15.代理夫人への招待
ヴァレリー伯爵家からの招待状がグランヴィル侯爵家本邸へ届いたのは、雪の気配を含んだ風が王都を吹き抜けた朝だった。
封蝋を見た瞬間、セシリアは胸の奥が静かに冷えるのを感じた。先日までは侯爵夫人本人を探ろうとしていた相手が、今度は自分へ向けて手を伸ばしてきた。それが偶然であるはずがない。
「内容は?」
エリアスが問い、家令が読み上げる。ヴァレリー伯爵夫人主催の小規模な音楽会。病弱な侯爵夫人の体調に配慮し、代理としてセシリアを招きたいという、どこまでも丁寧な文面だった。
「断りましょう」
エリアスの答えは早かった。だが、セシリアはすぐに頷けなかった。ここで断れば、ヴァレリー伯爵はまた別の形で揺さぶってくるだろう。逃げ続けるほど、侯爵夫人代理という立場は脆く見える。
「受けます。ただし、一人では行きません。ロズウェル伯爵夫人にも同席をお願いし、侯爵家の正式な付き添いを立てます」
「危険だ」
「分かっています。ですが、リディア様が教えてくださいました。隠すだけでは、噂は膨らむ。見せるものを、こちらで選ぶのだと」
その夜、セシリアは別邸へ手紙を書いた。招待状の内容、自分が受けると決めたこと、不安であること。そしてどのような言葉を用意すべきか。手紙の最後で、彼女は迷った末にこう書き添えた。
『怖くないわけではありません。でも、わたくしが揺らげば、リディア様の名も揺らぎます。だから、どうか少しだけ背中を押してください』
返事は三日後に届いた。リディアの文字はいつも通り整っていて、そこに慌てた様子は少しもなかった。
『背中を押す必要はありません。あなたはもう、自分の足で立っています。音楽会では、侯爵夫人本人の代わりに完璧な答えを探さないでください。あなたが守るべきなのは、私の顔ではなく、侯爵家の静けさです』
続く頁には、予想される質問と返答例が並んでいた。侯爵夫人の体調、領地での暮らし、慈善市の品、エリアスとの関係。どれも答えすぎず、隠しすぎず、聞いた者がそれ以上踏み込みにくい形に整えられている。
『それでも困ったら、微笑んでこう言ってください。奥様は、静かな場所でこそよく働かれる方です、と』
音楽会の日、セシリアは淡い菫色のドレスをまとい、胸元に白い花の刺繍布を忍ばせた。隣にはロズウェル伯爵夫人が付き添い、少し離れた場所には侯爵家の家令が控えている。逃げ道ではなく、支えとして用意された人々だった。
ヴァレリー伯爵夫人は優雅に迎えた。音楽は穏やかに始まり、会場には上品な笑い声が流れる。だが、曲の合間に向けられる視線は、旋律よりも鋭かった。
「侯爵夫人様は、今日もご欠席でいらっしゃるのね。お寂しくはありませんこと?」
最初に切り込んできたのは、ヴァレリー伯爵夫人の隣に座る若い夫人だった。問いは柔らかいが、周囲の耳が一斉にこちらへ向いた。
「寂しさよりも、誇らしさが勝ります。奥様は領地で静かに務めを果たしておいでですから。私にできるのは、そのお邪魔をしないよう、王都で必要なことを整えることです」
ロズウェル伯爵夫人が満足げに扇を閉じた。その小さな音が、セシリアの返答を認める合図のように響く。
しかし、ヴァレリー伯爵夫人は微笑みを崩さなかった。
「まあ。では、あなたは奥方様にとって、ずいぶん信頼の厚い方なのですね。ご親族でもないと伺っておりますのに」
会場の空気が、ほんの少しだけ冷えた。セシリアは胸元の刺繍布に触れたい衝動を抑え、代わりに膝の上で指を重ねた。
「信頼とは、血筋だけで決まるものではありません。奥様は、務めを果たす者をよく見てくださる方です。私もそのご信頼に恥じぬよう、学ばせていただいております」
「見事なお答えですわ」
ヴァレリー伯爵夫人の声は甘かった。だが、その目は少しも笑っていない。セシリアは、ここで勝つ必要はないと自分に言い聞かせた。乱さない。答えすぎない。リディアの静けさを守る。
音楽会は大きな波乱なく終わった。だが帰り際、ヴァレリー伯爵夫人はセシリアの耳元へ、誰にも聞こえないほどの声で囁いた。
「あなた、本当にただの代理でいられるのかしら」
セシリアは立ち止まりかけた。けれど、すぐに微笑んで礼をした。
「代理とは、任された務めを果たす者のことです。私には、それで十分です」
馬車へ戻った瞬間、セシリアの指先は震えていた。エリアスが差し出した外套を受け取りながら、彼女は小さく息を吐く。
「大丈夫か」
「大丈夫です。けれど、あの方は私を揺らすつもりです。リディア様の名ではなく、私の心を」
エリアスは険しい顔で窓の外を見た。王都の灯りは美しい。だが、その奥には見えない思惑がいくつも潜んでいる。
「ならば、今度はこちらから守り方を変えよう。君一人に受け止めさせるつもりはない」
その夜、セシリアはリディアへ短い報告を書いた。音楽会は無事に終わった。けれど、自分が揺さぶられたことも、隠さず記した。強がっても、リディアにはきっと見抜かれると思ったからだ。
『私は、代理であることに誇りを持ちたいです。けれど、その言葉で傷つかないほど強くはありません。リディア様、私は本当に、この場所にいてもよいのでしょうか』
別邸にその手紙が届く頃、王都ではヴァレリー伯爵が次の招待状を手にしていた。今度の宛名はセシリアではない。ラングフォード子爵夫妻。つまり、彼女の両親だった。
「代理が揺れぬなら、代理を育てた家を問えばよい」




