10.噂を追う者
慈善市の翌日から、王都の社交界ではグランヴィル侯爵家の話題が増えた。
病弱で姿を見せない若き侯爵夫人。けれど領地の女性たちの手仕事を見出し、慈善市で思わぬ評判を得た人物。噂好きの貴婦人たちは、彼女を儚げで心優しい奥方として語り、商人たちは侯爵領の草木染めに新しい価値が生まれるかもしれないと囁いた。
だが、好意的な噂ばかりが広がるほど、面白くない者もいる。
「侯爵夫人は病弱で表に出られない。だが、その代理は妙に場慣れしてきた。しかも、夫人本人を見た者はほとんどいない」
そう言ったのは、ヴァレリー伯爵だった。細い銀縁の眼鏡をかけ、常に人の失点を探すような冷たい目をした男である。かつてグランヴィル侯爵家と領地境界の利権を巡って争った家の当主であり、エリアスが次期侯爵として力をつけることを快く思っていなかった。
彼の前には、慈善市に出品された匂い袋が置かれている。白い花と蔦の模様。素朴だが目を引くそれを、ヴァレリー伯爵は指先でつまみ上げた。
「評判を取るだけなら放っておく。だが、領地の民心まで拾い上げるとなれば話は別だ。病弱な夫人が本当にそこまで動けるのか、確かめる価値はある」
その頃、侯爵家本邸では、セシリアが届いた招待状の束を前にして眉を寄せていた。慈善市の成功以来、茶会や音楽会への招きが急に増えている。どれも表向きは侯爵夫人の体調を気遣うものだが、実際には彼女の様子を探るためのものも混じっているに違いなかった。
「すべて断れば不自然。すべて受ければ危険。難しいですね」
エリアスは招待状を一枚ずつ確認し、ヴァレリー伯爵家の紋章が押された封蝋を見つけて表情を険しくした。
「これは受けない方がいい。ヴァレリー伯爵は父の代から我が家に敵意を持っている。慈善市の評判を利用して、何か探りを入れてくるだろう」
「ですが、断り続ければ、奥様は本当に人前に出せない状態なのだと噂されます」
セシリアの声は落ち着いていたが、指先はわずかに震えていた。侯爵夫人代理として務める覚悟はある。しかし、リディアの存在を危険にさらすかもしれない選択は怖かった。
「まずはリディア嬢に知らせよう。彼女はこういうとき、こちらが思いつかない逃げ道を見つける」
別邸にその報せが届いたのは、三日後の昼過ぎだった。
リディアはちょうど、村の女性たちと冬用の肩掛けの図案を選んでいたところだった。ハロルドが銀盆に載せた手紙を差し出すと、彼女は封蝋の紋章を見てすぐに表情を改めた。
手紙には、慈善市後の招待状の増加、ヴァレリー伯爵家からの招き、そしてセシリアがどの範囲まで応じるべきか迷っていることが丁寧に記されていた。
「動きが早いわね」
メイが不安そうに覗き込む。
「何か問題がございましたか」
「問題というより、予定通りの面倒ごとです。人は、見えないものほど覗きたがるものですから」
リディアは机に向かい、白紙を広げた。逃げるだけでは噂は膨らむ。かといって、正面から姿を見せることはできない。ならば、見せるものと隠すものをこちらで選べばよい。
「病弱な侯爵夫人が表に出られないなら、表に出られない理由を増やしましょう」
「理由を、増やすのですか」
「ええ。体調不良だけでは弱いのです。領地の冬支度、慈善市の継続、村の女性たちの手仕事の管理。侯爵夫人は表に出られないのではなく、領地で静かに仕事をしている。そう見せます」
メイは感心したように息を吐いた。
「つまり、隠れるために働いているふりをするのですね」
「ふりではありません。実際に働きます。働いている内容を、都合よく見せるだけです」
リディアは羽ペンを取り、招待状への返答方針を書き始めた。すべてを断るのではなく、信頼できる家の茶会にはセシリアが代理として出る。敵意の強い家には、侯爵夫人の領地視察と冬支度を理由に丁重な断りを入れる。ただし一方的に拒絶したように見えないよう、慈善市の礼状と領地の手仕事品を添える。
「ヴァレリー伯爵家には、匂い袋を一つ。白い花ではなく、地味な月桂樹の模様にしてください。勝利や栄誉を意味する意匠です。敵意を向けてくる相手ほど、礼を尽くした方が警戒します」
「奥様、相手を喜ばせるのですか」
「いいえ。こちらが慌てていないと知らせるのです。隠したい秘密がある者ほど、贈り物など送れませんから」
メイは感心したような、少し呆れたような顔で頷いた。リディアはその間にも、セシリアへ宛てた手紙を別に書き始める。
『招待は選んで受けてください。あなたが会うべき相手は、こちらの味方になり得る人です。敵意ある相手にまで笑顔を使い切る必要はありません。ヴァレリー伯爵家には、私が領地の冬支度に関わっているため欠礼する、という形で返してください。弱さではなく、役目を理由にするのです』
さらに、リディアは領地の女性たちにいくつかの図案を頼んだ。礼状に添える小さな匂い袋、冬支度のための肩掛け。病弱な侯爵夫人が、領地で静かに過ごしていることを自然に印象づける品々である。
数日後、本邸に届いたリディアの指示を読んだセシリアは、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。敵意ある招待を断ることは逃げではない。守るべきものを守るための選択なのだと、手紙は教えてくれていた。
「では、ヴァレリー伯爵家にはこの文面で返します。奥様は領地にて冬支度と慈善品の制作を監督中。体調に配慮し、王都への長距離移動は控える。代わりに、侯爵家より感謝の品を贈る、と」
「完璧だ」
エリアスはそう言って、セシリアの前に置かれた返書を確認した。彼の表情には安堵と、リディアへの感嘆が混じっている。
「リディア嬢は、戦場に出ない軍師のようだな」
「ご本人は、読書室から一歩も出たくないだけだと仰るでしょうけれど」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。笑えるうちは大丈夫だ。セシリアはそう思いながら、返書に封をした。
だが、ヴァレリー伯爵はその返書を読んでも、追及を諦めなかった。
「領地で冬支度、か。ずいぶん都合のよい理由だな」
彼は添えられた匂い袋を手に取った。月桂樹の刺繍は丁寧で、礼を欠いたところはない。だからこそ、挑発にも見えた。こちらの探りなど見抜いている、と静かに告げているように。
「よろしい。ならば、王都ではなく領地を調べればいい」
ヴァレリー伯爵は側近へ命じ、グランヴィル侯爵領へ向かう商人の荷に紛れ込ませる形で、ひとりの男を送り出す手配をした。目的はただ一つ。別邸にいるという侯爵夫人が、本当にリディア・グランヴィルなのかを確かめること。
同じ頃、別邸の読書室で、リディアはくしゃみを一つした。
「風邪かしら」
「いえ、きっと誰かが奥様の噂をしているのです」
メイがそう言うと、リディアは手元の本から顔を上げ、少しだけ遠くを見るような目をした。
「噂で済んでいるうちは、まだ平和ね」
窓の外では、冬を運ぶ風が森の梢を揺らしていた。その風の向こうから、まだ名前も知らない面倒ごとが少しずつ近づいていることを、リディアは知らなかった。
ヴァレリー伯爵のイメージモデルは、8月に亡くなられた品川徹さんでした。
ご冥福をお祈りします。




