24.祝福の罠
エリアスの言葉によって、新たな縁談の噂はひとまず形を失った。
だが、噂というものは消えたように見えても、灰の下で火種を残すことがある。ヴァレリー伯爵はそれをよく知っていた。だからこそ、彼は表立って反論するのではなく、もっと穏やかで、もっと否定しにくい形を選んだ。
数日後、グランヴィル侯爵家本邸へ、一通の訪問願いが届いた。差出人は、噂の相手とされた名門伯爵家の令嬢、ユーフェミア・クラインだった。
文面は丁寧で、悪意の欠片も見えない。近頃、自分の名が根拠のない噂に巻き込まれていることを知り、侯爵家へ迷惑をかけたのではないかと案じている。侯爵夫人と、夫人を支えるセシリアへ、直接詫びを伝えたい。そう書かれていた。
「善意の形をした訪問か」
エリアスは手紙を読み終え、眉間に皺を寄せた。断れば、噂に巻き込まれた令嬢の誠意を拒んだことになる。受け入れれば、侯爵夫人不在の本邸で、噂の相手と代理の令嬢が顔を合わせることになる。
セシリアは手紙の写しを見つめ、唇を結んだ。ユーフェミアに罪があるとは限らない。むしろ、彼女もまた噂に巻き込まれた被害者かもしれない。だが、それでも胸の奥に小さな棘が刺さる。
「お会いします」
「セシリア」
「逃げれば、噂に形を与えてしまいます。それに、もし本当に巻き込まれただけの方なら、私たちが疑いの目だけを向けるのは違うと思うのです」
その答えに、エリアスはしばらく黙った。以前のセシリアなら、まず自分が傷つくことを恐れたかもしれない。だが今の彼女は、不安を抱えたままでも、自分で立つ場所を選ぼうとしている。
訪問は、三日後の午後に決まった。
本邸の小応接室には、白い花を一輪だけ飾った。派手な歓迎ではないが、拒絶でもない。セシリアは淡い菫色のドレスを選び、胸元にはいつもの刺繍布を忍ばせた。エリアスは同席せず、隣室に控えることになっている。これは、令嬢同士の面会として整える方が自然だった。
ユーフェミア・クラインは、噂よりもずっと静かな令嬢だった。艶やかな黒髪を低く結い、薄い灰色の瞳には疲れが見える。彼女は部屋へ入るなり、深く頭を下げた。
「このたびは、わたくしの名が不本意な噂に使われ、グランヴィル侯爵家にご迷惑をおかけいたしました。心よりお詫び申し上げます」
「どうかお顔をお上げください。クライン様もまた、噂に巻き込まれたお一人です。謝罪よりも、互いにこれ以上利用されないための確認をいたしましょう」
セシリアの言葉に、ユーフェミアは少しだけ目を見開いた。責められる覚悟をしていたのだろう。だが、セシリアにそんなつもりはなかった。リディアならきっと、まず相手が罠そのものか、罠に置かれた餌なのかを見極めるはずだ。
「噂を流した方に、心当たりはおありですか」
「断言はできません。ただ、母のもとへヴァレリー伯爵夫人から茶会の誘いがございました。その後から、妙にわたくしの名がグランヴィル家と並べられるようになったのです」
やはり、とセシリアは思った。けれど、それを顔に出さない。ここで怒りを見せれば、ユーフェミアをさらに怯えさせるだけだ。
「クライン様は、この縁談を望んでおられたのですか」
「いいえ」
返答は短く、はっきりしていた。
「わたくしにも、別に望む道がございます。ですが家の都合で名を使われれば、否定するにも限りがあります。だから今日、こちらへ伺いました。わたくしの名で、あなた方を傷つけたくありませんでした」
セシリアはその言葉を聞き、胸の棘が少しだけ抜けるのを感じた。相手もまた、誰かの作った物語に押し込められようとしている。ならば、ここで争うべき相手ではない。
「でしたら、今日の面会は互いの誤解を解くためのものにしましょう。侯爵家は新たな縁談を望んでおりません。クライン様もそれを望んでおられない。ならば、その事実をそれぞれの家で静かに共有すれば十分です」
「静かに、でよろしいのですか。公に否定した方がよいのでは」
「大きく否定すれば、噂も大きくなります。まずは、利用された者同士が争わないこと。それが一番の否定になると思います」
ユーフェミアはしばらくセシリアを見つめ、それから小さく笑った。
「侯爵夫人様は、よい方を代理に立てておいでなのですね」
「そう言っていただけるなら、少し安心します。けれど、私一人の力ではありません。奥様が、そう考えられるように何通も手紙をくださったのです」
面会は穏やかに終わった。ユーフェミアは帰り際、もう一度深く礼をし、今後不本意な噂に自分の名が使われた場合は、可能な限り早く知らせると約束した。
その夜、セシリアはリディアへ手紙を書いた。ユーフェミアが敵ではなかったこと。彼女もまた噂に利用されていたこと。自分が、不安を抱えながらも相手を責めずに話せたこと。
『リディア様。私は今日、少しだけ分かった気がします。敵か味方かをすぐに決めるより、まずその人が誰の言葉で動かされているのかを見ること。あなたがいつもなさっているのは、きっとそういうことなのですね』
別邸でその手紙を読んだリディアは、しばらく口元に手を当てていた。セシリアはもう、ただ助言を受け取るだけの代理ではない。自分で見て、自分で考え、自分で言葉を選んでいる。
「成長が早いですね。私はまだ、人の好意を受け取る練習中だというのに」
リディアは返事に、ユーフェミアとの関係を必要以上に公にせず、しかし今後の噂に備えてクライン家との連絡経路を作るよう助言した。争わない相手を味方にする必要はない。ただ、罠に巻き込まれた者同士が互いを踏まないための距離を測ればよい。
一方、ヴァレリー伯爵は、ユーフェミアの訪問が大きな火種にならなかったことを知り、静かに目を細めた。
「使われた令嬢同士が手を取り合うとは、面白くない」
だが、彼の口元にはまだ笑みが残っていた。善意が罠にならぬなら、次は善意そのものを試せばいい。
彼は、王都の救貧院へ送られる母子保護の覚書に目を向けた。人を助けるための紙ほど、失敗したときには強い非難を浴びる。もしその施策に傷をつけられれば、侯爵夫人の名も、代理の立場も、まとめて揺らぐことになる。
春の陽射しの下で、祝福の罠はひとまずほどけた。けれど、次に狙われるのは噂ではなく、リディアが守ろうとした生命そのものだった。




