20.産婆への探り
マーサのもとへ見知らぬ男が訪ねてきたのは、朝の井戸端がまだ白い息で曇っている時間だった。
男は旅の薬売りを名乗り、腰には薬草を詰めた革袋を下げていた。村を回って産婆に薬を卸している、という説明はもっともらしい。だが、マーサは相手の靴を見て、すぐに違和感を覚えた。泥の付き方が街道を歩いた者のものではない。馬車で近くまで来て、村の入口だけを歩いた足だ。
「この辺りでは、侯爵夫人様がずいぶんお産のことに熱心だとか。何か特別なお加減でもおありで?」
何気ない調子だった。けれど、聞きたいことはあまりにもはっきりしている。侯爵夫人は子を産めるのか。産むつもりがあるのか。あるいは、すでに何か問題があるのか。
マーサは手を止めず、干していた布を籠へ入れた。
「奥様は、村の女たちが無事に子を産めるよう気を配ってくださっているだけですよ。清潔な布を使え。産後に重い桶を持たせるな。熱が出たらすぐ知らせろ。どれも特別な病の話ではありません」
「ですが、出産を怖がるご婦人ほど、そういうことを気にされるとも聞きます」
「怖がらない者の方が危ういですよ。怖いものを怖いと知っているから、支度をするのです」
男は笑った。だが、その笑みは井戸端の冷たい空気よりも薄かった。
「なるほど。では、侯爵夫人様ご自身も、いずれご懐妊のご予定がおありなのでしょうか。備えというものは、必要があるからなさるのでしょう?」
マーサはそこで初めて、男を正面から見た。
「必要が起きてから支度をする者は、たいてい間に合いません。火事が起きてから井戸を掘る人はいないでしょう」
「それは、うまい例えで」
「褒めても薬は買いませんよ。うちで使う薬は、昔から決まった薬師から買っています。見知らぬ方から、産婦に使うものを買うほど私は若くありません」
男は一礼して去ったが、その足は次に村の薬師の店へ向かった。薬師はすでに侯爵家からの通達を受けており、紹介状のない取引や、貴族家の体調に関する噂話には応じないと決めていた。
「侯爵夫人様の薬を調合したことは?」
「薬は具合の悪い人のために出すもので、噂のために出すものではありません。お引き取りを」
薬師の返答は短く、店の奥から出てきた妻は帳簿を抱えていた。そこには仕入れと販売の記録が整然と並び、余計な言い訳を必要としない強さがあった。男はそれ以上踏み込めず、村を後にするしかなかった。
その日の夕方、マーサと薬師はそれぞれ別邸へ報告を入れた。リディアは二つの報告を読み、驚くより先に小さく頷いた。
「やはり、次はそこでしたか」
メイは不安そうに眉を寄せた。
「後継者のことを探っているのですね」
「ええ。避けて通れない話です。でも、避けられないからこそ、こちらで言葉を整えておく必要があります」
リディアは本邸へ手紙を書いた。産婆と薬師への接触、質問の内容、相手が知りたがっている焦点。そして、これから先に広がるであろう噂への備え。
『後継者について問われた場合、急がせないことを侯爵家の方針として示してください。病弱な妻を守る夫、領地の安定を優先する次期侯爵、そして産む人の生命を軽んじない家。そう語れば、少なくとも急かす側の方が品を欠きます』
本邸でその手紙を読んだエリアスは、しばらく黙っていた。セシリアもまた、覚書の写しを胸に抱くようにして目を伏せる。
「リディア嬢は、自分が最も傷つく問いを、先に言葉にしてくれている」
「だからこそ、私たちはその言葉を軽く扱ってはいけません」
エリアスは侯爵家の方針として、しばらくは後継者を急がず、夫人の静養と領地経営の安定を優先すると周囲に伝えることを決めた。それは契約を守るための言葉であり、同時にセシリアを急かさないための盾でもあった。
一方、ヴァレリー伯爵は、薬売りを装った男からの報告を聞いて眉をひそめていた。産婆も薬師も口が堅い。しかも、侯爵夫人は産む女を守る覚書まで広めているという。
「ならば、その覚書を逆手に取るまでだ。産む人の生命は家の都合より重い、か。では侯爵家は、後継者より夫人の我儘を重んじる家だと噂させればよい」
彼は社交界に出入りする夫人たちへ、さりげなく話題を流すよう命じた。病弱な侯爵夫人。後継者を急がない侯爵家。産むことを恐れる女たちを甘やかす覚書。どれも一つ一つは小さな言葉だが、結びつけば家門の弱さとして語られかねない。
別邸では、リディアがマーサから返された覚書の写しを整えていた。机の上には、村の女性たちが書き添えた言葉がいくつもある。休ませてほしい。熱を我慢させないでほしい。子を産んだあとも、人として扱ってほしい。
その文字を見て、リディアは静かに目を伏せた。
「これは、私一人の恐怖ではなかったのね」
そう気づいたとき、覚書はただの守りではなくなった。誰かに黙らされてきた不安を、きちんと言葉にするための紙になったのだ。
けれど、その言葉が力を持ち始めたからこそ、踏みにじろうとする者も現れる。リディアはまだ知らない。自分の小さな覚書が、次に社交界の噂として牙をむくことを。




