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こんな家族の姿があってもいいんじゃない?  作者: アーエル
第二章:領地の片隅のスローライフ(逆に多忙な本邸ライフ)

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23-1 新たな縁談の噂


 春の社交が始まる頃、王都には新しい噂が咲いた。


 グランヴィル侯爵家が、後継者問題を見据えて新たな縁談を探しているらしい。病弱な侯爵夫人を離縁することはできずとも、血筋ある令嬢を側に迎える準備をしているらしい。相手は王都でも名の知られた伯爵令嬢で、家格も申し分ないという。


 誰が言い出したのかは分からない。けれど噂は、まるで最初からそこに咲いていた花のように自然に広がった。後継者を急がないと言ったばかりの侯爵家が、実は水面下で別の令嬢を探している。そう聞けば、人は勝手に物語を作る。


 本邸で最初にその噂を聞いたセシリアは、手にしていた帳簿を閉じるのを忘れた。


「新たな縁談、ですか」


 その声を聞いたエリアスは、すぐに顔を上げた。机の上には開きかけの書類がいくつもあったが、彼はそのすべてから手を離した。


「ない」


 短い否定だった。けれど、そこには迷いも含みもなかった。セシリアが瞬きをする前に、エリアスはさらに言葉を重ねる。


「そんな話は一切ない。私が誰かを新たに迎えるつもりも、父上がそのような縁談を進めている事実もない。噂を聞いたのなら、それは誰かが意図して流したものだ」


「ですが、後継者のことを考えれば、周囲がそう望むのは自然なのかもしれません。わたくしは正式な妻ではありませんし、リディア様は……」


「セシリア」


 名を呼ぶ声が、思っていたよりも強かった。叱るためではない。彼女が自分を低く見積もる前に、その言葉を止めるための強さだった。


「私が君をここに置いているのは、都合のよい穴埋めのためではない。君が私の選んだ人だからだ。そしてリディア嬢は、私たちを守るために自分の名と立場を貸してくれている。ならば私がすべきことは、新しい誰かを探すことではなく、君と彼女に誓った約束を守ることだ」


 セシリアは唇を結んだ。嬉しいと言うには胸が痛く、安心したと言うにはまだ不安が残っている。けれど、エリアスの目が少しも揺れていないことだけは分かった。


「後継者は必要です。けれど、そのために誰かを踏み台にする家にはしない。君を急かすこともしない。リディア嬢の恐怖を利用することもしない。まして、噂に押されて別の令嬢を迎えるなど、私自身が許さない」


「エリアス様……」


「この噂は否定する。私の言葉で、侯爵家の方針として。妻はリディア嬢ただ一人だ。そして、私が生涯の伴侶として選んだのは君だ。その二つは、私の中で矛盾しない」


 それは、社交界の常識から見れば奇妙な言葉だった。だが、三人で結んだ契約の中では、何よりまっすぐな答えだった。


 その報告が別邸へ届いたとき、リディアはちょうど春用の薄い肩掛けに白い花を刺していた。


 新たな縁談。後継者のために別の令嬢を迎える。病弱な正妻は黙っているしかない。代理の令嬢はいつか退けられる。


 手紙に並んだ言葉を読み終えたリディアは、針を布へ戻し、まず糸をきちんと留めた。怒るのは、それからでも遅くない。


「なるほど。今度は祝福の顔をした脅しですね」


 メイが顔を曇らせる。


「奥様は、腹が立ちませんか」


「立っています。ですが、腹を立てたまま返事を書くと、相手の望む形になります。ですから、まずお茶を飲みます」


 リディアは温かい茶を一口飲み、改めて白紙を広げた。噂を一つずつ否定して回れば、かえって噂に重みを与える。大切なのは、誰かが勝手に語る物語より先に、侯爵家自身の言葉を置くことだった。


『新たな縁談について、私から動揺を示す必要はありません。むしろ、侯爵家の方針として、当面は領地運営と母子保護施策の定着を優先すると公にしてください。後継者を急がない理由は、すでに視察報告会で示されています』


 そこまで書いて、リディアは一度手を止めた。次に書く言葉は、自分の立場を守るだけでは足りない。セシリアを守らなければならない。彼女が、自分はいつか退けられる存在なのだと思い込まないように。


『セシリア様へ。あなたは後継者が生まれるまでの仮の席にいるのではありません。侯爵家の奥向きを学び、王都で務めを果たし、領地の施策を支えている方です。噂があなたを仮の存在にしようとしても、あなたまでそれを信じないでください』


 書き終えたあと、リディアは別紙を取り出した。今度はエリアス宛てだった。


『エリアス様。噂を否定する際、私を哀れな正妻として語らないでください。セシリア様を一時の慰めとして語ることも許しません。あなたが守るべきは、私の名誉と彼女の尊厳の両方です。どちらか片方を盾にすれば、もう片方が傷つきます』


 その文面は少し厳しかったかもしれない。だが、リディアは消さなかった。エリアスが誠実な人間であることは知っている。だからこそ、誠実さが誰か一人を守るための刃にならないよう、先に釘を刺しておく必要があった。


 最後に、リディアは侯爵家として出す短い声明案を整えた。声明というほど大げさなものではない。信頼できる夫人たちへの返書、領地施策の報告、招待への欠礼の理由。そのどこにでも同じ文を入れられるようにするための、定型文だった。


『グランヴィル侯爵家は、当面の間、領地運営の安定、母子保護施策の定着、ならびに現侯爵夫人の療養環境の維持を優先いたします。家門の未来を軽んじるものではなく、未来を担う生命を粗末に扱わぬための方針です』


「これで、新しい縁談を持ち込む方が、侯爵家の療養方針と領地施策を軽んじる形になります」


「噂を否定するのではなく、噂が入り込む余地を狭くするのですね」


「ええ。扉を閉めるより、先に家具を置く方が自然でしょう」


 本邸へ届いたリディアの手紙を読んだあとも、セシリアの胸から不安が消えることはなかった。


 エリアスは噂を否定してくれた。リディアも、仮の存在ではないと書いてくれた。二人の言葉を疑っているわけではない。むしろ信じているからこそ、セシリアは自分だけが弱いまま取り残されているような気がした。


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