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こんな家族の姿があってもいいんじゃない?  作者: アーエル
第二章:領地の片隅のスローライフ(逆に多忙な本邸ライフ)

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19.産まない妻の覚書


【 妊産婦の休養と清潔に関する覚書 】


 そう題した紙を前にして、リディアはしばらく羽ペンを動かせなかった。


 産まないと決めている。そこに迷いはない。前世の最期を思い出すたび、喉の奥が冷たくなり、指先から血の気が引く。白い天井、消毒液の臭い、遠くなる声。あれをもう一度経験するくらいなら、リディアは貴族社会のあらゆる非難を受ける方を選ぶだろう。


 けれど、産まないことと、産む人から目を背けることは同じではない。


 リディアは深く息を吸い、まず一行目を書いた。出産前後の女を、働かせすぎてはならない。あまりにも当然のことなのに、この世界では当然ではない家も多い。嫁いだ女は家のために働くもの、母となるなら耐えるもの。そんな言葉で、どれほどの生命が細く削られてきたのか、リディアには想像するだけで胸が苦しくなった。


 覚書には、難しい医術は書かなかった。清潔な布を使うこと。湯を一度沸かしてから冷ますこと。産後の寝具は乾いたものに替えること。部屋の空気を入れ替えること。食事を抜かせないこと。熱が出たときは、我慢させずにすぐ知らせること。前世の知識をすべて説明するのではなく、この世界の人にも受け入れられる言葉へ置き換える。


「奥様、また随分と真剣なお顔をなさっていますね」


 茶を運んできたメイが、机の上の紙をちらりと見た。リディアは少し迷ったが、隠さず差し出した。


「村の女性たちに配るものではありません。まだ下書きです。ただ、知らないよりは知っていた方がよいことを、まとめておきたくて」


 メイは黙って読み進めた。最初は不思議そうだった表情が、次第に真剣なものへ変わっていく。


「難しいことは書いていないのですね」


「難しくしてしまうと、読まれません。守ってほしいのは知識ではなく、手順です」


 数日後、リディアは村で評判の産婆を別邸へ招いた。名をマーサというその女性は、日に焼けた手を膝に置き、侯爵夫人の前でも物怖じしない目をしていた。多くの生命の始まりと終わりを見てきた者の目だった。


「奥様が、お産のことをお尋ねになるとは思いませんでした」


「私は産みません。ですが、産む人のまわりにいる者が知っておくべきことはあると思っています」


 マーサは一瞬だけリディアを見つめ、それからふっと表情を緩めた。


「産まぬ女が産む女の心配をするのは、悪いことではありません。むしろ、近くで慌てる男衆よりよほど役に立つこともございます」


 リディアは思わず目を瞬かせた。責められることを少しだけ覚悟していたのだ。女でありながら産まないと決めた自分が、出産について語る資格などないと言われるかもしれないと。


「では、見ていただけますか。間違っているところ、現場では通じないところがあれば教えてください」


 マーサは覚書を読み、いくつかの言葉を直した。産後の熱を、村では産褥熱とは呼ばない。湯冷ましという言葉より、沸かした水を冷ましたもの、と書く方が伝わる。休ませる、とだけ書くより、三日は重い桶を持たせない、と具体的にした方が守られる。


 リディアはその一つ一つを丁寧に書き留めた。机の上の紙は、貴族令嬢が思いつきで書いた綺麗な覚書ではなく、村の台所や寝室で本当に使える手引きへ少しずつ変わっていく。


 その日の帰り際、マーサは玄関先で振り返った。


「奥様。怖いものを怖いと知っている人の言葉は、軽くありません。産む人にも、産ませる側にも、きっと届きます」


 その言葉は、リディアの胸に静かに残った。


 怖いものを怖いと知っている。それは弱さだと思っていた。けれど、マーサの言葉を聞いていると、恐怖はただ人を立ち止まらせるだけのものではないのかもしれない。危うい場所を知っているからこそ、そこに柵を立てられる。暗い道を覚えているからこそ、次に通る人のために灯りを置ける。


 それから数日、リディアとマーサは覚書の言葉を整えた。難しい表現は削り、誰にでも伝わる言い方へ変える。清潔、休養、食事、早めの相談。その四つを柱にした短い手引きは、最初の下書きよりずっと素朴で、ずっと強いものになった。


 最初にそれを読んだのは、手仕事会に集まる女性たちだった。リディアは配るつもりではなかったが、マーサが「どうせなら読ませましょう」とあっさり言ったのである。


「難しいお説教ではありません。家で誰かが身ごもったとき、あるいは自分がそうなったとき、思い出してほしいことを書いただけです」


 リナの母は、紙を読みながら何度も頷いた。若い母親は「産後三日は重い桶を持たせない」という一文を見て、少し照れたように笑った。


「これ、夫にも読ませたいです。私が言うと甘えていると思われますけど、奥様とマーサさんが書いたものなら、少しは聞くかもしれません」


「では、男の人にも読めるように写しを作りましょう。母親だけが頑張るための覚書ではありません。まわりは何をさせず、何を手伝うべきかを書くものです」


 その言葉に、女性たちの目が少しだけ変わった。出産は女の務めだと片づけられてきたものが、家全体で支えるべきこととして語られたからだ。


 リディアは仕上げた覚書の写しを一部、本邸のセシリアへ送った。手紙には、これは命令ではなく相談であること、貴族家の奥向きでも使える形に直せるなら意見がほしいことを書き添えた。


『私は産まないと決めています。ですが、産む人を孤独にしない方法なら、考えることができます。セシリア様がいつか必要とする日が来るかもしれません。その時、この紙が少しでも役に立つなら幸いです』


 本邸でその手紙を読んだセシリアは、長いあいだ何も言えなかった。リディアが出産を恐れていることは知っていた。けれど、その恐怖を自分から遠ざけるだけでなく、いつか自分を守るものへ変えようとしてくれている。


「エリアス様。私、この覚書を大切にします。いつか必要になる日が来たら、きっとリディア様の言葉を思い出します」


 エリアスは紙に目を落とし、深く頷いた。そこに書かれているのは医学書のような難解な知識ではない。だが、だからこそ家の者全員に届く。彼はすぐに侯爵家の奥向きにも同じ考えを取り入れるよう命じた。


 一方、王都ではヴァレリー伯爵の手が、別の場所へ伸びていた。彼は侯爵家に出入りしたことのある薬師(くすし)や、領地へ向かう産婆の名を集めさせていた。狙いは、侯爵夫人の体調ではない。もっと先の、誰もがいつか口にする問いだった。


「病弱な夫人が子を産めるのか。あるいは、産む気があるのか」


 その噂は、書類よりも柔らかく、刃物よりも深く女たちの間へ入り込む。ヴァレリー伯爵は、それをよく知っていた。

 別邸では、リディアが覚書の末尾に最後の一文を書き加えていた。


『産む人の生命は、家の都合より重い。だから、まわりの者はその生命を守るために先に動くこと』


 それは、自分自身のためには言えなかった言葉だった。けれど、誰かのためになら書ける。リディアは乾いたインクを見つめ、静かに息を吐いた。


 産まない妻の覚書は、まだ小さな紙束にすぎない。けれどその紙束は、やがて彼女自身が最も恐れている未来と向き合うための、最初の灯りになるのだった。


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