都市と髪飾り
都市は、三日前から音で見えていた。
谷を二つ越えたあたりから、地平の向こうに低い唸りの層が積もり始めた。何万人分の足音と車輪と蒸気と話し声が混ざって固まった、灰色の音の壁。近づくほど壁は高くなって、門をくぐった瞬間、それは頭の上に崩れてきた。
「————っ」
「おい。顔が白いぞ」
内山が私の肘を掴んで、門の脇の日陰に座らせた。クロが足に身体を押しつけてくる。音叉の細い音が耳の奥の一番痛い場所に沁みて、崩れた壁が少しだけ持ち上がった。
「言ったろう、減る身体だと。都市はお前の耳には毒だ」
内山は荷物から蝋を丸めた小さな栓を出して、私の手に載せた。
「全部は塞ぐな。八割殺して二割残せ。お前の耳は塞ぎきると逆に探しにいく質だ、性格と同じでな」
「一言余計です」
「治療方針だ」
蝋の栓は、頭の中の帳簿から音を八割消してくれた。残った二割で私は歩き方を覚え直した。クロが常に私の左を歩き、雑踏の中から必要な音だけを拾って耳を向けてくれる。案内犬というより、生きた濾過器だった。
ヴェルナーとの合流は五日後の約束で、宿は職人街の外れに取った。都市は巨大で、猥雑で、それでも見て回れば市場は市場だった。値切りの相場を掴むのに半日。ルールその何番かに従って、夕食の希望を具体的に言わせるのに三秒。生活の形は、どこへ行っても組み立てられる。私はそういう人間だった。
二日目の昼には、柊が屋台で揚げ菓子を二つ買ってきた。頼んでいない。頼んでいないのに、私に寄越した方は蜜が少なかった。甘すぎるものが苦手だと、教えた覚えはない。「顔に出てた」と言うので、出てないと言い張って、受け取って、食べた。悔しいことに、おいしかった。物欲しそうにしたクロに欠片を分けたら、内山に「犬に菓子をやるな」と叱られた。……なんでもない昼だった。なんでもない昼を、私はたぶんずっと覚えている。
展望台を見つけたのは、二日目の夕方だ。
職人街の裏の崖の上に、古い石のベンチが一つだけ置かれた場所があった。都市が丸ごと見渡せて、蒸気の白い筋が何十本も夕焼けに立ちのぼる。丘のベンチを思い出して、私は少しだけそこに座った。
先客がいた。
若い男の人だった。二十歳くらい。仕立てのいい旅装で、整った顔立ちに感情の読めない静かな目をしていた。ベンチの端で、手の中の賽子を転がしていた。
私が気づいたのは顔じゃない。音だった。
その人からは、空き部屋の音がした。
生き物は誰でも、身体の中で無数の音を鳴らしている。心臓、血、腹の虫、感情で揺れる呼吸。機械の兵隊にはそれがなくて、代わりに拍があった。この人には、どちらもなかった。家具を全部運び出した部屋みたいに、人の形の中がしんとしている。壁と床だけが残っていて、そこに賽子の転がる音だけが、ころ、ころ、と響く。
「——この景色」
男の人が、都市を見たまま言った。
「あんたには、どう聞こえる」
見える、じゃなくて。
「……蒸気の音が、六十本ぶん。夕方の鐘が三つの高さで。あとは、ごはんの匂いのする音」
「匂いのする音」
「換気窓が一斉に開く音です。夕食どきだけ、都市中で鳴るんです」
男の人は初めて私の方を見た。目は、やっぱり静かなままだった。
「……いい耳だ」
賽子が転がった。出た目を見て、男の人は立ち上がり、会釈も名乗りもせずに去った。空き部屋の音が雑踏に混ざって消えるまで、私はなぜだか動けなかった。
その夜、宿に戻ると柊が挙動不審だった。
夕食の間ずっと箸の音が落ち着かず、片付けのあと、意を決したみたいに紙包みを差し出してきた。
「これ」
「……何」
「いや、その。今日、なんだろ。誕生日」
心臓が、変な打ち方をした。
言っていない。この男には一度も。村でレムに聞かれて答えたことはある。何ヶ月も前、柊は縁側で半分寝ていた昼だ。
「なんで知ってるの」
「聞こえてた。寝てたけど、なんか、肝心なとこだけ」
包みの中は、髪飾りだった。細工物の簪で、飾りの先に小さな銀の鈴がついている。振ると、澄んだ細い音がした。雑踏の底からでも拾えそうな、濁りのない音。
「職人のじいさんに、鳴らして選ばせてもらった。目で選ぶの、俺よくわかんなくて。……音が、一番お前っぽかったから」
————音で、選んだ。
私のために物を選ぶのに、この男は目じゃなくて耳を使った。私が世界を耳で受け取る人間だと知っていて、だから贈り物も耳に贈ってきた。会話の端で拾った日付に、耳のための鈴。
「……高かったでしょ」
「別に。安かったし」
語尾が浮いた。嘘。相場は今日、私が半日かけて掴んだのだ。この細工でこの鈴なら、あんたの財布はほぼ空になっている。
「————三秒の分は、これで貸し借りなしにしてあげる」
「は? 三秒?」
「何も」
「今なんか言っただろ」
「言ってない。お茶淹れる」
台所に逃げ込んで、私は簪を握ったまま、湯が沸くのを待った。鈴が手の中で小さく鳴った。頬が熱いのは湯気のせいだ。そういうことにした。
襲撃は、四日目の夜に来た。
宿の裏の資材置き場だった。先に気づいたのはクロで、次が私だった。雑踏の消えた深夜の音の中に、あの空き部屋が立っていた。
展望台の人だった。旅装の上に黒い外套を羽織っている。手の中で賽子が鳴る。
「高位共鳴反応。照合完了。——回収を開始する」
「あんた、あっち側の人だったの」
「ダイス、と呼ばれている」
名前じゃなくて、呼ばれ方を答えた。それが自己紹介のつもりらしかった。
「抵抗の有無を問う前に、伝えておく。俺の行動は全て賽子が決める。恨むなら目を恨め」
賽子が、石畳の上を転がった。
「四。——男の左」
言葉の通りに、刃が来た。外套の下から出た細身の剣が柊の左を正確に狙い、柊が受けて、火花が散った。速い。機械の拍とは違う、けれど人の揺れもない太刀筋。内山が村人を装って呼子を鳴らし、宿の人を遠ざける。私は資材の陰でクロと耳を澄ました。
「五。——牽制、三合」
「二。——距離を取る」
出目を宣言してから動く。ふざけた戦い方なのに、宣言通りにしか動かないから読めるようで読めない。柊は三合目で袖を裂かれた。私は拍を数えながら、資材の軋みと足場の死角を柊に投げ続けた。
十手目を過ぎた頃、気づいた。
——私の番が、来ない。
賽子は六面ある。あれだけ振って、私に刃の向く目が一度も出ないなんて、確率の話じゃもう説明がつかない。いや、違う。目は出ている。三、と出た時、ダイスは「観察」と宣言した。六の時は「後退」。同じ数字なのに、柊に向く時は「斬撃」で、私に向く時は決して刃じゃない。
目が決めているんじゃない。目の意味を、この人が決めている。
「あんた——」
言いかけた、その時だった。
旋律が、来た。
夜空の底が抜けたみたいに、あの欠けた子守唄が真上から降ってきた。今までで一番近く、一番大きく。クロの全身の毛が逆立ち、私は膝をついた。そして——ダイスが、剣を落とした。
『対象個体ダイスに感情的偏向を確認。出目の恣意的運用、十七回。——処理を実行する』
あの平坦な声が、旋律の中から響いた。
ダイスの身体の空き部屋に、無理やり音が流し込まれていくのが聞こえた。欠けた旋律が壁を軋ませ、床を焼く。ダイスは声も上げずに崩れ落ちた。声の上げ方ごと、運び出された部屋なのだ。
旋律は満足したように引いていって、夜は静かになった。敵は、自分の道具を処分して帰っただけだった。
「——展望台」
倒れたまま、ダイスが言った。唇だけで。
「連れて、いけ」
内山が脈を取って、首を横に振りかけて、それでも黙って肩を貸した。柊が反対側を支えた。崖の上まで、夜明けまで、間に合った。
石のベンチに座らせると、都市が朝の音を立て始めていた。竈に火が入り、鎧戸が開き、蒸気が白く立ちのぼる。
そして私は聞いた。ダイスの空き部屋に、音が戻ってくるのを。
処理の焼け跡から、心臓の音。揺れる呼吸。何年ぶりかもわからない、人間の中身の音が、壊れた壁の隙間から一つずつ帰ってくる。
「————ああ」
ダイスは朝の都市を見て、笑った。
「きれいだ。……聞こえる。換気窓の、音」
「……うん。鳴ってる」
「毎日ここに来てた。感じられるかどうか、確かめに。ずっと、何も。……取ってもらったんだ、昔。痛いのを、全部。痛くなくなったら、きれいも、なくなった」
賽子を一つ、震える手が私に握らせた。
「持ってろ。俺の、最後のイカサマの証拠だ。……目は、俺が決めてた。あんたにだけは、最後まで」
「なんで、私を」
「音が。……うるさいくらい、生きてたから。空き部屋には、それが」
咳き込んで、それでもダイスは目を閉じなかった。都市を見たまま、最後に言った。
「箱の男に、気をつけろ。あれは——救ってるつもりなんだ。全部の部屋を、空にすることで」
呼吸の音が、止まった。
心臓の音が止まって、部屋の中の音がぜんぶ静かになって、今度こそ本当の空き部屋になった。戻ってきたばかりの中身ごと、朝日の中で。
私はその目を、閉じてやった。手の中で賽子が一度だけ、ころ、と鳴った。
宿に戻る道すがら、誰も口をきかなかった。内山は一度だけ「医者を五年やると敵の看取り方も覚える」と呟いて、それきり黙った。クロはずっと私の左にいた。柊は私の右にいて、何も聞かなかった。線の理由を聞かない男は、涙の理由も聞かない。助かった。理由なら山ほどあって、どれから話せばいいか、私にもわからなかったから。
箱の男。
敵に、名前がついた。感情を痛みの前兆として憎む何か。部屋を空にすることが救いだと信じている何か。そして私は、空にされた部屋の完成品を見た。あれは私が白銀の夜に組み立てかけた手順書の、完成品でもあった。大切を作らなければ痛みは起きない。その通りよ。痛みも、きれいも、換気窓の音も、ぜんぶ起きなくなる。
宿の机で、私は賽子と簪を並べて置いた。空き部屋の形見と、耳のための鈴。
棚に、しまおうとした。いつもの手順で、畳んで、名前をつけずに。
手が、震えて動かなかった。
耳の奥で何かが軋む音がした。三週間ぶんと、今夜のぶんと、たぶんもっと前からのぶんが積んである、私の中の棚のどこかで。




