1 崩壊の始まり
「ルシェリア・アルディ! 貴様のような嫉妬に狂った悪女は、次期王妃にふさわしくない。今この瞬間をもって、貴様との婚約を破棄する!」
きらびやかな王城の舞踏会。
楽しげな音楽がピタリと止んだ大広間に、第一王子デズモンドの怒声が響き渡った。
彼の腕の中には、涙を浮かべて小鳥のように震える伯爵令嬢ソフィアがいる。
デズモンドが床に叩きつけたのは、一冊の日記帳だった。
そこには、私がソフィアに陰湿ないじめを働いたという架空の罪状が事細かに記されていた。
筆跡は巧妙に似せてあるが、完全な偽造だ。
「証拠はここにある! 聖女と持て囃されながら、裏でこのような陰湿な真似をしていたとはな!」
王子の目は軽蔑と憎悪に満ちており、私の弁明など一切聞き入れる気はないらしい。
周囲の貴族たちからも、私をあざ笑う声がヒソヒソと聞こえてくる。
「弁解は無用だ! 貴様のような悪女は王都から永久追放とする。直ちに辺境へ立ち去れ!」
私は反論する代わりに、静かに、頭を下げる。
「……意のままに、殿下。どうか、お健やかに」
(ああ、これでようやく解放されるのね)
内心でひっそりと安堵の息をつきながら、私は未練なく背を向けた。
彼らは誰も知らないのだ。
この王国を魔物の脅威から守り続けている『聖結界』。
それが、代々アルディ家の聖女が自らの命を削って維持している国家機密だということを。
そして今、その膨大な魔力を受け継ぎ、たった一人で国を支えていたのが私、ルシェリアだという事実を。
王子の命令通り、私が王都の門をくぐり、国境の境界線を越えたその瞬間。
パリンッ――。
誰にも聞こえない音が、夜空に響き渡った。
私と王都を繋いでいた魔力の糸が切れ、何百年も王国を覆っていた透明な光のドームが、音もなく粉々に砕け散ったのだ。
追放から数日後。
私は、鬱蒼と木々が茂る辺境の深い森の奥にいた。
そこで私が遭遇したのは、全身から血を流し、息も絶え絶えに倒れている巨大な黒竜だった。
普通の人間ならば逃げ出すような恐ろしい姿。
けれど、なぜか私はその存在に強く惹きつけられていた。
結界の維持から解放され、私の中には持て余すほどの聖女の力が満ちている。
私は躊躇うことなく黒竜に歩み寄り、その身に癒しの光を注ぎ込んだ。
眩い光が収まると、そこに巨大な竜の姿はなかった。
代わりに倒れていたのは、漆黒の髪を持つ一人の青年。
ゆっくりと開かれた彼の瞳は、血のように赤く、冷酷な捕食者の色をしていた。
周囲の空気が凍りつくような、圧倒的で恐ろしい威圧感。
しかし――その射抜くような瞳が私を捉えた瞬間。
彼の纏っていた冷気は嘘のように消え去り、酷薄だった眼差しは、信じられないほどの熱と甘い色を帯びた。
青年は私の前に恭しく跪くと、泥に汚れるのも構わず私の手をとった。
そして、他の何者にも見せないであろう、狂おしいほどの忠誠と愛情を込めて、私の指先に深く口付けを落とした。
「――長年、探し求めていた。我が番よ」
自らを竜王ゼフィールと名乗った彼。
その甘く重い声と、私だけを映し出す執着に満ちた瞳に、私は完全に囚われていた。
同じ頃、王都。
「殿下! 空が……空が暗黒に染まっていきます!」
近衛兵の悲痛な叫びに、デズモンドは玉座の間からバルコニーへ飛び出した。
そこには、空を覆っていたはずの『見えない壁』が消え失せ、国境の彼方からおびただしい数の魔物が王都へ向かって雪崩れ込んでくる絶望の光景が広がっていた。
「な、なんだこれは……ッ! 結界はどうした!? 騎士団を出撃させろ!」
怒鳴り散らすデズモンドに、誰も答えることはできない。
ルシェリアという真の守護者を自ら切り捨てたことに、愚かな王子が気づくのは、国が完全に滅びる少し前のことだった。
★
「……番?」
思わず聞き返すと、漆黒の髪を持つ青年は、真剣な面持ちで深くうなずいた。
「そうだ。我ら竜族が、その生涯でただ一人、魂で選び抜く絶対の伴侶のことだ」
「ええと……恐れ入りますが、人違いではありませんか?」
「違わぬ」
即答だった。
しかも、距離が近い。彼が動くたびに、圧倒的な捕食者としての威圧感と、どこか甘い香りが鼻をかすめる。私は思わず一歩後ずさった。
「私はただの追放された身です。聖女とは名ばかりの……」
「その、名ばかりの娘が、我の傷を一瞬で治したではないか」
ゼフィールは私の退路を塞ぐように一歩踏み出し、血のように赤い瞳で私をじっと見つめ下ろした。その眼差しは、恐ろしい魔物の頂点に立つ者とは思えないほど、熱を帯びて甘く融けている。
「人間界の治癒魔法ではあり得ぬ力だ。……それに、この魂が甘く痺れるような心地よさ。間違えるはずがない」
「ですが……」
「来るがいい」
「どこへ、でしょうか?」
「我が国、竜王国へ」
あまりにも自然な提案に、私は目を丸くした。
王都では、婚約者の王子でさえ私を必要としなかった。
私の言葉には誰も耳を貸さず、ゴミのように捨てられたというのに。
目の前の初対面の竜王は、一切の迷いなく「来い」と私に手を差し伸べている。
少しだけ、冷え切っていた胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……ご迷惑でないのなら……」
「うむ。一生、我が腕の中で世話を焼かせてくれ」
彼が満足そうに微笑み、私の腰をそっと抱き寄せようとした――その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……ッ!
辺境の森全体が、地震のように激しく揺れた。
「魔物……?」
木々をなぎ倒し、森の奥から巨大な魔獣が姿を現す。
黒い毛並みと凶悪な牙を持つ、黒狼。本来ならば、王国騎士団が数百人規模で討伐にあたる災厄の化け物だ。
しかし、こちらへ突進してくるかに見えた黒狼は、私の姿を見るなりピタリと動きを止める。
そして――ドサッ。
前足を折り曲げ、突然深くひざまずいた。
「え……?」
黒狼だけではない。
空を覆うほどのワイバーンの群れ。
誇り高きグリフォン。
氷を纏うフェンリル。
次々と森から姿を現した強力な魔物たちが、私を取り囲むようにして、一斉にその頭を地面に擦り付けた。
ゼフィールが、私を庇うように抱き寄せたまま静かに笑う。
私に向ける甘い視線とは打って変わり、彼らを一瞥したその赤い瞳には、絶対的な王としての冷酷な威圧が満ちていた。
「魔の者たちは敏感だからな。お前のその清らかで膨大な魔力と……我が番であるという証に、平伏してしまう」
「そんな……」
「お前は、それほどまでに尊い存在だ。だからこそ、あの愚かなモノたちは、決してお前を手放してはならなかったというのに」
★
その頃、王都。
「報告します! 北部要塞、陥落!」
「西の街道も魔物に占拠されました! 避難民がすでに四万人を超えています!」
次々と飛び込んでくる絶望的な報告に、玉座の間の空気は鉛のように重くなっていた。
デズモンド王子は、血走った目で机を強く叩きつけた。
「騎士団は何をしている! たかが魔物の群れだろう!」
「敵の数が多すぎます! 結界が消滅したことで、国境付近の魔物が一斉に王都へ向けて侵攻を開始しました!」
宰相はひどく疲れ切った顔で、広げられた地図を指差す。そこには、魔物の侵攻を示す赤い印が、王都を囲むように次々と増殖していた。
「……二日です」
「何?」
「たった二日で、我が国の国土のおよそ一割が、魔物に蹂躙されました」
「そんな馬鹿なことがあるか!」
王子は叫んだ。結界が消えただけで、ここまで国が脆く崩れ去るなど信じられなかった。
その時、一人の老人が重い足取りで前へ進み出た。王国魔導院長である。
「殿下」
「何だ、打開策でも見つかったか!」
「……申し上げにくいのですが」
老人は、死人のような顔色で深く頭を下げた。
「アルディ家には、代々極秘の使命がございました」
「使命、だと?」
「はい。歴代の聖女が、自らの命と魔力を削り、この国を覆う結界を維持していたのです」
「なっ……」
「ルシェリア様は十五歳の覚醒の儀より毎日、夜明け前に神殿の最奥で、祈りを捧げ続けておられました。あの方の力がなければ、この国はとうの昔に魔物に滅ぼされていたのです」
デズモンドは目を大きく見開いた。
そんな話は、一度も聞いたことがない。
「な、なぜ黙っていた!?」
「国家の根幹に関わる、最大の機密でしたゆえ」
「なら、なぜ次期国王である私に知らせなかったのだ!」
「……歴代国王陛下……王を継ぐものとそれを補佐するものにしか、知ることを許されない秘密だったからです」
その瞬間、デズモンドの顔からスッと血の気が引いた。
(まさか……父上は……)
現在、病床に伏せている国王。
彼は、とうぜん、ルシェリアの力を知っている。
だからこそ、最後までルシェリアとの婚約破棄に猛反対していた。
しかし、自分は聞く耳を持たず、あろうことか自らの手で国の守護神を追放してしまった。
「す、すぐにルシェリアを連れ戻せ!」
王子は裏返った声で叫んだ。
しかし、騎士団長が絶望に満ちた瞳で静かに首を振る。
「……すでに国境付近へ捜索隊を出しております。ですが」
「ですが、何だ!」
「辺境の森にて、強大な力を持つ黒竜が確認されました」
「黒竜……?」
「――竜王です」
玉座の間が、水を打ったように静まり返った。
「ルシェリア様は、その竜王に抱き抱えられ、共に空の彼方へ飛び去る姿が目撃されております」
誰も、言葉を発することができなかった。
人類最強にして、決して不可侵の領域である絶対者、竜王。
その恐るべき存在が、ただの追放された令嬢を自ら迎えに来た。その意味を理解した者から、次々とその場にへたり込んでいく。
「……そんな、はずが、ない……」
震える声でつぶやいたデズモンドの顔には、取り返しのつかないことをしてしまったという、深い後悔と絶望の色が張り付いていた。
だが、その願いとは裏腹に。
竜王という最強の伴侶を得たルシェリアが、もう二度とこの愚かな国を振り返ることはない――。
全四話の短編です!




