↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こんな家族の姿があってもいいんじゃない?  作者: アーエル
第二章:領地の片隅のスローライフ(逆に多忙な本邸ライフ)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/55

21.覚書の噂


 噂は、香(こう)の煙のように王都の社交界へ広がっていった。


 最初は小さな囁きだった。グランヴィル侯爵夫人は、産むことを恐れているらしい。侯爵家は後継者を急がないらしい。領地では、女たちに休め、働くなと書いた紙を配っているらしい。言葉は人の口を渡るたび、少しずつ形を変えた。


 やがてそれは、都合のよい悪意をまとった噂になった。病弱な侯爵夫人は子を産む気がない。侯爵家は妻の我儘に振り回されている。産む女を甘やかせば、家門は弱くなる。そう語る者たちは、誰も覚書そのものを読んではいなかった。


 本邸でその噂を聞いたセシリアは、胸の奥が冷えるのを感じた。自分がいつか子を望んでいることを、リディアは知っている。だからこそ、あの覚書を送ってくれた。恐怖を押しつけるためではなく、孤独にしないために。


 それなのに、王都ではその優しさが、家門を弱くするものとして語られている。


「否定しますか」


 エリアスの声は低かった。怒りを抑えているのが分かる。だが、セシリアはすぐには答えられなかった。否定すれば、覚書そのものまで否定することになる。リディアが書いた言葉を、恥ずべきものとして隠すことになる。


「リディア様に、相談させてください。あの覚書は、隠すものではないと思います」


 別邸へ届いた手紙には、噂の内容が細かく記されていた。リディアは読みながら、怒るより先に少し感心してしまった。悪意ある者というのは、どうしてこうも人の急所を見つけるのが上手いのだろう。


「産む人の生命は、家の都合より重い。それを我儘と呼ばれるなら、我儘の意味を変えるしかありませんね」


 リディアは覚書を読み返した。村の女性たちの言葉、マーサの修正、薬師の助言。そこに書かれているのは、貴族令嬢の気まぐれではない。家の中で誰かが倒れないための、あまりに実用的な約束だった。


 ならば、隠す必要はない。ただし、出し方を間違えれば燃料になる。リディアは羽ペンを取り、新しい表題を書いた。

 侯爵領における母子保護と家内労働軽減に関する覚書。


「これなら、私個人の恐怖ではなく、領地運営の一部になります」


 メイは覗き込み、ゆっくりと頷いた。


「産まないための紙ではなく、死なせないための紙、ということですね」


「そういうことです。私は産まない妻ですが、領地の女たちが産んだあとも生きて笑っていられるなら、それは侯爵家の利益でもあります」


 リディアは整え直した覚書に、数字ではなく具体的な暮らしの言葉を添えた。産後三日間は重い水桶を持たせない。寝具は乾かす。熱があれば隠さず知らせる。食事を抜かせない。家族は母体を責めず、仕事を分ける。どれも、家門を弱くするどころか、領民の生命と働く手を守るためのものだった。


 本邸へ送った写しには、短い指示を添えた。


『噂を否定しないでください。代わりに、侯爵領では母子の生命を守るために当然の備えをしている、と説明してください。後継者を急がないのではなく、生まれる生命を軽んじないのです』


 その数日後、セシリアは茶会の席で、さっそく覚書について問われた。


「侯爵夫人様は、女性に働くなとおっしゃっているそうね。ずいぶん甘いお考えですこと」


 セシリアは静かに微笑んだ。胸は少しだけ痛んだが、以前のように揺らぎはしなかった。リディアの手紙が、答えるべき方向を示してくれている。


「働くな、ではございません。生命を削ってまで働かせるな、でございます。産後に倒れた母親が増えれば、家も領地も弱くなります。奥様はそれを防ぐため、家族が先に備えるよう示されただけです」


 茶会の空気が、思ったより静かになった。誰もが母や姉妹や娘を持っている。出産で身体を壊した女の話を、まったく知らない者など少ないのだ。


 ロズウェル伯爵夫人が扇を閉じ、穏やかに言った。


「私も、その覚書を拝見したいわ。慈善市で扱う救貧院の母子にも役立つかもしれませんもの」


「ありがとうございます。奥様に確認し、必要な形に整えてお届けいたします」


 その日を境に、噂の向きは少しずつ変わり始めた。侯爵夫人は我儘なのではなく、産む女の生命を軽んじない人らしい。領地では、産後の女に休む時間を与えるらしい。家族に読ませるための覚書があるらしい。悪意が混ざった言葉は、別の人の口を通るうちに、今度は希望を含み始めた。


 別邸にその報告が届いたとき、リディアはしばらく返事を書けなかった。自分が怖くて逃げたものが、誰かにとっては救いの言葉になる。それが少し不思議で、少しだけ痛かった。


「怖がりでも、役に立つことはあるのね」


 そう呟くと、メイは何も言わず、温かい茶を置いた。その沈黙が、今のリディアにはありがたかった。


 一方、ヴァレリー伯爵は面白くなさそうに報告を聞いていた。歪めたはずの噂は、思いがけず侯爵家の評判を支え始めている。覚書を笑った夫人たちの中にも、写しを求める者が出ているという。


「言葉で崩せぬなら、事実を作るしかない」


 伯爵は、冬明けに予定されている侯爵領の視察報告会へ目を向けた。そこには領地経営、慈善活動、そして後継者問題に関わる発言の場がある。公の場で一度でも言葉を誤れば、どれほど整えた覚書も盾ではなく火種になる。


 春を待つ王都の空の下で、次の噂はまだ形を持たないまま、静かに牙を研いでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。