2 竜王国への招待
竜王ゼフィールの広く逞しい背に乗り、空を飛ぶこと半日。
分厚い雲を抜けた先で、私は思わず息を呑んだ。
「きれい……」
険しい山脈の奥深く。
巨大な滝が幾筋も流れ落ち、しぶきが幾重にも美しい虹をかけている緑豊かな渓谷。
その中央に、陽光を浴びて神々しく輝く白銀の城がそびえ立っていた。
城の周囲では、何頭もの巨大な竜たちが悠然と空を舞っている。
『ここが我らの国、竜王国だ』
直接頭の中に響くゼフィールの声に導かれ、城門の前の広場へと降り立つ。
彼が眩い光とともに漆黒の髪を持つ青年の姿へ戻ると、重厚な城門がゆっくりと開かれた。
すると、ずらりと並んだ人型の竜族達も、竜の姿そのままの者も――が一斉にその場にひざまずいたのだ。
「竜王陛下、お帰りなさいませ!」
「番様に祝福を!」
「我らが番様、万歳!!」
「ええっ!?」
歓迎どころの騒ぎではない。
空からは無数の花びらが舞い降り、どこからか壮大な楽団の演奏が始まる。
さらには、小さな角や尻尾を生やした子どもの竜たちが、目をキラキラさせて私に駆け寄ってきた。
「番様、番様!」
「いっしょに遊んで!」
「ねえねえ、しっぽ触ってもいい?」
「えっと、私、人間だから尻尾はないのだけど……!?」
あまりの熱烈な歓迎に戸惑う私を見て、ゼフィールが珍しく、ふっと声を出して笑った。
「安心しろ。取って食おうとしているわけではない」
「皆さん、どうしてこんなに……」
「皆、お前が来る日を百年待っていたのだ」
「百年!?」
「ああ。我が番が現れることは、古の予言で決まっていたからな」
そんなスケールの大きな話、今初めて聞きましたけど!?
★
その夜。
白銀の城の大広間では、盛大な歓迎の宴が開かれていた。
テーブルがたわむほどの豪華な料理が並び、竜族たちは目を輝かせながら次々に私へ話しかけてくる。
「ルシェリア様は、どのような食べ物がお好きですか?」
「人間の国のドレスは窮屈でしょう。すぐに最高級の絹で服を仕立てましょう!」
「明日はぜひ宝石庫をご覧になりますか? 好きなものを山ほどお持ちください!」
「効能豊かな温泉もありますよ!」
まさに至れり尽くせりである。
王都にいた頃は、私が『悪女』だとソフィア様に吹き込まれていたせいで、使用人すら私を冷たい目で見て、挨拶もろくにしてくれなかったのに。
「……不思議です」
「何がだ?」
隣の豪奢な椅子に座るゼフィールが、赤いワインを口にしながら私を見下ろした。
「皆さん、どうしてこんなに優しいんですか? 私はただの人間なのに」
「お前が我らを救ってくれたからだ」
「え?」
「我は数年前から、タチの悪い呪いを受けていてな」
だから、あの深い傷が自然治癒しなかったのだという。
だから、長く人型も維持できず、理性を失いかけて辺境の森に墜落していたのだと。
「お前だけが、その力で呪いごと我を治癒してくれた」
ゼフィールは静かに、熱を帯びた赤い瞳で私を見つめた。
「つまり、お前は我の最愛の番であると同時に、この竜王国の恩人でもある」
その瞬間。
二人の会話を聞いていたらしい会場中から、割れんばかりの大歓声が上がった。
「我らが王を救ってくださった恩人様に乾杯!!」
「ルシェリア様に乾杯!!」
嬉しそうにグラスを掲げる竜族たちを見て、私の目からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
心が温かいもので満たされていく、幸せの涙だった。
「……ふふっ」
私は思わず、弾けるように笑ってしまった。
こんなふうに心の底から笑えたのは、一体いつ以来だろうか。
★
王都では、事態がさらに絶望的な局面を迎えていた。
「南門、突破されました!」
「魔物の群れ、王都まであと二十キロに迫っています!」
「城下町は火の海です! 避難民が王城の門前に押し寄せて暴動寸前です!」
次々と飛び込んでくる死を告げる報告に、デズモンド王子は顔面を蒼白にしていた。
「騎士団は何をしている!!」
「すでに半数が戦死いたしました!」
「魔導師団は! 魔法で一網打尽にしろ!」
「連日の戦闘で、全員魔力切れです! これ以上の防衛戦は不可能です!」
追い詰められたデズモンドは、血走った目で叫んだ。
「聖女だ!! ルシェリアを呼べ! あいつの力で結界を張り直させろ!!」
叫んだ瞬間。
怒号が飛び交っていた玉座の間が、水を打ったように静まり返った。
「……どうした? なぜ誰も行かない!」
「殿下……」
宰相が、絞り出すような、ひどく苦しそうな声で言った。
「その聖女様を追放したのは……他でもない、殿下ご自身ではありませんか」
「…………ッ」
その一言が、鋭い刃となってデズモンドの胸に深く突き刺さった。
そうだ。
無実を訴えることもせず、最後まで静かに微笑んですらいたルシェリアを、自分は「悪女」と罵り、笑って辺境へ追い払ったのだ。
その夜。
デズモンドは、婚約破棄をしてから初めて一睡もできなかった。
浅い眠りの中で、夢を見る。
毎朝、まだ太陽すら昇らない暗いうちから、冷たい神殿へ向かうルシェリアの背中。
誰もいない祭壇で、たった一人、ひざまずいて祈り続ける孤独な姿。
どれほど疲弊していても、自分の前では「お気になさらず」と優しく笑っていた彼女の顔。
「はっ……!」
目を覚ましたデズモンドは、全身汗だくだった。
「……何だ、今の夢は……私は、あいつのことを何も……」
その時。
バンッ! と乱暴に扉が開かれ、侍従が転がるように駆け込んできた。
「殿下! 一大事でございます!!」
「何事だ! 魔物が城に入ったか!?」
「い、いえ! 魔導院の地下書庫から、古い記録が発見されたのです!」
震える手で差し出された古い羊皮紙には、三百年前の国王の直筆で、恐ろしい真実が記されていた。
『聖女を失う時、この国はおよそ十四日で滅ぶ』
バサリ、と。
デズモンドの手から羊皮紙が滑り落ちた。
「……十四日、だと?」
侍従は、震えながら答えた。
「はい……。そして、ルシェリア様を追放したあの日から数えて……本日で、六日目です」
王都崩壊まで、あと八日。
後悔に苛まれる愚かな王子に残された時間は、もう砂時計の最後の数粒しか残っていなかった。
★
王城の会議室では、重苦しい沈黙の中、ついに魔導院による偽の日記の鑑定結果が報告されていた。
「……調査の最終結果が出ました」
魔導院長が、証拠品である羊皮紙を静かに机へ置く。
「殿下。この日記は、完全なる偽物です」
「……何?」
「使われているインクは一か月前に調合された真新しいもの。紙も最近漉かれた安物です。数年前から書かれていた日記などでは到底ありえません」
「そんな……」
「さらに、筆跡鑑定の結果、ルシェリア様の筆跡とは全く一致しませんでした」
デズモンド王子の顔色から、さぁっと血の気が引いていく。
「誰が……一体誰が、こんな手の込んだ真似を……」
「それは、彼女から聞きましょう」
重い扉が開き、騎士団長が一人の少女を連行してきた。
ソフィアだった。
「ソフィア……?」
「殿下ぁ……っ」
涙を浮かべて怯える彼女は、いつものように庇護欲をそそる可憐な姿だった。
「違います……私は、何も知りません……っ」
だが、騎士団長は冷酷に、机へ数通の手紙を叩きつけた。
「彼女の自室の隠し金庫から発見しました」
「これは……」
手紙の封蝋には、あろうことか隣国の紋章が刻まれていた。
震える手でデズモンドが手紙を開くと、そこには信じがたい文面が並んでいた。
『厄介な聖女ルシェリアを国外へ追放することに成功しました』
『結界の消滅を確認』
『約束通り、報酬の金貨を送られたし』
デズモンドの手が、ガチガチと音を立てて震える。
「……嘘だろ。ソフィア、お前は隣国の間者だったのか……?」
「す、すべて、あなたのためだったのよ!!」
窮地に陥ったソフィアは、突如として可愛らしい仮面を投げ捨て、狂ったように叫んだ。
「あなたが王になれば、私は王妃になれた! なのに、あの完璧な聖女がいつもあなたの隣にいて……だからルシェリアが邪魔だったのよ!」
「だから……偽の日記を作って、私を騙したというのか……」
「私を王妃にしてくれるって言ったじゃない!!」
醜く喚くソフィアの声は、もはやデズモンドの耳には入っていなかった。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
思い出す。
婚約してからの十年間の記憶。
ルシェリアは、どんなに冷たくされても一度も自分の悪口を言わなかった。
体調が悪い日でも、心配をかけまいと気丈に笑っていた。
誕生日には毎年、徹夜で祈りを込めた手作りのお守りをくれた。
自分が魔物討伐へ向かう前には、神殿にこもりきりで無事を祈ってくれていた。
それなのに。
自分は、ただの一度も彼女の真心を見ようとせず、あろうことか敵国の間者の涙を信じたのだ。
「……私は」
ぼたり、と。
デズモンドの瞳から、生まれて初めての後悔の涙がこぼれ落ちた。
「なんということを、してしまったんだ……」
王都の絶対防衛線であった北門が、ついに破られた。
おびただしい数の魔物の群れが、怒涛のごとく市街地へ雪崩れ込む。
「避難しろ!」
「子どもを先に逃がせ!」
「だめだ、もう城までもちません!!」
街を包む紅蓮の炎。
人々の絶望の悲鳴。
次々と崩れ落ちる城壁。
バルコニーからその地獄のような光景を見下ろしながら、デズモンドは呆然と立ち尽くしていた。
「全部……私のせいだ。私が、この国を滅びへと……」
うつろな目で呟くデズモンドの背後に、宰相が静かに歩み寄る。
「殿下。……まだ、たった一つだけ方法がございます」
「あるのか!?」
「はい。ルシェリア様に、直接謝罪するのです」
「……」
「次期国王としてではありません。一人の、愚かな男として、です」
★
竜王国では、王都の惨状など嘘のような、ひだまりのように穏やかな朝を迎えていた。
「ルシェリア様、おはようございます!」
目覚めると、竜族の侍女たちが弾けるような笑顔で迎えてくれる。
窓の外を見れば、色とりどりの花が咲き誇る庭で、子竜たちがじゃれ合いながら空を飛んでいた。
「今日も平和ですね」
「それはお前が来たからだ」
バルコニーのテーブルに、ゼフィールが自ら淹れた温かい紅茶を差し出してくれた。
「竜脈が安定したのだ」
「りゅうみゃく……?」
難しい魔術の理屈はよくわからない私首を傾げると、ゼフィールは私の髪を優しく撫でた。
「この国の大地に流れる魔力の源だ。お前の持つ純粋で強大な魔力が流れ込んだことで、この国もまた、お前の力に守られている」
「そんな、大したことはしていませんよ。私はただ、ここにいるだけで……」
困ったように笑う私を、ゼフィールは逃がさないように真っ直ぐに見つめた。
「大したことだ。……お前は、自分の価値を知らなすぎる」
彼が愛おしげに私の頬に触れようとした、その瞬間。
バンッ! と一人の兵士が慌てた様子でテラスへ飛び込んできた。
「陛下!」
「どうした。騒々しい」
ゼフィールが不機嫌そうに目を細めると、周囲の温度がスッと下がるような威圧感が漂う。
「に、人間の使者です! ですが……」
「追い返せ」
「そ、それが……王子本人が、城門の前で土下座しております!」
静まり返るテラス。
私は思わず目を見開いた。
「デズモンド様が……?」
「はい。お供も連れずたった一人で現れ、食事も水も取らず、一晩中城門の前にひざまずいたまま『ルシェリアに会わせてくれ』と泣き喚いております……!」
それを聞いたゼフィールの赤い瞳に、絶対零度の殺意が宿った。
しかし、私を庇うように抱き寄せたその腕は、どこまでも優しく温かい。
「帰れと言え」
「ですが、結界を張り直してくれなければ国が滅ぶと……」
「知ったことか。我の番は疲れている」
ゼフィールの声は、吹雪のように冷酷だった。
「あのような虫ケラに、我の宝を二度と悲しませる気はない。門前払いだ」
私は、彼の腕の中に抱かれたまま、追放された国のある方角を静かに見つめた。
かつて愛していたかもしれない人。
十年間、ひたむきに結婚を夢見て、尽くし続けた相手。
彼が今、泥にまみれて惨めに私を求めている。
だが、私の胸の奥は、自分でも驚くほど静かだった。
彼を許したいとも、助けたいとも思わない。
もう、あの夜の悲しみも、涙も、一滴たりとも残ってはいなかった。
今、私の心を満たしているのは――
私を本当に必要とし、狂おしいほどに愛してくれる、この新しい居場所だけだったから。




