4 振り返らず
「全軍、迎え撃てぇぇぇッ!」
崩壊しゆく王都に、悲壮な最後の号令が響き渡る。
残存する騎士たちは泥だらけの剣を抜き、魔導師たちは枯渇しかけた魔力を振り絞って陣形を組んだ。
しかし。
魔王が退屈そうに指先を振った、ただそれだけで。
巨大な黒い衝撃波が津波のように王都を飲み込んだ。
轟音とともに強固な城壁が紙切れのように崩れ去り、重武装の騎士たちが木の葉のように吹き飛ばされる。
「ぐあっ!」
「だめだ……強すぎる……!」
もはや、誰一人として立ち上がれる者はいない。
絶望に染まる王都を見下ろし、魔王は嘲るように笑った。
「人間とは、所詮この程度か。もろく、つまらぬ生き物よ」
魔王がとどめの魔法を放とうと腕を上げた、その瞬間――。
空が、眩いほどの黄金色に染まった。
「な……?」
死を覚悟して空を見上げた人々の視界いっぱいに、数百頭もの巨大な竜が翼を広げていた。
その先頭を舞うのは、ひときわ巨大で美しい漆黒の翼を持つ竜王ゼフィール。
そして、その広い背に凛と立つ一人の女性。
純白の法衣を風に揺らす、ルシェリアだった。
「聖女様……」
誰かが、震える声で呟いた。
「ルシェリア様だ……! 我らが聖女様が、戻ってきてくださったぞ!!」
歓声と安堵の涙が、絶望していた人々の間に波のように広がっていく。
だが、眼下を見下ろす彼女の表情はひどく静かだ。
地響きとともに、ゼフィールが王都の大地へ降り立つ。
彼は眩い光とともに漆黒の髪の青年へと姿を変え、愛おしげにルシェリアを見た。
「行くぞ、我が番よ」
「はい、ゼフィール様」
二人は、ごく自然に指を絡め合い、固く手を重ねた。
その瞬間、太陽が落ちてきたかのような眩い光が、世界を優しく包み込んだ。
「これが……」
「失われた伝説……聖女と竜王の契約……!」
空を舞う竜族の長老が、感極まったように目を見開く。
おとぎ話にしか残っていない奇跡。
純真なる聖女の魔力と、大地に眠る竜脈の力が共鳴し、世界そのものが黄金に輝き始める。
圧倒的な力の奔流を前にして、魔王が初めて顔色を変えた。
「馬鹿な……! その力は、とうの昔に失われたはず……!」
ルシェリアは、ゼフィールと手を繋いだまま一歩前へ出る。
「あなたは勘違いしています」
透き通るような声が、戦場に響き渡った。
「私のこの力は、王家のものでも、誰かを屈服させるためのものでもありません。ただ純粋に……『誰かを守りたい』という願いそのものが、私の力なのです」
ルシェリアが胸の前で両手を組んで祈りを捧げると、温かく優しい光があふれ出し、傷ついた人々を包み込んだ。
折れた骨が瞬く間に繋がり、深く裂けた傷が塞がっていく。
枯渇していた魔力が、泉のように湧き上がってくる。
「立てる……!」
「傷が消えたぞ!」
「ルシェリア様……ありがとう、ありがとうございます……!」
人々の歓声に、魔王は屈辱に顔を歪め、怒りに任せて巨大な魔法陣を展開した。
「小賢しい小娘が! 消え失せろ!!」
万物を灰にする漆黒の炎が、ルシェリアへ向けて一直線に放たれる。
――しかし。
ゼフィールが再び巨大な竜の姿へ変わり、その巨躯で炎を正面から受け止めた。
漆黒の鱗は傷一つつかず、魔王の炎を完全に霧散させる。
「――我が最愛の番には、指一本、塵一つ触れさせぬ」
ゼフィールの黄金の瞳が、凄絶な怒りに燃え上がる。それは、敵対する者すべてを滅ぼす、恐るべき絶対者の威圧だった。
「終わりだ、魔物の王よ」
竜王の天地を揺るがす咆哮。
聖女の慈愛に満ちた祈り。
二つの強大な力が一つに交わり、天空から裁きの雷のごとき巨大な光の柱が降り注いだ。
「ば、馬鹿なぁぁぁぁぁッ!!」
断末魔の叫びとともに、魔王の体が光の濁流に飲み込まれる。
世界を黒く染めていた瘴気は跡形もなく浄化され、長く王都を覆っていた暗雲が嘘のように晴れ渡っていく。
やがて、温かな陽光とともに、戦場に静寂が訪れた。
完全なる、勝利だった。
★
戦いが終わり、人々が歓喜に沸き返る中。
デズモンドは一人、ルシェリアの前へ歩み寄った。
身につけているのは泥だらけの平民の服。
彼はもう王子ではない。
王位も、誇りも、愛する人も、すべてを己の手で失ったただの一人の男として、彼女の前に立った。
「……ありがとう」
ルシェリアは、静かに頷く。
「この国の民を助けてくれて」
「いいえ」
デズモンドは、自嘲するように首を振った。
「助けられたのは、私の方だ。君は最後まで、この国を……罪のない人々を見捨てなかった。私は、ずっと君のその底なしの優しさに甘え、胡坐をかいていただけだった」
深く、深く頭を下げる。
「本当に……すまなかった」
長い沈黙が降りた。
やがて、ルシェリアは花が咲くように優しく微笑んだ。
「デズモンド様」
「……」
「私は、あなたを許すためにここへ来たわけではありません」
デズモンドは静かに頷いた。
「ああ、分かっている。私には、許される資格などない」
「でも」
彼女は、澄み切った青い空を見上げた。
「あなたを憎み続けることも、もう終わりにします。……今の私には、共に歩み、守りたいと心から思える大切な人たちがいますから」
その言葉を聞いた瞬間。
デズモンドの目から、せき止めていたものが決壊したように涙があふれ出した。
彼はようやく、本当の意味で彼女を失ったのだと理解した。
彼女の心にはもう、自分への愛も、憎しみすらも残っていない。
ただ美しく、手の届かない場所へ羽ばたいてしまったのだ。
一年後。
竜王国の大地は、かつてないほどの祝福の空気に包まれていた。
白銀の城のバルコニーでは、盛大な結婚式が行われていた。
純白の豪奢なドレスに身を包んだルシェリアの手を、ゼフィールがひざまずいて恭しく取る。
「誓おう」
その赤い瞳には、世界でただ一人、目の前の愛する女性しか映っていない。
「今度こそ、お前が一人で孤独に泣くような真似はさせない。我が命に代えても、お前を永遠に愛し抜くと」
ルシェリアは、嬉しさで瞳を潤ませながら、少し照れたように笑った。
「はい。……私も、ゼフィール様と一緒なら、もう何も怖くありません」
誓いの口付けが交わされると同時に、祝福の鐘が国中に鳴り響いた。
数百頭の竜が大空へ舞い上がり、魔法で生み出された色とりどりの花びらが、雪のように美しく降り注ぐ。
デズモンドは吟遊詩人の語る話に、小さく、穏やかに微笑んだ。
「あの美しい笑顔を守るのは……もう、私ではない」
彼は静かに踵を返す。
ただ一人の名もなき旅人として、己の罪を背負いながら新しい人生を歩き始めるために。
城のバルコニーでは、ルシェリアがゼフィールとしっかりと手を繋ぎ、心底幸せそうに笑っていた。
もう、過去を振り返ることはない。
彼女には帰るべき温かい場所があり、自分を命懸けで愛してくれる人がいるのだから。
こうして、追放された孤独な聖女は、世界で一番愛され、幸せな竜王妃となったのだった。
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