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2 竜王国への招待

竜王ゼフィールの広く逞しい背に乗り、空を飛ぶこと半日。

分厚い雲を抜けた先で、私は思わず息を呑んだ。


「きれい……」


険しい山脈の奥深く。

巨大な滝が幾筋も流れ落ち、しぶきが幾重にも美しい虹をかけている緑豊かな渓谷。

その中央に、陽光を浴びて神々しく輝く白銀の城がそびえ立っていた。


城の周囲では、何頭もの巨大な竜たちが悠然と空を舞っている。


『ここが我らの国、竜王国だ』


直接頭の中に響くゼフィールの声に導かれ、城門の前の広場へと降り立つ。


彼が眩い光とともに漆黒の髪を持つ青年の姿へ戻ると、重厚な城門がゆっくりと開かれた。

すると、ずらりと並んだ人型の竜族達も、竜の姿そのままの者も――が一斉にその場にひざまずいたのだ。


「竜王陛下、お帰りなさいませ!」


「番様に祝福を!」


「我らが番様、万歳!!」


「ええっ!?」


歓迎どころの騒ぎではない。

空からは無数の花びらが舞い降り、どこからか壮大な楽団の演奏が始まる。

さらには、小さな角や尻尾を生やした子どもの竜たちが、目をキラキラさせて私に駆け寄ってきた。


「番様、番様!」


「いっしょに遊んで!」


「ねえねえ、しっぽ触ってもいい?」


「えっと、私、人間だから尻尾はないのだけど……!?」


あまりの熱烈な歓迎に戸惑う私を見て、ゼフィールが珍しく、ふっと声を出して笑った。


「安心しろ。取って食おうとしているわけではない」


「皆さん、どうしてこんなに……」


「皆、お前が来る日を百年待っていたのだ」


「百年!?」


「ああ。我が番が現れることは、古の予言で決まっていたからな」


そんなスケールの大きな話、今初めて聞きましたけど!?



その夜。

白銀の城の大広間では、盛大な歓迎の宴が開かれていた。

テーブルがたわむほどの豪華な料理が並び、竜族たちは目を輝かせながら次々に私へ話しかけてくる。


「ルシェリア様は、どのような食べ物がお好きですか?」


「人間の国のドレスは窮屈でしょう。すぐに最高級の絹で服を仕立てましょう!」


「明日はぜひ宝石庫をご覧になりますか? 好きなものを山ほどお持ちください!」


「効能豊かな温泉もありますよ!」


まさに至れり尽くせりである。

王都にいた頃は、私が『悪女』だとソフィア様に吹き込まれていたせいで、使用人すら私を冷たい目で見て、挨拶もろくにしてくれなかったのに。


「……不思議です」


「何がだ?」


隣の豪奢な椅子に座るゼフィールが、赤いワインを口にしながら私を見下ろした。


「皆さん、どうしてこんなに優しいんですか? 私はただの人間なのに」


「お前が我らを救ってくれたからだ」


「え?」


「我は数年前から、タチの悪い呪いを受けていてな」


だから、あの深い傷が自然治癒しなかったのだという。

だから、長く人型も維持できず、理性を失いかけて辺境の森に墜落していたのだと。


「お前だけが、その力で呪いごと我を治癒してくれた」


ゼフィールは静かに、熱を帯びた赤い瞳で私を見つめた。


「つまり、お前は我の最愛の番であると同時に、この竜王国の恩人でもある」


その瞬間。

二人の会話を聞いていたらしい会場中から、割れんばかりの大歓声が上がった。


「我らが王を救ってくださった恩人様に乾杯!!」


「ルシェリア様に乾杯!!」


嬉しそうにグラスを掲げる竜族たちを見て、私の目からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。

心が温かいもので満たされていく、幸せの涙だった。


「……ふふっ」


私は思わず、弾けるように笑ってしまった。

こんなふうに心の底から笑えたのは、一体いつ以来だろうか。



王都では、事態がさらに絶望的な局面を迎えていた。


「南門、突破されました!」


「魔物の群れ、王都まであと二十キロに迫っています!」


「城下町は火の海です! 避難民が王城の門前に押し寄せて暴動寸前です!」


次々と飛び込んでくる死を告げる報告に、デズモンド王子は顔面を蒼白にしていた。


「騎士団は何をしている!!」


「すでに半数が戦死いたしました!」


「魔導師団は! 魔法で一網打尽にしろ!」


「連日の戦闘で、全員魔力切れです! これ以上の防衛戦は不可能です!」


追い詰められたデズモンドは、血走った目で叫んだ。


「聖女だ!! ルシェリアを呼べ! あいつの力で結界を張り直させろ!!」


叫んだ瞬間。

怒号が飛び交っていた玉座の間が、水を打ったように静まり返った。


「……どうした? なぜ誰も行かない!」


「殿下……」


宰相が、絞り出すような、ひどく苦しそうな声で言った。


「その聖女様を追放したのは……他でもない、殿下ご自身ではありませんか」


「…………ッ」


その一言が、鋭い刃となってデズモンドの胸に深く突き刺さった。

そうだ。

無実を訴えることもせず、最後まで静かに微笑んですらいたルシェリアを、自分は「悪女」と罵り、笑って辺境へ追い払ったのだ。


その夜。

デズモンドは、婚約破棄をしてから初めて一睡もできなかった。

浅い眠りの中で、夢を見る。


毎朝、まだ太陽すら昇らない暗いうちから、冷たい神殿へ向かうルシェリアの背中。

誰もいない祭壇で、たった一人、ひざまずいて祈り続ける孤独な姿。

どれほど疲弊していても、自分の前では「お気になさらず」と優しく笑っていた彼女の顔。


「はっ……!」


目を覚ましたデズモンドは、全身汗だくだった。


「……何だ、今の夢は……私は、あいつのことを何も……」


その時。

バンッ! と乱暴に扉が開かれ、侍従が転がるように駆け込んできた。


「殿下! 一大事でございます!!」


「何事だ! 魔物が城に入ったか!?」


「い、いえ! 魔導院の地下書庫から、古い記録が発見されたのです!」


震える手で差し出された古い羊皮紙には、三百年前の国王の直筆で、恐ろしい真実が記されていた。


『聖女を失う時、この国はおよそ十四日で滅ぶ』


バサリ、と。

デズモンドの手から羊皮紙が滑り落ちた。


「……十四日、だと?」


侍従は、震えながら答えた。


「はい……。そして、ルシェリア様を追放したあの日から数えて……本日で、六日目です」


王都崩壊まで、あと八日。

後悔に苛まれる愚かな王子に残された時間は、もう砂時計の最後の数粒しか残っていなかった。



王城の会議室では、重苦しい沈黙の中、ついに魔導院による偽の日記の鑑定結果が報告されていた。


「……調査の最終結果が出ました」


魔導院長が、証拠品である羊皮紙を静かに机へ置く。


「殿下。この日記は、完全なる偽物です」


「……何?」


「使われているインクは一か月前に調合された真新しいもの。紙も最近漉かれた安物です。数年前から書かれていた日記などでは到底ありえません」


「そんな……」


「さらに、筆跡鑑定の結果、ルシェリア様の筆跡とは全く一致しませんでした」


デズモンド王子の顔色から、さぁっと血の気が引いていく。


「誰が……一体誰が、こんな手の込んだ真似を……」


「それは、彼女から聞きましょう」


重い扉が開き、騎士団長が一人の少女を連行してきた。

ソフィアだった。


「ソフィア……?」


「殿下ぁ……っ」


涙を浮かべて怯える彼女は、いつものように庇護欲をそそる可憐な姿だった。


「違います……私は、何も知りません……っ」


だが、騎士団長は冷酷に、机へ数通の手紙を叩きつけた。


「彼女の自室の隠し金庫から発見しました」


「これは……」


手紙の封蝋には、あろうことか隣国の紋章が刻まれていた。

震える手でデズモンドが手紙を開くと、そこには信じがたい文面が並んでいた。


『厄介な聖女ルシェリアを国外へ追放することに成功しました』


『結界の消滅を確認』


『約束通り、報酬の金貨を送られたし』


デズモンドの手が、ガチガチと音を立てて震える。


「……嘘だろ。ソフィア、お前は隣国の間者だったのか……?」


「す、すべて、あなたのためだったのよ!!」


窮地に陥ったソフィアは、突如として可愛らしい仮面を投げ捨て、狂ったように叫んだ。


「あなたが王になれば、私は王妃になれた! なのに、あの完璧な聖女がいつもあなたの隣にいて……だからルシェリアが邪魔だったのよ!」


「だから……偽の日記を作って、私を騙したというのか……」


「私を王妃にしてくれるって言ったじゃない!!」


醜く喚くソフィアの声は、もはやデズモンドの耳には入っていなかった。

膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。


思い出す。

婚約してからの十年間の記憶。

ルシェリアは、どんなに冷たくされても一度も自分の悪口を言わなかった。

体調が悪い日でも、心配をかけまいと気丈に笑っていた。

誕生日には毎年、徹夜で祈りを込めた手作りのお守りをくれた。

自分が魔物討伐へ向かう前には、神殿にこもりきりで無事を祈ってくれていた。


それなのに。

自分は、ただの一度も彼女の真心を見ようとせず、あろうことか敵国の間者の涙を信じたのだ。


「……私は」


ぼたり、と。

デズモンドの瞳から、生まれて初めての後悔の涙がこぼれ落ちた。


「なんということを、してしまったんだ……」


王都の絶対防衛線であった北門が、ついに破られた。

おびただしい数の魔物の群れが、怒涛のごとく市街地へ雪崩れ込む。


「避難しろ!」


「子どもを先に逃がせ!」


「だめだ、もう城までもちません!!」


街を包む紅蓮の炎。

人々の絶望の悲鳴。

次々と崩れ落ちる城壁。


バルコニーからその地獄のような光景を見下ろしながら、デズモンドは呆然と立ち尽くしていた。


「全部……私のせいだ。私が、この国を滅びへと……」


うつろな目で呟くデズモンドの背後に、宰相が静かに歩み寄る。


「殿下。……まだ、たった一つだけ方法がございます」


「あるのか!?」


「はい。ルシェリア様に、直接謝罪するのです」


「……」


「次期国王としてではありません。一人の、愚かな男として、です」



竜王国では、王都の惨状など嘘のような、ひだまりのように穏やかな朝を迎えていた。


「ルシェリア様、おはようございます!」


目覚めると、竜族の侍女たちが弾けるような笑顔で迎えてくれる。

窓の外を見れば、色とりどりの花が咲き誇る庭で、子竜たちがじゃれ合いながら空を飛んでいた。


「今日も平和ですね」


「それはお前が来たからだ」


バルコニーのテーブルに、ゼフィールが自ら淹れた温かい紅茶を差し出してくれた。


「竜脈が安定したのだ」


「りゅうみゃく……?」


難しい魔術の理屈はよくわからない私首を傾げると、ゼフィールは私の髪を優しく撫でた。


「この国の大地に流れる魔力の源だ。お前の持つ純粋で強大な魔力が流れ込んだことで、この国もまた、お前の力に守られている」


「そんな、大したことはしていませんよ。私はただ、ここにいるだけで……」


困ったように笑う私を、ゼフィールは逃がさないように真っ直ぐに見つめた。


「大したことだ。……お前は、自分の価値を知らなすぎる」


彼が愛おしげに私の頬に触れようとした、その瞬間。

バンッ! と一人の兵士が慌てた様子でテラスへ飛び込んできた。


「陛下!」


「どうした。騒々しい」


ゼフィールが不機嫌そうに目を細めると、周囲の温度がスッと下がるような威圧感が漂う。


「に、人間の使者です! ですが……」


「追い返せ」


「そ、それが……王子本人が、城門の前で土下座しております!」


静まり返るテラス。

私は思わず目を見開いた。


「デズモンド様が……?」


「はい。お供も連れずたった一人で現れ、食事も水も取らず、一晩中城門の前にひざまずいたまま『ルシェリアに会わせてくれ』と泣き喚いております……!」


それを聞いたゼフィールの赤い瞳に、絶対零度の殺意が宿った。

しかし、私を庇うように抱き寄せたその腕は、どこまでも優しく温かい。


「帰れと言え」


「ですが、結界を張り直してくれなければ国が滅ぶと……」


「知ったことか。我の番は疲れている」


ゼフィールの声は、吹雪のように冷酷だった。


「あのような虫ケラに、我の宝を二度と悲しませる気はない。門前払いだ」


私は、彼の腕の中に抱かれたまま、追放された国のある方角を静かに見つめた。


かつて愛していたかもしれない人。

十年間、ひたむきに結婚を夢見て、尽くし続けた相手。

彼が今、泥にまみれて惨めに私を求めている。


だが、私の胸の奥は、自分でも驚くほど静かだった。

彼を許したいとも、助けたいとも思わない。

もう、あの夜の悲しみも、涙も、一滴たりとも残ってはいなかった。


今、私の心を満たしているのは――

私を本当に必要とし、狂おしいほどに愛してくれる、この新しい居場所だけだったから。

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