさが戻っていた。
未確認急報、同報確認中急報、二方向確認済み急報。セシリアはそれぞれの札を色分けし、机の上に並べた。急報が来ればまず準備を始める。だが、出発は確認後。焦りと手順の間に線を引くための仕組みだった。
「今度こそ、急がされても間違えないようにしなければ」
その頃、ヴァレリー伯爵の屋敷では、同じ札を別の意味で眺める者たちがいた。
机の上には、王都の薬師、薪商人、布商人、慈善施設の責任者、そして伝令業者の名が書かれた一覧が広げられている。侯爵家が確認先を増やしたなら、その確認先を曇らせればよい。ヴァレリー伯爵の考えは、単純で、だからこそ厄介だった。
「本邸を騙すのではない。本邸が信じる相手を、それぞれ別の方向へ向かせるのだ」
最初に狙われたのは、港近くの薬師だった。伯爵の手の者は、商家の使いを装って薬師の店を訪れ、翌朝、港の施療院で大口の往診依頼が入るかもしれないと告げた。支払いはグランヴィル侯爵家持ちになるはずだ、と余計な一言を添えて。
「正式な依頼ではないのですか」
「まだです。けれど、近頃は急報だ確認だと手順が多く、現場が遅れがちだそうで。先に備えておかれた方が、薬師殿の評判にもよろしいでしょう」
次に狙われたのは、港の布商人だった。そこへ現れた別の男は、施療院の下働きから頼まれたという顔で、急ぎの布の注文が取り消しになるかもしれないと告げた。
「今朝、施療院では出産用の布が十分に足りていると聞きました。侯爵家からも在庫確認が入るそうですが、余計な納品をすれば、過剰請求だと疑われるかもしれませんよ」
布商人は眉をひそめた。彼は以前から施療院へ布を納めており、不足があれば知らせが来るはずだと思っていた。だが、侯爵家の名を出されると慎重にならざるを得ない。余計な物を押し売りした商人だと噂されれば、今後の取引に響く。
「では、こちらからは動かず、正式な確認が来るまで待った方がよいということですな」
「賢明かと。侯爵家は近頃、記録に厳しいと聞きますから」
その言葉は、脅しではなかった。親切な忠告の形をしていた。だからこそ、商人は自分で判断したつもりになった。
同じ頃、薪商人のもとには反対の話が届いていた。港の施療院で湯が足りなくなるかもしれない。侯爵家から急な買い上げがあるかもしれない。だが、正式な依頼が来るまでは値を上げずに待て、という曖昧な忠告だった。
「つまり、動けと言うのか、待てと言うのか」
「備えだけはしておけ、ということです。ですが、侯爵家に恩を売ろうとして先走った、と見られぬように」
最後に手が伸びたのは、港の施療院の責任者だった。
彼のもとへ届いたのは、侯爵家の慈善事業に詳しいという男からの短い助言だった。近頃、本邸では急報の真偽に厳しくなっている。些細な発熱や布不足まで急報として上げれば、施設の管理能力を疑われかねない。まずは院内で処理し、本当に手に負えないときだけ知らせた方がよい、と。
「侯爵家は、急報を嫌がっているのですか」
「嫌がっているのではありません。けれど、最近は偽報もあったと聞きます。間違った急報を出せば、あなた方の信用にも関わるでしょう」
それはもっともらしい理屈だった。責任者は白い花の箱を得るまでに、虚偽の帳面、再申請、三十日の記録、三十一日目の綻びと、何度も侯爵家の目にさらされている。次に何かあれば、また疑われるのではないか。そう思う心の隙間へ、男の言葉は静かに入り込んだ。
「小さなことは、まずこちらで解決するべきですね」
「ええ。侯爵家へは、整った報告だけを上げる方が安心です」
こうして、三つの確認先はそれぞれ別の方向へ少しずつ傾けられた。薬師は先に備えるべきだと思い、布商人は動かず待つべきだと思い、施療院の責任者は小さな急報を控えるべきだと思い込まされた。
誰一人、明確な嘘を命じられたわけではない。誰も侯爵家を裏切ったつもりはない。ただ、親切そうな忠告を受け取り、自分で判断したつもりになっただけだった。
その結果が本邸に現れたのは、翌日の昼前だった。




