境界線の消えた夜
復興の三週間を、私はよく働いた。
炊き出しの献立を組み、資材の帳簿をつけ、壊れた家の順番待ちを調停した。手が空くと薬草を挽き、それも尽きると壕の毛布を全部数え直した。村の人は感心したり心配したりしたけれど、種を明かせば簡単だ。手を止めると、頭の中であの冷たい手順書が続きを書き始める。大切を作らなければ痛みは起きない、と。だから手を止めないだけだった。
柊は柊で、夜明け前に起きるようになった。工房の裏で、レンさんの大鎚を振っている。城壁の上に置いていかれたあの得物を、村の男衆が三人がかりで降ろしてきたのだ。形見はレムの手帳と、この鉄の塊の二つになった。あの人の得物は柊にはまだ重すぎて、十回も振れば軌道が乱れるのが音でわかる。乱れても、次の朝もまた振っている。
家の中は静かだった。会話は業務連絡だけ。喧嘩をしているわけじゃない。ただお互い、口を開くと何かがこぼれそうで、栓をしているだけだった。
床の炭の線は、この三週間でほとんど消えていた。
炊き出しの鍋を運ぶ足が踏み、資材を担いだ柊の足が踏み、毎日の生活がその上を何百回も往復して、線は薄い灰色の名残になった。引き直す炭は台所にある。私は引き直さなかった。柊も何も言わなかった。消えかけた線は消えかけたまま、私たちはそれに触れずに暮らした。
レムは十日目から工房を開けるようになった。鉋の音は聞こえない。掃除と、道具の手入れだけ。それでも扉が開いているだけで村の音が少しまともになるのだから、あの場所は大したものだと思う。ゼンは手帳の一行を真に受けて、あのでかい声で復興の人手を集めて回っていた。才能というのは本当にあるらしい。
その夜、私は柊の呼吸で目が覚めた。
寝息じゃなかった。寝息のふりだった。長さを揃えすぎている。本物の眠りはもっとだらしない拍で、この男の寝た音を私はもう百晩ぶん知っている。
耳を澄ますと、布団の中でかすかに骨の軋む音がした。拳。また握り込んでいる。日中は一度も聞かせない音を、この男は毎晩、寝たふりの中で立てていたらしい。
……いつからよ。
三週間、私は帳簿と毛布を数えていた。隣の音を数えるのを、怠けていた。
私は布団を出た。
床の、薄い灰色の名残の前に立つ。引いた日のことを覚えている。承知しない、と言った。あの線は怖さを整理するための道具で、道具は用が済んだら片付けるものだ。
またいだ。
「————線」
柊の声がした。寝たふりはもうやめたらしい。
「越えてるけど」
「消えかけてるから、線かどうか微妙でしょ」
「屁理屈だ」
「屁理屈よ。座りなさい」
柊は布団の上に身体を起こした。暗がりでも、目の下の色が悪いのはわかった。私はその正面に正座して、手を出した。
「手」
「……なんで」
「手当て。あんた、ずっと拳握ってるでしょ。骨の音がしてるの、毎晩」
柊は少しの間動かなかった。それから観念したみたいに、右手をこちらへ出した。
ひどい手だった。豆が潰れて、潰れた上にまた豆ができて、指の付け根が熱を持っている。大鎚の重さをそのまま写し取った手だった。私は薬を塗り、包帯を巻いた。きつすぎないように。今夜は。
「……俺さ」
包帯の途中で、柊が言った。
「なんもできなかった。走れって言われて、走っただけ。あの人に貰ってばっかで、返す前に終わった。癖を直すなって書いてもらえるほどの何かを、俺、まだ一個もやってない」
「————」
「強くなれば返せる気がして振ってんだけど、振るたびに、遠くなる気もする」
声は浮いていなかった。この男の本音はいつもまっすぐで、不器用で、夜にしか出てこない。
「……ねえ。ヴェルナーさんが最初に言ってたの、覚えてる。すり減ってた、ってやつ」
聞くつもりはなかったのに、口が動いていた。夜と包帯と、消えかけた線のせいだと思う。「あんたは——何に、すり減ってたの」
「……うち、母ちゃんの身体が弱くてさ。親父はほとんど家にいなくて」
柊は包帯の端を見たまま、ぽつぽつと続けた。
「だから俺、覚えたんだよ。平気なふり。腹が減ってても『なんでもいい』、しんどくても『俺は平気』。心配かけるくらいなら、欲しいものなんか最初からない顔しとく方が楽でさ。——そしたらいつの間にか、ほんとに自分が何を欲しいのか、わかんなくなってた」
ああ、と思った。献立の希望を聞いた日の「なんでもいい」。あれは投げやりの音じゃなくて、長年使い込んですり減った、癖の音だったのだ。
「こっち来てさ、お前、怒るじゃん。具体的に言え、三秒あげる、って。……あれ、けっこう効いてんだよ。減点されるたびに、ちょっとずつ思い出す感じがする。自分の欲しいもの」
声は、最後まで浮かなかった。
私は包帯を結び終えて、その手を——放さなかった。
自分でも驚いた。手当てが終わったら放すのが手順だ。手順を、私の手が無視した。荷車の日みたいに勝手に。でも今夜は気持ち悪くなかった。これは私が決めた。決めてから動いたのか、動いてから決めたのか、順番はもうどうでもよかった。
「……私も」
握った手の温度に向かって、言った。
「約束を守る係だった。守ったわ。全員連れて走って、振り返らなくて、レムの隣に立って。頼まれたこと全部、ちゃんとやった。……ちゃんとやって、この気持ちなんだから」
息を吸った。
「ちゃんとって、何なのかしらね」
柊の手が、握り返してきた。包帯の上からでもわかる、不器用な強さで。
「……わかんね」
「わかんないの」
「わかんないけど。今のは、ちゃんとしてると思う。これ」
これ、が何を指すのか、聞かなかった。手のことでも、夜のことでも、三週間ぶりにまともに出た声のことでも、たぶん全部正解だから。
その夜は、そのまま眠った。手は途中で自然にほどけたけれど、私は自分の布団に戻らなかった。境界線だった灰色の名残の、ちょうど真上で丸くなって寝た。我ながら、どういう位置よそれ、とは思う。
朝、先に起きた柊と目が合った。
「……線、引き直す?」
「保留」
「保留て」
「文句は禁止。ルールその三」
ヴェルナーの手紙が届いたのは、その日の昼だった。
上質な紙に、あの人らしい端正な字。要件は三つあった。撃沈された船の出所を調査する必要があること。回収命令はまだ生きていて、私たちが村に留まる限り村が的になり続けること。そして谷を三つ越えた都市で私たちを待っている、ということ。レンさんの手帳が指していたのと、同じ都市の名前だった。
出発の朝、丘のベンチでレムとゼンが待っていた。
「工房、続けるから」とレムは言った。「レンさんの道具、全部あたしが使えるようになっとく。帰ってくる場所は、ちゃんとしとくから」
ちゃんと、を私以外の口から聞くと、こんなにまともな言葉に聞こえるのか。
ゼンは柊の背中を一発叩いて、それから私にも同じのを寄越そうとして、寸前でやめて頭を掻いた。
「死なない程度に頑張って」
最初の日と同じ雑な餞別だった。あの日は励ましに聞こえなかったのに、今日は餞別に聞こえるのだから、言葉より耳の方が変わったんだろう。
旅は三日目に、最初の拾い物をした。
正確には、拾われたのかもしれない。街道沿いの小さな宿場町で、柊の右手がとうとう物を握れなくなった。三週間の無茶の請求書だ。宿の主人が、外れの診療所に腕のいい変わり者がいると教えてくれた。
診療所は薬品と紙の匂いがした。奥から出てきたのは、白髪まじりの無精髭に丸眼鏡の男の人で、柊の手を一目見るなり言った。
「訓練のしすぎだ。馬鹿か」
「はい」
「返事だけはいいな」
内山、と名乗った。元はどこかの都市で外科をやっていたが、事情があって流れてきたらしい。手当ての手際は、悔しいけれど私より三枚上だった。指の熱の在り処を触診だけで言い当てて、包帯は私のよりずっと緩いのに、ずっと動かしやすそうに仕上がる。
「あんたの巻き方も悪くない。だが手当てってのは、翌日も生活する人間に巻くもんだ。固定しすぎるな」
「……はい」
「返事だけはいい夫婦だな」
夫婦じゃないです、と言いかけたところで、診療所の奥から黒いものが出てきた。
犬だった。真っ黒で、耳の立った、賢そうな目の中型犬。内山の足元を素通りし、柊を一瞥もせず、まっすぐ私の前に来て、座った。
そして、じっと私を見上げた。
「……クロ。おい、クロ」
内山が眼鏡の奥で目を丸くしていた。
「そいつが自分から人に寄るのは初めて見た。触っても唸るやつだぞ」
クロは私の膝に顎を載せた。触ると、温かかった。そして——聞こえた。
音、と呼んでいいのかわからない。犬の身体の芯のところで、音叉みたいに細く澄んだ一定の音が鳴っている。犬の音じゃない。生き物の音ですら、ないかもしれない。でも嫌な音じゃなかった。むしろ耳の奥の疲れたところに、すっと沁みる音だった。
「この子……何の音がしてるんですか」
言ってから、しまったと思った。初対面の人の前で耳の話をするなんて。
内山は眼鏡を押し上げて、私を長いこと見た。気味悪がる目じゃなかった。医者の目だった。
「——お前、耳か」
「え」
「夜、眠りが浅いだろう。物音で三回は起きる。人混みで頭痛。図星の顔をするな、わかりやすい」
全部、図星だった。
「その耳は道具じゃない、身体だ。使えば減るし、減ったら休ませるしかない。もうだいぶ減ってる音がする——なんて言い方は俺にはできんが、顔に書いてある。今夜は薬を出す。文句は聞かない」
大人にこういう叱られ方をしたのは、いつ以来だろう。すごいとも、助かるとも、怖いとも言われず、ただ身体として心配される。目の奥が急に熱くなって、私は慌てて、クロの頭を撫でるふりをした。
内山とクロは結局、同行することになった。都市に薬品の仕入れがあるという話だったが、決め手は犬だった。出発の朝、クロが私の荷物の横から梃子でも動かなかったのだ。
「犬が決めたなら仕方ない」
内山はそう言って、面倒くさそうに荷物をまとめた。嘘の音はしなかった。けれど、まっすぐでもなかった。この人の声には、底の方に古い痛みが一枚沈んでいる。聞こえたけれど、聞こえないふりをした。それくらいの礼儀は、私にもある。
その夜の野営で、クロは私の腰に背中をつけて丸くなった。
焚き火の向こうで内山が薬研を挽き、柊が緩い包帯の手で器用に薪を足す。遠くで、あの旋律がかすかに回っている。欠けた一音の場所で、クロの耳がぴくりと動いた。
私の耳と、同じ拍で。
……あんたも、聞こえる側なの。
クロは答えずに、目を閉じた。音叉の音だけが、焚き火の爆ぜる音の下で細く鳴り続けていた。
引き直さなかった線のことを、私はまだ保留と呼んでいる。保留の棚は少しずつ賑やかになる。怖さも、痛みも、手の温度も、名前をつけずに置いてある。いつか全部にちゃんと名前をつける日が来るまで、旅はたぶん続く。




