3 もうあなたを、愛していません
竜王国の白銀の城門の前。
冷たい雨が打ち付ける中、デズモンド王子は泥水の中にひざまずいていた。
華やかな金髪は泥に汚れ、王族の象徴である純白の外套も雨水を吸って重く垂れ下がっている。
それでも、彼はピクリとも動かなかった。
「……ルシェリア」
その名を呼ぶ声は、ひどく掠れていた。
王都を出てから三日。
食事も水もろくに口にしていない。
次期国王としての誇りも、王族としての威厳もすべてかなぐり捨て、ただ一人の女性に許しを乞うためだけにここまで来たのだ。
やがて、重厚な城門が地響きを立ててゆっくりと開く。
現れたのは、ルシェリアだった。
竜族が仕立てた淡い水色の最高級のドレスに身を包み、柔らかな笑みを浮かべている。
それは、追放された日のような、すべてを諦めた悲しげな表情ではなかった。心から安らぎ、満たされている者だけが浮かべることのできる、温かな笑顔だった。
その美しく神々しい姿を見た瞬間、デズモンドの目から止めどなく涙が溢れ出した。
「……無事で、よかった」
「お久しぶりです、デズモンド殿下」
少し驚いたように目を丸くしたルシェリアだったが、静かに、そして完璧なカーテシーで頭を下げた。
「殿下などと呼ばないでくれ!」
デズモンドは、泥まみれの地面に額を擦りつけた。
「頼む……! 私と共に帰ってきてくれ! 王都はもう限界なんだ。罪のない国民が苦しんでいる! 結界を戻せるのは、君しかいないんだ!」
「……」
「私がいけなかった! お願いだ、どうか……っ!」
雨音だけが、冷たく響く。
長い沈黙のあと、ルシェリアはひどく穏やかな声で尋ねた。
「殿下」
「……っ」
「私を追放したあの日、私は何と申し上げましたか?」
デズモンドは息を呑み、答えられない。
「あの日、私は『意のままに』と申し上げました。殿下のお言葉は、国において絶対だと思っておりましたから」
「……」
「ですから私は、その命令に従い、手放しただけです。……もう、私の使命ではありません」
デズモンドはガタガタと震えながら顔を上げた。
「違う……私は間違えたんだ! 愚かにも君を信じず、真実を見ようとしなかった! お願いだ、もう一度だけ、私にやり直させてくれ!」
血を吐くような叫びを聞いても、ルシェリアの澄んだ瞳は一切揺れなかった。
「殿下」
彼女はゆっくりと微笑む。
その笑顔は、かつてデズモンドに向けられていたものと同じくらい優しかった。
だからこそ、よりいっそう残酷に見える。
「私は十年間、心から殿下をお慕いしておりました。毎朝、暗いうちから神殿で祈っていたのも、命を削る危険な儀式を続けていたのも。すべては殿下と、殿下が愛するこの国の未来のためでした」
デズモンドは縋るように何度もうなずく。
「知っている! 今なら君の献身が全部分かる! だから――」
「ですが」
その静かな一言で、デズモンドの声はピタリと止まった。
「その想いは、私がこの国を追放されたあの日に、すべて終わりました」
怒りもない。
恨みもない。
事実を告げるだけの、透き通った声。
「私は、もうあなたを愛していません」
世界から、すべての音が消え去ったようだった。
デズモンドの瞳から、大粒の涙が絶望とともにこぼれ落ちる。
「そんな……十年も、君は……私は……」
「失ってから気づくなんて、本当に愚かですね」
ルシェリアは、少しだけ寂しそうに笑った。
「人の心は戻りません。粉々に割れたガラスが二度と元に戻らないように……一度完全に失われた信頼も、愛情も、決して元には戻らないのです」
「――話は終わったか」
地を這うような低い声とともに、一人の男がルシェリアの隣へ歩み寄る。
漆黒の髪に、血のように赤い瞳。
竜王ゼフィール。
彼は極めて自然な仕草で、ルシェリアの華奢な肩を抱き寄せる。
「寒いだろう。風邪を引いてしまう」
そう言って、己の着ていた厚手の外套を彼女の肩へ優しく掛けた。
「ありがとうございます、ゼフィール様」
ルシェリアは、デズモンドには絶対に見せないような、花が綻ぶような甘い笑顔を向けた。
信頼に満ちたやり取りを見て、デズモンドの胸がギリギリと音を立てて軋む。
(あの笑顔は……昔、私だけに向けてくれていた笑顔だったのに……)
「人間よ」
ゼフィールが、デズモンドを見下ろし、絶対零度の声で告げる。
「我が最愛の番に、まだ何か用か?」
「番……」
デズモンドは呆然と二人を見上げた。
ルシェリアはゼフィールを見上げ、ゼフィールもまた、酷薄な瞳を蕩けさせて彼女を見つめ返している。
デズモンドは、ここに至ってようやく完璧に理解した。
もう遅い。
本当に、何もかもが手遅れだったのだ。
その時、城壁の上から見張りの兵士が叫び声を上げた。
「陛下! 王都に潜ませていた使い魔から、緊急の魔法通信です!」
ゼフィールが不快そうに眉をひそめる。兵士は青ざめた顔で絶叫した。
「王都の魔力残滓が完全に消滅しました! 魔王軍が国境を突破し、王都へ侵攻を開始したとのことです!!」
デズモンドは、泥の中に崩れ落ちた。
自分が守るべきだった国が、今まさに、自分のせいで滅びようとしていた。
★
「王都陥落まで……あと半日です!」
王城の玉座の間では、悲鳴のような報告が絶え間なく飛び交っていた。
城壁は崩れ落ち、結界は完全に消滅。王都を守る最後の砦であった騎士団も、無尽蔵に湧き出る魔物の大群に押し込まれ、壊滅状態に陥っている。
玉座には、病床から無理やり起き上がった国王アルフレッドが座っていた。
死人のようにやつれた顔で、静かに口を開く。
「デズモンドは……戻ったか」
「……未だ、竜王国からの帰還は確認されておりません」
国王は静かに目を閉じた。
「……そうか」
王はすべてを悟っていた。
己の愚かな息子は、あの気高い聖女に許されなかったのだと。
「陛下!」
宰相が血を流しながら膝をつく。
「これ以上は城が持ちません! 直ちに避難命令を!」
「……その前に、やらねばならぬことがある」
国王は立ち上がった。
震える足で玉座の階段を降り、広間の中央へ進み出る。
「第一王子デズモンド・アークライトを、此度をもって廃嫡とする」
絶望に包まれていた玉座の間が、大きくどよめいた。
「王家の、いや、この国の最大の宝を、自らの愚かさで追放した。その罪は万死に値する王家最大の失態である。奴の王位継承権を永久に剥奪し、すべての爵位を没収する」
その重い宣言は、魔導士たちの魔法通信によって、崩壊しゆく王国中へ瞬時に流された。
這々の体で帰国し、ボロボロの姿で王城へ駆け込んだデズモンドが耳にしたのは、まさにその宣告だった。
「父上……っ!」
「……来たか、愚息よ」
国王は、地に這いつくばる息子を見下ろした。
国を滅ぼした者へ向ける、底なしの深い悲しみがあった。
「お前は最後まで、ルシェリアを連れ戻すことができなかったのだな」
デズモンドは泣き崩れた。
「父上……私は……申し訳ありません……っ!」
「謝る相手が違うだろう」
突き放すようなその一言が、デズモンドの心臓を決定的に貫く。
同じ頃、王城の地下牢。
ソフィアは、泥と血に汚れた豪華なドレスを着たまま、冷たい鉄格子の中にいた。
「私は悪くないわ! 全部、全部デズモンドが勝手に信じたからじゃない!」
薄暗い牢獄の中で、彼女は狂ったように叫び続けていた。
「私はちょっと嘘をついただけよ! 出して! ここから出しなさい!」
そこへ、騎士団長が数人の兵を連れて現れる。
「ソフィア・ベルド。敵国との内通、王族への詐欺、並びに国家反逆罪。……以上により、貴様を有罪とする」
「いやっ! 嘘よ、私は未来の王妃なのよ! 触らないで、離しなさい!!」
誰も彼女の言葉に耳を貸す者はいない。
ソフィアは無様に泣き喚きながら、さらに深い地下の処刑場へと連行されていった。
彼女が二度と、太陽の光を見ることはなかった。
竜王国では、ルシェリアが、城の美しい庭園で薬草の世話をしていた。
「番様!」
血相を変えた侍女が駆け寄ってくる。
「国境沿いに、人間の避難民が数万規模で押し寄せております!」
ルシェリアは、土を払って手を止めた。
「……避難民」
隣で様子を見ていたゼフィールが、静かに尋ねる。
「受け入れるか?」
彼なら、ルシェリアが「否」と言えば、一瞬で人間たちを追い払うだろうし、誰も彼女を責めはしない。
人間は彼女を迫害し、追放した。
長年の恩を仇で返したのだ。
見捨てられて当然の報いだ。
それでも。
ルシェリアは小さく、しかしはっきりと息を吐いた。
「罪があるのは、私を陥れた者や一部の愚かな貴族たちです。何も知らない国民や、子どもたちには何の罪もありません」
ゼフィールは、その言葉を聞いて少しだけ口元を緩めた。
「やはり、お前はお前だな。……あのような仕打ちを受けても、憎まぬか」
「……怒ってはいますよ? 私は聖人君子ではありませんから」
「ふっ、違いない」
「でも」
彼女は、黒い雲に覆われつつある遠くの空を見つめた。
「私は、助けを求める人を見捨てるような……そんな冷酷な人間にはなりたくありません」
その凛とした言葉に、周囲にいた竜族たちは一斉に静かに頭を下げた。
「我らが番様のお心のままに」
その日のうちに、竜王国は国境の門を大きく開放した。
傷ついた老人。
泣き叫ぶ子ども。
家を失い絶望する家族。
ルシェリアは一人ひとりに温かい治癒魔法をかけて回った。
「ありがとうございます……っ!」
「ルシェリア様、聖女様……!」
「助かりました、本当に……!」
彼女は誰一人恨まず、分け隔てなく救いの手を差し伸べた。
だからこそ、命を救われた人々は皆、己の愚かさを恥じてボロボロと涙を流した。
「私たちは……なんて尊いお方を、失ってしまったんだ……」
★
助けを求める民へ、泥だらけになっても笑顔で手を差し伸べるルシェリア。
昔から何も変わらない、その慈愛に満ちた優しさ。
その世界で一番尊い優しさを、自分は己の足で踏みにじったのだ。
デズモンドは、腰に帯びていた王族の剣をゆっくりと地面へ置いた。
「私は、彼女の隣に立つ資格も、とうの昔に失った」
だが、せめて最後くらいは。
一人の騎士として、彼女の愛した民を守る盾になろう。
決意を固めた、その瞬間だった。
王都の方角の空を覆っていた分厚い黒雲が、不気味な音を立てて真っ二つに裂けた。
空から、絶望そのもののような巨大な影が舞い降りる。
――魔王だ。
全長五十メートルを超える漆黒の巨体が大地を揺らす。
真紅の瞳が、蟻のように逃げ惑う人間たちを見下ろし、地獄の底から響くような声で低く笑った。
『愚かな人間どもよ。千年ぶりの、殺戮の宴を始めようぞ』
滅亡へのカウントダウン。
王国最後の、絶望の戦いが幕を開けた。




