12.本邸からの返書
リディアからの報告書が侯爵家本邸へ届いたのは、夜半近くのことだった。
エリアスは執務室で封を切り、数枚にわたる手紙を読み進めるうちに、表情を険しくした。王都から来た商人。紹介状も価格表もなく、品よりも屋敷の構造や使用人の動きに目を向けていた男。最後には商談記録を求められて退いたという。
「やはり、ヴァレリー伯爵か」
低く呟いた声に、傍らで書類を整理していたセシリアが顔を上げた。彼女はエリアスから手紙を受け取ると、慎重に目を通した。読み終える頃には、胸元に添えた手が強く握られていた。
「リディア様は、恐ろしい思いをなさったのではないでしょうか」
「恐ろしかったとしても、そう書かない人だ。だからこそ、こちらが先に動かなければならない」
エリアスはすぐに家令を呼び、王都と領地の双方で商人の出入りを記録するよう命じた。紹介状のない者は屋敷の敷地内へ入れないこと。取引は必ず帳簿に残すこと。領地の別邸へ向かう荷には、送り主と内容物を明記させること。
「規則にしてしまえば、特定の誰かを疑っているとは言わずに済む。リディア嬢の言う通りだ」
セシリアは静かに頷いた。自分なら、リディアを心配するあまり感情的な手紙を書いてしまったかもしれない。けれどリディアは、恐怖や怒りではなく、再発を防ぐための規則を提案していた。
「リディア様は、いつも先のことを考えてくださいますね」
「自分の平穏を守るためだと言うだろうが、その平穏の中に、いつの間にか私たちも入れてくれている」
翌朝、グランヴィル侯爵も報告を読んだ。侯爵は長い沈黙のあと、机の上に手紙を置き、わずかに口元を歪めた。
「あの娘は、本当に面倒なほど賢いな」
「褒めておいでなのですか、父上」
「半分はな。残り半分は、敵に回したくないという意味だ」
グランヴィル侯爵は椅子にもたれ、窓の外へ視線を向けた。庭では冬枯れの枝が風に揺れている。彼は長く家名を守ってきた人間だった。だからこそ、剣や権力だけでは防げない危うさを知っている。
「エリアス。別邸の警備を増やせ。ただし、目立たせるな。病弱な夫人の静養先に兵を並べれば、かえって噂になる」
「護衛ではなく、荷運びや庭師の名目で人を置きます。出入りの記録はハロルドに任せ、商人の紹介状は本邸でも確認させます」
「よい。ついでに、領地の商人組合へ通達を出せ。侯爵家へ納める品は、今後すべて帳簿と価格表を添えること。理由は品質管理で十分だ」
セシリアはそのやり取りを聞きながら、静かに息を吐いた。リディアが一人で防いだ小さな来訪は、こうして侯爵家全体の規則へ変わっていく。誰かを責めるためではなく、次に同じような穴を作らないために。
「私からも、リディア様へお礼の手紙を書いてよろしいでしょうか」
「もちろんだ。君の言葉で伝えてやってほしい。彼女は礼を言われると、きっと合理的な返事をするだろうが」
エリアスの予想通り、セシリアはその日のうちに丁寧な返書を書いた。無事でいてくれたことへの安堵。商人対応の規則を本邸でも採用したこと。別邸へ目立たぬ形で人を増やすこと。そして最後に、少しだけ私的な一文を添える。
『リディア様。どうか、ご自分が怖かったときには、怖かったと書いてください。私たちは、あなたの平穏に守られているだけではなく、あなたの平穏も守りたいのです』
エリアスもまた、別紙に短く記した。
『約束通り、あなたの生活と名誉は私が守ります。だが、あなた一人に守らせるつもりはありません』
数日後、その返書を受け取ったリディアは、読書室の長椅子でしばらく手紙を見つめていた。
「困ったわね」
メイが茶を置きながら首を傾げる。
「何か悪いことが書かれていたのですか」
「いいえ。優しいことが書かれていたの。だから困るのよ」
リディアは返事を書こうとして、何度か羽ペンを置いた。怖かった、と書くのは難しい。自分の恐怖を言葉にすれば、誰かが心配する。心配されれば、自分が築いた静かな距離が少し近くなる。
それでも、セシリアの手紙を無視することはできなかった。
『少しだけ怖かったです。けれど、四阿に人を呼べば大丈夫だと思えました。次からはもっと早く休みます。ですから、そちらも笑顔を使い切らないように』
書き終えると、リディアは妙に疲れていた。商人を追い返したときよりも、よほど胸が落ち着かない。守られることに慣れていないのだと、彼女は少し遅れて気づいた。
一方、王都ではヴァレリー伯爵が別の招待状を用意していた。宛先はグランヴィル侯爵家ではない。エルフォード伯爵家、つまりリディアの実家である。
「本人に近づけぬなら、過去を探ればよい。病弱な伯爵令嬢が、どれほど病弱だったのか。家族は何を隠しているのか」
彼は封蝋を押し、薄く笑った。
別邸の門は閉じられた。だが、リディアが置いてきた伯爵家の扉までは、まだ誰も守っていなかった。




