31-1 三十一日目の綻び
三十日は、思っていたよりも長かった。
西区の施療院では、再申請のための記録が始まった。最初の数日は、帳面の前に座るたび、記録係の女は手を震わせていた。足りないことを書く。できなかったことを書く。それは、これまで叱られる理由でしかなかったからだ。
一日目。乾いた布、規定数に二枚足りず。原因、雨で乾燥遅れ。対応、暖炉脇に臨時の紐を張る。
三日目。粥、夕方分を薄くする。原因、米の納入遅れ。対応、院長が翌朝の仕入れを前倒しで手配。
七日目。洗濯場の下働きが一人、発熱で休む。代替人員、なし。対応、出産用の布だけを優先して煮洗いし、普段使いの布は翌日に回す。
書くたびに、記録係の文字は少しずつ乱れた。完璧な帳面ではない。けれど、その乱れは嘘ではなかった。忙しい日には行が斜めになり、雨の日には紙の端に水の跡が残り、夜遅くに書かれた文字は薄く掠れていた。
十日目を過ぎる頃には、院長の態度にも変化が出始めた。最初は不足を記されるたびに苦い顔をしていたが、何が足りないのかが見えるようになると、無駄な叱責よりも先に手配を考えるようになった。
「布が足りないのは怠けているからではない。乾かす場所が足りないからだ。ならば、場所を作るしかない」
その一言に、洗濯場の者たちは驚いた。叱られると思っていた不足が、次の手順を変える理由になったからだ。
十五日目、セシリアは施療院を訪れた。帳面には、守れたことも守れなかったことも並んでいた。布不足は四回。粥を薄くした日は二回。産後の母親が自分で水を汲もうとした日が一回。その横には、止めた者の名前と、次にどう声をかけるかが書き添えられている。
「以前の帳面より、ずっと信用できます」
セシリアがそう言うと、記録係の女は泣きそうな顔で笑った。
「きれいではありません」
「きれいな帳面より、役に立つ帳面の方が必要です。リディア様なら、きっとそうおっしゃいます」
二十日目には、施療院の中で小さな合図が生まれていた。白い花の札を裏返すと、布が最低数を下回った印。台所の扉に白い糸を結べば、粥用の米が不足している印。声に出して言いにくい不足を、まず目で伝えるための工夫だった。
二十五日目、出産を終えた若い女性が熱を出した。以前なら、本人が我慢し、周囲も忙しさに紛れて気づくのが遅れただろう。だがその日は、記録係が帳面の余白に大きく熱ありと書き、院長がすぐ薬師を呼ばせた。大事には至らなかった。
三十日目の夕方、帳面の最後の頁には、整った結論ではなく、いくつもの小さな事実が並んでいた。足りない日はあった。守れない日もあった。けれど、隠した日はなかった。そこにこそ、白い花の箱を置く意味があるのだと、セシリアは思った。
三十一日目の朝、施療院には白い花の箱が置かれた。
粗末な木箱ではあるが、蓋には丁寧に白い花が描かれている。救貧院のものと同じ印だ。けれど、ここへ置かれるまでに必要だった三十日の記録を知っている者にとって、その箱はただの支援品ではなかった。
「ようやく、ですね」
記録係の女が小さく呟くと、院長は少し照れたように咳払いをした。
「箱を置くことが目的ではない。これからも記録を続けることが条件だ。……そうでしたね、セシリア様」
その同じ朝、施療院の裏口近くで、下働きの青年トマは見知らぬ男に呼び止められた。
トマは夜明け前から火を起こし、水を運び、洗濯場と台所を何度も往復していた。三十日間の記録が始まってから、院内の手順は確かに良くなった。だが、その分、守るべき札も帳面も増えた。誰かが休めるようになった代わりに、別の誰かが少し早く起き、少し多く歩く日もあった。
「大変そうだな。侯爵夫人様のご立派な箱とやらのために、下の者ばかり忙しくなる」
男の声は同情深く、手には温かい焼き菓子の包みがあった。トマは警戒しながらも、空腹につられて視線を落とす。
「別に、悪いことをしろと言っているわけじゃない。少しくらい手順が遅れても、帳面には後で整えて書けばいい。今までもそうしてきただろう」
その言葉に、トマの胸が小さくざわめいた。確かに、以前はそうしていた。足りないものは足りていることにし、間に合わなかった作業は終わったことにし、叱られないよう帳尻を合わせてきた。だが、そのたびに誰かが余計に疲れ、誰かの不調が見えないまま過ぎていった。
「今日は箱を置いた祝いの日だ。最初から不足を書けば、院長の顔も潰れる。乾ききっていない布が少し混じったところで、誰にも分かりはしない」
男はそう言って、焼き菓子の包みをトマの手に押しつけようとした。その指先には、労わりよりも急かすような力があった。




