11.別邸の来訪者
冬の気配が深まるにつれ、別邸の庭は少しずつ色を失っていった。
白い花をつけていた低木は葉を落とし、薬草畑には霜よけの藁がかけられている。朝の空気は冷たく、リディアは読書室の暖炉に火が入る時間を以前より少し早めてもらった。毛糸の肩掛けを膝に置き、温かい茶を飲みながら本を読む。彼女にとっては、十分すぎるほど贅沢な冬支度だった。
その平穏に、見慣れない商人の馬車が紛れ込んだのは、午後の手仕事会が始まる少し前のことだった。
「奥様、王都から糸と布を扱う商人が来ております。慈善市の評判を聞き、品を見ていただきたいと」
ハロルドの報告に、リディアは本から顔を上げた。王都の商人が来ること自体は不思議ではない。慈善市の後、草木染めの糸や領地の手仕事に興味を持つ者は増えていた。けれど、予定にない来訪者を屋敷の奥へ通すほど、彼女は不用心ではなかった。
「庭の四阿で会います。読書室には通さないで。布と糸を見るだけなら、明るい場所の方がよいでしょう」
「承知いたしました」
十分後、リディアは厚手の外套を羽織り、メイを伴って庭へ出た。四阿には、三十代ほどの男が控えていた。身なりは商人らしく整っているが、荷の置き方、視線の動かし方、靴についた泥の乾き具合が、どうにも噛み合わない。
男は深々と頭を下げた。
「突然の訪問をお許しください、奥様。王都でグランヴィル侯爵領の手仕事が評判と聞きまして、ぜひ上質な糸をお目にかけたいと思い参りました」
「それはご丁寧に。ですが、私は高価な糸より、長く使える糸を好みます。まずは品を見せていただけますか」
商人は箱を開けた。中には色鮮やかな絹糸が並んでいる。品は悪くない。けれど、箱の底に布見本や価格表がほとんどないことに、リディアはすぐ気づいた。本当に商談に来た者なら、売るための準備が少なすぎる。
「王都では、奥様ご自身が図案を描かれたと評判でございます。病弱でいらっしゃるとうかがっておりましたが、このようにお元気そうで何よりです」
柔らかな言葉の奥に、探るような響きがあった。
リディアは膝の上で指先を重ね、薄く微笑んだ。
「元気そうに見える日だけ、人前に出ております。長く座っているとすぐ疲れてしまいますので、今日も四阿までが限界です」
「それは失礼を。では、あまり長居はいたしますまい」
男はそう言いながらも、視線だけは屋敷の窓や使用人の動きを追っていた。読書室の位置を測っているのか、出入りする者の数を数えているのか。いずれにせよ、糸を売る商人の目ではない。
「せっかくですから、村の女性たちにも見てもらいましょう。今日は手仕事会の日なのです」
男の笑みが、ほんのわずかに強張った。侯爵夫人と二人きりで話すつもりだったのだろう。けれどリディアは気づかないふりをして、メイに目配せした。
ほどなくして、リナや村の女性たちが四阿の近くへ集められた。皆、最初は遠慮がちだったが、糸箱を見せられると自然に目を輝かせた。商人を名乗る男は、その視線の多さに落ち着かない様子を見せる。
「こちらの絹糸は美しいですね。ただ、領地の冬物には少し滑りすぎます。普段使いの肩掛けなら、もう少し撚りの強い糸の方が長持ちします」
「奥様のおっしゃる通りです。これだと、子どもが引っかけたらすぐ毛羽立ちますね」
リナの母が遠慮なくそう言うと、周囲の女性たちも頷いた。商人は一瞬言葉に詰まり、それから慌てて別の糸を取り出す。だが、価格表はない。仕入れ先の説明も曖昧だった。
「失礼ですが、お店の名をもう一度うかがってもよろしいかしら。今後お取引するなら、ハロルドに帳簿を整えさせなければなりません」
「それは、その……王都で小さく商っておりますので、屋号を申し上げるほどのものでは」
「困りましたね。侯爵家の名で扱う品に、出所の分からないものは使えません。作り手にも買い手にも、説明できるものだけを選びたいのです」
言葉は穏やかだったが、それは明確な拒絶だった。しかも周囲には村の女性たちと使用人がいる。今日この場で、見知らぬ商人が侯爵夫人に出所の曖昧な品を売ろうとしたことは、自然に証言されることになる。
男もそれに気づいたのだろう。愛想笑いを貼りつけたまま、そそくさと箱を閉じた。
「本日は突然の訪問でございましたので、改めて出直させていただきます」
「ええ。次は紹介状と価格表をお持ちください。侯爵領では、良い品も良い縁も、記録に残して大切にしますから」
商人はもう一度頭を下げ、足早に屋敷を去っていった。門の向こうに馬車が消えるまで見送ってから、リディアはようやく四阿の椅子に深く腰を下ろした。
「奥様、あの方は本当に商人だったのでしょうか」
リナが小声で尋ねる。リディアは少しだけ首を傾げた。
「仮に商人だったとしても、私は取引したくありません。商いに必要なものより、詮索に必要な目ばかり持っていましたから」
女性たちは顔を見合わせ、すぐに頷いた。あの男が読書室の窓を数え、使用人の出入りを見ていたことに、彼女たちも気づいていたのだ。
「今日のことは、変に噂にしないでください。ただし、また同じような者が来たら、すぐ此方へ知らせてください。皆さんの手仕事を守るためにも、出所の分からない糸は使わないようにしましょう」
「分かりました、奥様」
その返事は思いのほか力強かった。リディアは、自分一人で秘密を守っているつもりだった。けれどいつの間にか、別邸の人々も、村の女性たちも、この静かな場所を守る側に立ってくれている。
その夜、リディアは本邸へ手紙を書いた。王都から来た商人の名乗り、持ち込んだ品、価格表の欠如、屋敷を観察する態度。そして、ヴァレリー伯爵家と関係があるかもしれないという推測を、感情を交えず淡々と記す。
『今後、王都から来る商人には紹介状と価格表を必須としてください。こちらでも同じ規則を設けます。規則にすれば、相手を疑っているとは言わずに拒めます』
最後に、リディアは少し迷ってから追伸を書いた。
『セシリア様へ。知らない相手の前では、笑顔を使い切らないように。笑顔も体力も、必要な相手のために残しておくものです』
手紙を封じたあと、リディアは暖炉の前で肩掛けにくるまった。危機を退けたというほどのことではない。ただ、扉の前で一人の来訪者を帰しただけだ。
それでも、静かな暮らしには門番が必要なのだと、リディアは知った。剣を持つ門番ではない。言葉と記録と、人の目でできた門番である。
一方、王都へ戻った男は、ヴァレリー伯爵の前で顔を青くしていた。
「夫人本人には会えました。ですが、屋敷の中には入れず、村人や使用人に囲まれ、商談の記録まで求められました。あれ以上は、不自然になります」
ヴァレリー伯爵は、机の上に置かれた匂い袋を見下ろした。月桂樹の刺繍。礼儀正しく、隙がなく、腹立たしいほど静かな牽制。
「なるほど。病弱な小鳥ではなく、巣の入口に罠を張る鳥だったか」
彼の声には、苛立ちと興味が混じっていた。
リディアの静かな生活は、まだ守られている。けれど、その静けさに価値があると知った者ほど、次はもっと深く覗き込もうとするのだった。




