29-3 整いすぎた施設
「謝る相手は、私ではありません」
セシリアは静かに言った。記録係の女はびくりと肩を揺らしたが、セシリアの声に怒りがないことに気づくと、おそるおそる顔を上げた。
「謝るべきなのは、本当は足りないものがあるのに、足りていることにされてしまった方たちです。出産を控えた女性、粥を待つ母親、布を探して走る女中たち。そして、あなた自身もです」
セシリアはそこで、院長へ向き直った。声を荒らす必要はなかった。むしろ、静かに言う方が、言葉は逃げ場を失う。
「院長。白い花の箱は、この申請のままでは置けません」
「それは、当院に資格がないということでしょうか」
院長の声には、焦りとわずかな苛立ちが滲んでいた。セシリアは首を横に振る。
「いいえ。資格がないのではありません。今の申請書では、この施設が何に困っているのか分からないのです。困っていることが分からなければ、侯爵家は正しい支援を送れません」
「ですが、不足ばかり書けば、見限られると思うのは当然でしょう。支援を受ける側にも体面があります」
「体面のために不足を隠せば、困るのは現場の方です。白い花の箱は、立派に見せるための飾りではありません。足りないものを見つけ、次に備えるための場所です」
院長は口を開きかけ、しかし言葉を飲み込んだ。セシリアの隣で、記録係の女が帳面を胸に抱えたまま俯いている。その姿を見て、セシリアは少しだけ声を柔らかくした。
「再申請をお願いします。今度は、整った答えではなく、本当の不足を書いてください。布が足りない日があるなら、その頻度を。粥を出せない日があるなら、何が足りないのかを。洗濯場の人手が足りないなら、どの時間帯に誰が無理をしているのかを」
「それを書けば、箱を置いていただけるのですか」
「すぐにとはお約束できません。けれど、本当の不足を隠さない施設なら、支援の順番に入れます。足りないことは恥ではありません。足りないことを隠して、助けを必要とする人を危険にさらす方がいけないのです。その結果、誰かが怪我をし、取り返しがつかない状態になったら…………誰かが責任を取れば済む、という問題ではないのですよ」
院長の顔色が変わった。叱責でも断罪でもないその言葉は、かえって逃げ道を狭めたのだろう。彼はしばらく沈黙し、やがて深く頭を下げた。
「……再申請いたします。今度は、現場の者にも確認を取ります」
「お願いします。そして、今日の帳面を書いた方を責めないでください。虚偽を書かせた責任は、書いた手だけにあるのではありません」
記録係の女がはっと顔を上げた。セシリアは彼女へ向き直り、小さく微笑む。
「次の帳面には、上手に書こうとしなくて構いません。忙しい日の乱れた文字も、足りなかった日のため息も、そのまま書いてください。リディア様は、きっとその声を信用なさいます」
施療院を出たあと、馬車に戻ったセシリアは、すぐには腰を下ろさなかった。胸の奥に残っているのは怒りだけではない。安堵と、痛みと、少しの疲れだった。
「現地確認の結果を、整理します」
同行していた侯爵家の家令が帳面を開く。セシリアは、見たものを一つずつ言葉にした。申請書は条件を満たしているように見えること。保管室の布は整っていたが、使われた形跡が薄いこと。洗濯場の鍋と乾燥棚は新しすぎ、帳面の日付と一致しないこと。記録は三日前にまとめて作られたもので、実際には布も粥も人手も足りない日があること。
「結論として、現申請は承認しません。ですが、施設そのものを拒絶もしません。本当の不足を記した再申請を求めます。条件は三つ。現場の者に確認を取ること。できないことを隠さず書くこと。そして、虚偽の帳面を書かされた記録係を処罰しないこと」
家令は顔を上げた。
「かなり寛大な処置に見えますが」
「寛大なのではありません。ここで切り捨てれば、次の施設はもっと上手に隠します。リディア様なら、きっとそうおっしゃいます」
セシリアは窓の外へ目を向けた。白く塗られた施療院の壁は、遠目には清潔で穏やかに見える。けれど、その内側には、足りない布を足りていることにされた者たちがいた。責められるのを恐れて、嘘を書いた手があった。
「白い花の箱は、整った場所を飾るものではありません。整っていないことを言える場所に置くものです。今回の確認で、それを改めて思い知りました」
その日のうちに、セシリアはリディアへ報告書を書いた。申請書の写し、現地での確認事項、帳面の矛盾、記録係の証言、院長へ求めた再申請の条件。最後に、彼女は自分の判断も添えた。
『リディア様。私は、この施設をすぐには信じられません。けれど、切り捨てるべきだとも思えませんでした。嘘を書いた人を責めれば、次から本当の不足はもっと隠されます。だから、再申請の道を残しました。この判断が正しいか、どうか見てください』
封をしたあと、セシリアはようやく背もたれに身体を預けた。整いすぎた施設は、白い花の箱にふさわしくなかった。だが、足りないものを隠してしまった人々こそ、本当はその箱を必要としているのかもしれない。
セシリアはその矛盾を抱えたまま、本邸へ戻った。リディアなら、きっとこの報告に赤を入れるだろう。けれどその赤は、失敗を消すためではなく、次に守る線を引くためのものだと、今のセシリアには分かっていた。




