6.別邸の新生活
侯爵領の空は、王都よりも広かった。
馬車の窓から見える丘陵はなだらかで、遠くには銀色に光る川が流れている。麦畑は収穫を終えたばかりで、刈り取られた穂の匂いが風に混じっていた。石造りの村を抜け、林道をしばらく進むと、蔦の絡まる小さな屋敷が姿を現した。
「ここが、私の城ね」
リディアは馬車を降り、深く息を吸った。王都の香水と石畳の匂いではなく、土と草と乾いた木の匂いがする。華やかではない。けれど、彼女にとってはそれが何より好ましかった。
出迎えたのは、初老の家令ハロルドと、数人の使用人たちだった。皆、緊張した面持ちで頭を下げている。彼らにとって、リディアは新たな侯爵夫人であり、しかも病弱で気難しいかもしれない高位の奥方だった。
「本日よりお世話になります。無理な社交も盛大なもてなしも不要です。清潔な部屋と温かいお茶、それから本棚が崩れない程度の管理をお願いします」
家令ハロルドは一瞬だけ目を瞬かせ、それから深々と頭を下げた。
「承知いたしました、奥様。まずは読書室へご案内いたします」
その判断の早さに、リディアは心の中で家令への評価を一段引き上げた。
読書室は、リディアの期待を裏切らなかった。
南向きの窓からは庭が見え、窓辺には低い長椅子が置かれている。壁には天井近くまで本棚が並び、古い革表紙の本が整然と収められていた。暖炉の上には小さな時計があり、針の進む音が静かに部屋へ溶けている。
「素晴らしいわ」
リディアが思わず呟くと、ハロルドの肩からわずかに力が抜けた。どうやら、侯爵夫人の機嫌を損ねずに済んだと思ったらしい。
「この部屋と、庭に面した小部屋を手仕事用に使いたいの。刺繍糸と布、毛糸、針箱を置く棚を用意してもらえるかしら」
「すぐに手配いたします」
「それから、屋敷内の水回りを確認したいわ。井戸、台所、洗濯場、寝室の換気。薬草茶よりも、まず清潔な水と空気が大事ですもの」
使用人たちは顔を見合わせた。侯爵夫人が到着して最初に求めるものとしては、あまりにも実用的すぎたのだろう。だが、リディアにとっては当然だった。美しい寝台より、清潔な寝具。高価な食器より、よく洗われた手。前世の記憶は贅沢品ではなく、生命を守るための知識として残っている。
その日の夕方までに、リディアは屋敷の中を一通り歩いた。古い屋敷ではあるが、掃除は行き届いている。改善すべき点は多いものの、無理に変えれば反発も生む。彼女は紙にいくつかの項目を書き出し、ハロルドへ渡した。
「急がなくてよいものと、すぐに直したいものを分けました。まずは台所の布巾を毎日煮洗いすること。井戸の蓋を閉めること。寝具は天気のよい日に干すこと。これだけお願いします」
「奥様は、医術にお詳しいのでしょうか」
「いいえ。ただ、汚れたものを口に入れれば腹を壊しますし、湿った寝具で眠れば体調を崩します。難しいことではありません」
ハロルドは深く頷いた。そこに反論はなかった。むしろ、屋敷を預かる者として信頼されたことを喜んでいるように見えた。
一方その頃、侯爵家本邸では、セシリアがまったく別の意味で忙しい日々を送っていた。
朝は家政帳簿の読み方から始まり、昼には訪問客への応対。午後には晩餐会の席次と贈答品の管理。夜には侯爵家の親族関係を覚える。表向きは病弱な侯爵夫人を補佐する親族筋の令嬢という扱いだが、実際には侯爵夫人代理としての教育だった。
「奥方様への返書は、季節の挨拶を先に。相手の爵位と家格によって言葉を変えます」
「はい。もう一度、書き直します」
セシリアの指先には、慣れない筆記で薄く赤みが差していた。それでも彼女は弱音を吐かなかった。リディアが自分のために道を整えてくれたのなら、自分もその道を歩けるだけの力を持たなければならない。
夜、エリアスが執務室に戻ると、机の上には二通の手紙が置かれていた。一通は領地の別邸からリディアへ宛てた報告書の写し。もう一通は、リディア本人から届いた短い手紙だった。
『別邸は快適です。特に読書室が気に入りました。クッションの数も十分です。台所の布巾だけは煮洗いを推奨します。なお、古代薬草学全集の第七巻が欠けています。可能であれば捜索をお願いします』
エリアスは思わず笑った。
「彼女らしいな」
「リディア様からですか?」
書類を抱えたセシリアが、扉の前で立ち止まっていた。エリアスが手紙を差し出すと、彼女は遠慮がちに受け取り、読み終える頃には口元をほころばせていた。
「本当に、読書室がお好きなのですね」
「ああ。そして、こちらの心配を少しも増やさない書き方をしてくれる」
セシリアはその言葉に頷いた。リディアの手紙には、寂しいとも、不安だとも書かれていない。だが、それは強がりではなく、彼女が本当に自分の選んだ生活を始めた証のように思えた。
数日後、別邸のリディアのもとへ、セシリアから返事が届いた。
『本邸での学びは想像以上に多く、毎日目が回りそうです。けれど、リディア様がわたくしの立場を守ってくださったことを思えば、弱音ばかりは言えません。もしよろしければ、体調を崩しにくいお茶の淹れ方を教えていただけませんか』
リディアは手紙を読み終えると、すぐに返事を書いた。難しい薬効を語るつもりはない。ただ、温かいものをゆっくり飲むこと、寝る前に明日の心配をしすぎないこと、疲れた日は誰かに仕事を任せてもよいこと。そんな当たり前のことを、丁寧な言葉で綴った。
「侯爵夫人代理に必要なのは、完璧さではなく継続力です。倒れるまで頑張る人は、長く家を支えられません」
そう書いてから、リディアは少し考え、追伸を加えた。
『刺繍布は、返さなくて結構です。あなたが持っていてください。その方が、私の名も退屈しないでしょうから』
封をして侍女に渡すと、リディアは窓辺の長椅子へ腰を下ろした。庭では使用人が洗った布巾を陽に干している。井戸には新しい蓋がつき、台所からは香ばしい焼き菓子の匂いが漂ってきた。
リディアは本を開き、膝に毛糸玉を置いた。侯爵夫人らしい華やかな生活ではない。舞踏会も宝石も、恋の囁きも愛の調べもない。
けれど、陽だまりと本と手仕事があり、遠く本邸には自分の名を背負って頑張る少女がいる。書類上の夫は、約束通りこちらの暮らしを守ってくれている。
「悪くないわ。本当に、悪くない」
そう呟いて、リディアは静かな結婚生活の穏やかな一日を、ようやく心から楽しみ始めた。




