23-3 新たな縁談の噂
別邸でその手紙を読んだリディアは、しばらく動かなかった。契約、対策、噂、書類。そうした言葉ばかりが二人の間を行き来していたはずなのに、便箋の上には、ずっと柔らかい願いが置かれていた。
「好きなお茶や本の話、ですか」
リディアは少しだけ困ったように笑った。人と親しくなるのは、噂を退けるよりも難しい。相手の悪意を読むより、相手の好意を受け取る方がずっと慣れていない。
それでも、リディアは返事を書いた。
『セシリア様。では、まずはお茶の話から始めましょう。私は濃い目に淹れた紅茶に、少しだけ蜂蜜を入れるのが好きです。疲れた日には薬草茶より効く気がします。効能は保証しませんが、気分には効きます』
『本は、歴史書と旅行記が好きです。自分では遠くへ行かないくせに、遠くの土地の話を読むのは好きなのです。刺繍は、白い花と蔦ばかりになりがちなので、そろそろ別の図案も覚えるべきかもしれません。もし本邸で流行の模様があれば教えてください』
そこまで書いてから、リディアは少し迷い、もう一文を足した。
『それから、私も怖いままです。出産のことだけではありません。誰かに頼られることも、誰かを大切に思うことも、失ったときの痛みを想像して怖くなります。だから私は距離を置くのが得意になりました。でも、あなたからの手紙は、その距離を少しだけ縮めてもよいと思わせてくれます』
『ですから、契約の話ではない手紙も歓迎します。お茶の話、本の話、刺繍の話。疲れた日の愚痴でも構いません。ただし、夜更かしして書くのは禁止です。翌朝のあなたが困りますから』
返事を封じたあと、リディアは窓の外を見た。春の庭では、白い花が一つ、また一つと開き始めている。自分の名を貸した相手。夫の愛する人。侯爵夫人代理。そう呼ぶには、もう少しだけ距離が近すぎる気がした。
友人、と呼ぶにはまだ照れくさい。けれど、次の手紙には好きな本の題名を三冊ほど書いてみようと、リディアは思った。
リディアからの書面が本邸に届いた翌日、エリアスはそれを何度も読み返していた。
私を哀れな正妻として語らないでください。セシリア様を一時の慰めとして語ることも許しません。
その一文は、短い刃のようにまっすぐだった。エリアスは思わず苦く笑う。リディアはいつも、自分が見落としかけた急所を正確に突いてくる。自分がセシリアを守ろうとするあまり、リディアを病弱で哀れな妻として語れば、それは彼女の名誉を傷つける。逆にリディアを立てるあまり、セシリアを陰に置かれた慰めのように扱えば、彼女の尊厳を傷つける。
どちらかを守るために、もう一方を盾にしてはならない。
「本当に、難しい契約を結んだものだな」
「後悔なさっていますか」
セシリアの問いに、エリアスはすぐ首を横に振った。
「いいや。ただ、約束を守るとは、黙って守るだけでは足りないのだと思い知らされている」
数日後、王都の慈善後援会で、エリアスは新たな縁談の噂について問われた。集まっていたのは、慈善市や母子保護の覚書に関心を示した貴婦人たちと、いくつかの有力家の当主たちである。噂を否定するには、小さすぎず、大きすぎない場だった。
「グランヴィル卿。近頃、貴家に新たなご縁談があるとか。侯爵家の未来を思えば、当然のお話かもしれませんが」
問いを投げた夫人の声は柔らかかった。だが、周囲の耳が一斉にこちらへ向いたことを、エリアスは感じ取っていた。隣に立つセシリアの指先が、ほんの少しだけ動く。
エリアスは一度だけ息を整え、はっきりと答えた。
「そのような事実はありません。グランヴィル侯爵家は、当面の間、領地運営の安定、母子保護施策の定着、そして妻リディアの療養環境の維持を優先いたします」
会場が静まり返る。エリアスはそこで言葉を切らず、リディアの書面にあった一文を、自分の声で続けた。
「これは家門の未来を軽んじるものではありません。未来を担う生命を粗末に扱わぬための方針です。後継者を望むからこそ、誰かの身体や心を急かすような選択はいたしません」
「では、奥方様はやはりお弱くていらっしゃるのね」
別の夫人がそう言うと、エリアスは穏やかに首を横へ振った。
「妻は哀れられるべき人ではありません。自分にできる務めを見定め、領地で確かに役目を果たしている人です。王都に姿を見せないことは弱さではなく、彼女自身が選んだ働き方です」
その言葉に、セシリアは胸の奥で息を呑んだ。リディアを哀れな正妻にしない。その約束を、エリアスは確かに守っている。
「何より、私たちはまだ婚姻一年にも満たない新婚夫婦です。私が次期当主となるべく忙しくしていることが一番の原因だとも自覚しております」
「ところで、皆々様は婚姻一年未満ですでに後継者をお産みになられていらっしゃったのですね。ご主人方はどのように時間を作られて、婚姻間もなく子を成されて一年以内に後継者を産み分けられたのか。是非とも、ご教授願わなくてはなりませんね」
一瞬で夫人たちは声を詰まらせた。ここにいる夫人の中に、新婚一年目で出産した方は誰一人としていない。婚姻二年目で出産した方は二割もおらず、後継者となる男児を産んだ方は片手で足りる。
自分たちが誰一人として成し得ていないことを、然も自分たちは当然のように成し得た体で話していたのだ。年若いとはいえ自分たちよりも身分が上の相手に対して恥ずべき行為である、と自覚させるにも至ったのだ。
彼女たちの後ろにはヴァレリー伯爵夫人の影が見え隠れしている。煽られて踊らされるなど、社交界で華開く貴婦人にあるまじき行為であり、家名を傷つける行為でもあった。
だが、エリアスはそこで終わらなかった。
「そして、彼女の代理として王都で務めを担うセシリア嬢もまた、一時の慰めとして置かれている人ではありません。彼女は侯爵家の奥向きを学び、社交を支え、領地施策を王都へ届けてくれる大切な協力者です。その働きを、噂の飾りに貶めることはお控えください」
静かな、しかし明確な宣言だった。リディアは正妻として名誉を守られ、セシリアは代理として尊厳を守られた。どちらかを上げるために、どちらかを下げる言葉は一つもなかった。
ロズウェル伯爵夫人が、最初に穏やかな拍手をした。
「よい方針ですわ。生命を急かさない家の方が、かえって長く続くものです」
その一言で、場の空気は少しだけ変わった。噂として漂っていた新たな縁談の話は、エリアス本人の言葉によって形を失っていく。少なくともこの場では、祝福の顔をした脅しは、礼儀正しい方針声明に押し返された。
帰りの馬車で、セシリアはしばらく黙っていた。やがて、小さな声で言う。
「ありがとうございました。私を、慰めではないと言ってくださって」
「礼を言うことではない。事実を言っただけだ」
「リディア様にも、そう書きます。エリアス様が、約束を守ってくださったと」
エリアスは窓の外へ目を向けた。春の王都は明るく、だからこそ影も濃い。だが、少なくとも今日、三人で結んだ契約はまた一つ、公の言葉を得たのだった。




