7.侯爵夫人代理の初仕事
侯爵家本邸の朝は、別邸の朝よりもずっと早い。
まだ庭の噴水に朝日が届く前から、女中たちは廊下を磨き、料理人たちは厨房で湯気を上げ、家令はその日の訪問予定を確認していた。セシリアは鏡の前で、侍女に髪を結われながら、膝の上に置いた予定表を何度も読み返していた。
「ロズウェル伯爵夫人、午前十時。茶会ではなく、病弱な侯爵夫人への見舞いという名目。滞在時間は一時間以内。話題は領地の収穫、王都の慈善市、秋の音楽会……」
声に出して確認しても、不安は消えなかった。今日の客人は、セシリアにとって初めて一人で応対する貴婦人である。表向きには、体調を崩しがちな侯爵夫人リディアを補佐する親族筋の令嬢として同席するだけ。けれど実際には、侯爵夫人代理としての初仕事だった。
机の上には、前夜遅くに届いたリディアからの手紙が置かれている。
『初対面の貴婦人に勝とうとしないこと。相手は勝負をしに来るのではなく、情報を拾いに来ます。あなたは完璧な侯爵夫人を演じる必要はありません。病弱な奥様を気遣いながら、家の空気を乱さない人であれば十分です』
セシリアはその一文を、もう十回は読んでいた。
「勝たなくていい。乱さなければいい……」
小さく呟いたところで、扉が叩かれた。入ってきたエリアスは、朝の執務服を身につけていた。忙しいはずなのに、わざわざ様子を見に来てくれたのだろう。
「緊張している?」
「していないと言えば、嘘になります」
「リディア嬢なら、きっとこう言う。倒れない範囲で頑張ればよい、と」
セシリアは思わず笑った。確かに、リディアなら言いそうだった。その笑いで、胸の中の緊張が少しだけほどける。
「では、倒れない範囲で務めます」
午前十時、ロズウェル伯爵夫人が到着した。
年配の貴婦人は、柔らかな笑みを浮かべていたが、その目は油断なく室内を観察していた。花の種類、茶器の格、席の配置、使用人の動き。すべてが侯爵家の内情を測る材料になる。
「お初にお目にかかります、ロズウェル伯爵夫人。本日は奥様へのお心遣い、誠にありがとうございます。奥様は長旅の疲れが残っておられますため、私が代わってお迎えいたします」
「まあ。あなたが、奥方様の代理を?」
「はい。奥様のご体調が整うまで、身の回りのことをお手伝いするよう仰せつかっております」
セシリアは微笑みながら、内心でリディアの手紙を思い出していた。勝とうとしない。乱さない。相手の知りたいことを、すべて与える必要はない。
茶が運ばれ、会話は穏やかに始まった。収穫、天候、王都の慈善市。セシリアは用意した通りに言葉を選び、相手の冗談には控えめに笑い、知らない話題には知ったかぶりをしなかった。
だが、穏やかな会話ほど、刃は薄く差し込まれるものだ。
「ところで、奥方様は本当にご静養中なのかしら。大神殿でのお式でも、ずいぶんとお顔を隠しておいででしたでしょう?」
伯爵夫人の声は柔らかい。けれど、その言葉は明らかに探りだった。
セシリアはカップを置く手に力が入りそうになるのを抑えた。ここで慌てれば、かえって不自然になる。彼女は一度だけゆっくり瞬きをし、リディアの手紙の続きを思い出した。
『病弱な方を守る言葉は、否定ではなく配慮に寄せること。隠しています、と聞こえないように。守っています、と伝わるように』
「奥様は、昔から人前に長く立つことが得意ではないとうかがっております。ですが、侯爵家へ嫁がれた以上、ご無理を重ねようとなさる方でもあります。ですから今は、周囲が先にお止めしているのです」
「まあ。ずいぶん大切にされているのね」
「はい。侯爵家にお迎えした大切な奥様ですもの」
その言葉は、嘘ではなかった。少なくともセシリアにとって、リディアは守るべき人だった。名を借りているからではない。自分たちの未来を守るために、誰よりも先に逃げ道を作ってくれた人だからだ。
ロズウェル伯爵夫人は扇の陰で小さく笑った。
「よいお返事ね。奥方様は、よい方をそばに置かれたようだわ」
試されたのだ、とセシリアはそこで気づいた。伯爵夫人は悪意だけで探ったのではない。侯爵家の新しい奥向きが、噂に揺らぐほど脆いものかを確かめに来たのだ。
それからの会話は、少しだけ柔らかくなった。伯爵夫人は慈善市に出す刺繍品の話をし、セシリアはリディアが手仕事を好むことを、差し障りのない範囲で伝えた。侯爵夫人は表に出られないが、領地の女性たちの手仕事には関心がある。そう聞いた伯爵夫人は、来月の慈善市に侯爵家から小さな品を出してはどうかと提案した。
「奥様にお伺いしたうえで、ぜひ前向きに検討させていただきます」
セシリアがそう答えると、伯爵夫人は満足げに頷いた。
客人が帰ったあと、セシリアは応接室の扉が閉まった途端、椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばし続けていたせいで、肩も指先も強張っている。
「終わった……のでしょうか」
「十分すぎるほど上出来だ」
いつの間にか扉のそばに立っていたエリアスが、穏やかな声で言った。
「上出来、でしょうか。途中で、心臓が止まりそうでした」
「止まらなくてよかった。リディア嬢にも、倒れない範囲で務めたと報告できる」
その冗談に、セシリアはようやく笑った。笑うと、張り詰めていたものが一気にほどけ、目の奥が熱くなる。
「リディア様の手紙がなければ、きっと余計なことを申し上げていました。奥様を隠しているのではなく、守っている。そう言えばよいのだと、教えていただいたのです」
「彼女は表に出ないが、よく見ている」
エリアスの言葉に、セシリアは深く頷いた。別邸にいるはずのリディアは、目の前にはいない。けれど、彼女の考えた言葉が、今日の応接室を確かに支えていた。
その夜、セシリアはリディアへ長い手紙を書いた。ロズウェル伯爵夫人の訪問。探るような質問。自分がどのように答えたか。慈善市の刺繍品の提案。そして、無事に一日を終えられたこと。
『勝たずに、乱さずに済みました。これはリディア様の助言のおかげです』
そう書き終えてから、セシリアはしばらく羽ペンを持ったまま考えた。そして最後に、素直な本音を一行だけ付け加える。
『少しだけ、侯爵夫人代理として立てた気がします』
数日後、別邸へ届いたその手紙を読んだリディアは、窓辺で小さく微笑んだ。膝の上には編みかけの肩掛けがあり、机の上には慈善市に出せそうな刺繍図案がいくつか広げられている。
「少しだけ、ではないと思うけれど」
返事には、短くこう書いた。
『初仕事、お疲れさまでした。次からは、終わったあとに甘いものを食べるところまでを予定に入れてください。継続力とは、休む予定を先に確保することです』
手紙を封じたリディアは、慈善市用の図案を一枚選んだ。蔦模様の中に、小さな白い花を散らした図案である。派手ではないが、丁寧に縫えばきっと目を引くだろう。
侯爵夫人は表に出ない。侯爵夫人代理は、まだ社交に慣れていない。けれど二人でなら、案外うまくやっていけるのかもしれない。
リディアは針に糸を通し、静かに最初の一針を落とした。




