23-2 新たな縁談の噂
夜の本邸は静かだった。廊下の燭台の火が揺れ、遠くで使用人が扉を閉める音がする。セシリアは自室の机に手紙を広げたまま、胸元の白い花の刺繍布をそっと握った。
「仮の存在ではない」
声に出してみても、その言葉は簡単には胸に馴染まなかった。侯爵夫人ではない。けれど侯爵夫人の務めを担っている。妻ではない。けれど、エリアスに選ばれた伴侶だと言ってもらった。母ではない。けれど、いつか後継者を産むことを契約の中で望まれている。
どの言葉も嘘ではないのに、どの言葉も一つでは足りない。セシリアは、自分の立っている場所が時々ひどく細い橋の上のように思えることがあった。リディアの名誉を傷つけてはいけない。エリアスの信頼を疑ってはいけない。両親に心配をかけてはいけない。そして、いつか生まれるかもしれない子のためにも、怖いなどと言ってはいけない。
そう思えば思うほど、息が浅くなる。
「私は、本当にここにいていいのかしら」
その問いは、何度もリディアに送ったものだった。けれど本当は、誰かに答えてほしいだけではない。自分自身が、ここにいると決め続けなければならない問いなのだと、セシリアは分かっていた。
机の上の手紙には、リディアの整った文字が残っている。あなたまでそれを信じないでください。その一文を指でなぞると、目の奥が熱くなった。信じないで、と言われても、心は時々勝手に不安を信じてしまう。
セシリアは羽ペンを取った。強い返事は書けそうになかった。だから、強くないまま書くことにした。
『リディア様。私は、あなたのお言葉を信じています。エリアス様のお言葉も信じています。それでも、不安が消えません。私がここにいることで、いつかあなたを傷つけるのではないか。後継者を望むことで、あなたの恐怖を踏み越えてしまうのではないか。そう考えると、胸が苦しくなります』
最後の一文を書くまでに、ずいぶん時間がかかった。
『それでも私は、逃げたいとは思いません。逃げたくないから、怖いのだと思います』
その手紙が別邸へ届いたのは、よく晴れた午後だった。
リディアは窓辺の長椅子で封を切り、セシリアの文字をゆっくりと追った。強くあろうとしている人の文字は、時々かすかに震える。その震えが、紙越しに指先へ伝わってくるようだった。
「困りましたね」
メイが茶を置きながら尋ねた。
「悪い知らせですか」
「いいえ。とてもまっすぐな不安です。だから、雑に励ましてはいけません」
リディアはしばらく返事を書けなかった。セシリアの不安は、間違っていない。彼女は確かに細い橋の上に立っている。侯爵夫人ではないのに夫人の務めを担い、妻ではないのに伴侶として愛され、まだ母ではないのに後継者を期待されている。そのどれもが、彼女一人の肩には重すぎる。
だからこそ、リディアは綺麗な言葉で包むのをやめた。
『セシリア様。あなたの不安は、消えなくても構いません。不安があるから、足元を確かめられます。怖いからこそ、誰かを踏みつけて進まずにいられます。ですから、まずは不安を恥じないでください』
そこまで書いて、リディアは一度ペンを置いた。次の言葉は、自分自身にも向けなければならないものだった。
『私の恐怖は、私のものです。あなたが後継者を望むことで、私の恐怖を踏み越えることにはなりません。あなたが私の代わりに産むのではありません。あなたが望み、エリアス様と選び、あなた自身の未来として引き受けるのです。その違いを、どうか忘れないでください』
『もちろん、私は感謝しています。けれど、感謝はあなたを縛るための鎖ではありません。いつか怖くなったら、怖いと言ってください。迷ったら、迷ってください。契約は、あなたを黙らせるためではなく、あなたが声を上げられるように作ったものです』
リディアは窓の外へ目を向けた。庭では、白い花の蕾が春の光を受けて小さく膨らんでいる。
『あなたがここにいてよいか、という問いに私が答えるなら、答えははいです。けれど、本当に必要なのは、あなた自身が毎日少しずつ、ここにいると選ぶことだと思います。選べなくなった日は、立ち止まってください。そのために、私も、エリアス様も、あなたのご両親もいます』
『最後に一つ。あなたは仮の存在ではありません。仮のものに、私は自分の名を預けません。仮のものに、白い花の刺繍も渡しません。あなたは、私が信じて任せた人です』
書き終えたリディアは、深く息を吐いた。慰めるつもりで書いたはずなのに、自分の胸にも静かに返ってくる言葉ばかりだった。
「奥様、少しお疲れですか」
「ええ。人を安心させる言葉は、契約書より難しいわ」
そう言いながらも、リディアは封をする手を止めなかった。セシリアが怖いまま逃げずにいるのなら、自分もまた、怖い誰かの不安にきちんと向き合うべきだと思ったからだ。
その返事を受け取ったセシリアは、自室で何度も読み返した。
不安は消えなくてもいい。怖いと言ってもいい。迷ってもいい。どれも、セシリアがずっと自分に許せなかった言葉だった。強くあらねばならない。選んだのだから揺らいではいけない。リディアの名を借りているのだから、弱音を吐く資格などない。そう思い込んでいた胸の奥に、そっと手を差し入れられたようだった。
「仮のものに、私は自分の名を預けません」
その一文を声に出すと、涙がこぼれた。悲しいのではない。ようやく、自分の立っている場所に名前をもらえた気がしたのだ。
セシリアは新しい便箋を取り出した。今度は、報告でも相談でもない手紙を書きたかった。
『リディア様。あなたのお返事を読んで、私は初めて、怖いままでもここにいてよいのだと思えました。強くなってから立つのではなく、震えながらでも立っていてよいのだと。ありがとうございます』
『私は、あなたの名をお借りしています。けれど最近は、それだけではない気がしています。あなたの考え方、言葉の選び方、休むことを許す優しさ。そうしたものに、何度も助けられています。もし許されるなら、いつか契約や役目の話ではなく、好きなお茶や本や刺繍の話をしてみたいです』




