私が聴きに行く
最初に壊れたのは、米だった。
炊いた米を、私は三日続けて焦がした。水加減の音を聞き間違えたのだ。次に帳簿の数字が二度合わなくなり、味噌汁の塩が手元で狂い、柊の呼び声に返事をしたつもりで返事をしていなかった。
原因は、わかっていた。
あの旋律が、消えなくなった。
ダイスが焼かれた夜からずっと、欠けた子守唄は私の耳の奥で回り続けている。遠くで鳴っているんじゃない。焼き付いたのだ。都市の何万の音はその上に降り積もって、仕分けの帳簿は三日で破綻した。全部の音が同じ大きさで届く。蒸気も、鐘も、隣の部屋の寝返りも、自分の心臓も。
眠れたのは、五日で数時間だった。
それでも私は朝に起きて、米を研いだ。ちゃんとしていれば崩れない。十年それでやってきた。米を焦がしたらもう一度炊いて、帳簿が合わなければ三度数え直して、手が震えたら震えない持ち方を探した。
六日目の夜、椀を落とした。
拾おうとして、破片の散らばる音の位置が掴めなかった。私の耳が、たった三歩先の床の音を聞き分けられなかった。
「澪」
「大丈夫。片付けるから、そっち行かないで。破片が」
「澪」
「大丈夫だってば。ちゃんと——」
ちゃんと、の続きが出てこなかった。しゃがんだ姿勢のまま、立ち方を忘れた。旋律が回る。欠けた場所が来る。私の耳はその穴に向かって、勝手に何百回目かの手を伸ばす。ない音を探しに行く。見つからない。また回る。また伸ばす。
「————うるさい」
自分の声だと、遅れてわかった。
「うるさいうるさいうるさい、鳴るなら全部鳴りなさいよ、一音だけ置いていかないでよ、閉まらないでしょうそんなの、閉まらない棚を私に渡さないでよ————」
柊の腕が、破片ごと私を床から抱え上げた。クロがどこかで一声、長く吠えた。この旅で初めて聞く、クロの声だった。
そこから数日の記憶は、切れ切れだ。
蝋の栓を十割まで詰められたこと。内山の触診の冷たい指。苦い薬。クロの音叉の音が枕の下から聞こえ続けていたこと。誰かが毎日、廊下を同じ時刻に同じ回数掃いていたこと。
一度、半分だけ覚めた耳が、隣室の低い声を拾った。
「ずっと側にいたところで、治りは早くならんぞ」
内山の声だった。
「治すのは先生の仕事でしょ。俺のは——あいつが目ぇ覚ましたとき、最初に見る景色が『いつも通り』だって仕事なんで」
「……勝手にしろ」
いつも通り、の意味は、目が覚めるたびにわかった。枕元の水差しは毎朝同じ角度に置かれていた。ルールその五、食器は右利き用に揃える。焦げた匂いのする九割の味噌汁が、毎日同じ時刻に台所から匂った。私が教えなかった方の、あの下手な作り方で。
泣いたと思う。半分眠っていたから、正確には知らない。
ヴェルナーが来たのは、私がどうにか半日起きていられるようになった日だった。合流の約束の五日目は、私の失調のどさくさで、とうに過ぎていた。
紳士は部屋の入り口で帽子を取り、私の顔を見て、深く一礼した。謝罪の礼だと、音でわかった。この人の底に沈んでいる古い痛みが、今日は水面近くまで浮いていた。
「ご説明します。……すべては無理でも、今夜要るぶんは」
ヴェルナーの説明は、こうだった。あの旋律は探索の信号であること。ダイスの処理の夜、至近で浴びた私の共鳴に、信号が照合の楔を打ち込んだこと。楔は少しずつ深くなり、いずれ居場所を正確に結ぶこと。
「手は、三つございます」
一つ、圏外へ逃げ続ける。ただし圏は年々広がっている。
二つ、内山の薬で聴覚を深く眠らせる。楔は消えるが、耳は二度と戻らない。
三つ、現世への帰還。あの一枠はまだ生きている。記憶と引き換えに、永遠に手の届かない場所へ。
「いずれも、あなたを守れます」
どれも、私のどこかを切り落とす話だった。
私は、布団を出た。ふらつく膝で床に降りて、部屋の真ん中に、正座した。
「……おい、澪」
「会議。正座会議を、要求します」
柊が一拍おいて、私の正面に座った。相変わらず足の甲が重なった、間違った正座で。内山が呆れた顔で壁にもたれ、ヴェルナーは帽子を胸に当てて立ったままでいた。クロが私の膝の横に伏せた。定足数は、足りている。
「議題。あの旋律について。——まず、私が潜っている間に知ったことを言います」
三人が、静かになった。
「あれは、探してるの。ずっと。欠けた一音を埋めるものを。私の耳が穴に手を伸ばすのと、同じ仕組みで。……あれ自体が、閉まらない棚なの。誰かの中の」
「だとしても」内山が言った。「お前が付き合う理由にはならん」
「なります。だって——逃げても、耳を殺しても、海の向こうに帰っても、あの棚は閉まらないまま鳴り続ける。次の誰かの耳に楔を打つまで。ダイスみたいな空き部屋を、また作りながら」
私は息を整えた。五日ぶんの震えを、背筋で押さえ込んだ。
「あの音の出どころを、誰かが一度ちゃんと聴かないといけない。何が欠けてるのか。なんで欠けたのか。それができる耳は——ここに、一つしかないでしょう」
「澪様。楔は双方向です。潜れば、向こうもあなたに」
「知ってます。だから逃げるんじゃなくて、こっちから行くんです。攫われるのと、聴きに行くのは違う。……私が、聴きに行く」
沈黙の中で、柊が口を開いた。反対の音は、していなかった。
「戻ってくる方法は」
「あんたが、鈴を鳴らして」
私は枕元の簪を取った。銀の鈴が、細く澄んだ音を立てた。
「一定の拍で、ずっと。この音なら、どんな深さからでも私は拾える。あんたが選んだ音だもの。……これを命綱にする。クロには隣にいてもらう。この子の音叉は耳の痛み止めだから。内山先生は身体を。ヴェルナーさんは——」
「装置を、私が」
ヴェルナーは静かに言った。
「共鳴を導く器械なら、心得があります。……誰よりも」
その言い方の底が、どこまで深いのか。聞こえたけれど、今夜は潜る先が別にあった。
深夜、宿の一室で私は横たわった。
右手は柊の手の中。左脇にクロ。額と胸にヴェルナーの器械の細い端子。内山が脈を取る。柊が鈴を鳴らし始める。一拍、一拍、正確に。
「行ってきます」
「おう。……飯、作って待ってるから」
「九割のでしょ」
「十割の練習しとく」
私は目を閉じて、耳の奥の旋律に、初めて自分から手を伸ばした。
————落ちる、というより、遡った。
欠けた子守唄を川上へ、川上へ。都市の音が剥がれ、夜が剥がれ、距離が剥がれて、最後に残った旋律の芯を掴んだとき、私は音でできた記憶の中に立っていた。
工房だった。
レンさんのところより古くて、小さい。木と油と金属の匂いのする音。作業台の上で青い硝子のランプが灯って、その光の輪の中で、二組の手が働いていた。
若い職人がふたり。ひとりの手は大きくて無骨で、真鍮の櫛の歯を一本ずつ削っている。もうひとりの手は細くて正確で、ぜんまいの軸を組んでいる。細い方の手の主が、聞き覚えのある丁寧な声で笑った。ずっと若い、けれど間違いようのないあの声で。
『納期に間に合いませんよ、これでは』
『うるさい。音が納得するまで削る』
オルゴールを、作っていた。
場面が変わる。同じ工房。ベッドが増えている。窓際に小さな女の子が寝ていて、頬は白すぎて、でも目は生きていた。無骨な手の職人がぜんまいを巻くと、あの子守唄が流れた。
欠けて、いなかった。
正確には——旋律が上りきる手前のあの場所で、オルゴールは音を出さず、代わりに女の子が歌った。たった一音。そこだけ、自分の声で。
『どうして一個ないの、って聞かれたんですよ、私』
若いヴェルナーの声が、笑いを含んで言った。
『そこはお前が歌う場所だと、この人が。最初から一音だけ、わざと作らなかったんです。世界に一つの、二人で完成する曲ですよ』
『恥ずかしいから言うな』
女の子が笑う。足元で、何かが尻尾を振る音がした。犬だ。けれど心臓の音がない。代わりに、音叉のような細く澄んだ一定の音——
『クロ! こら、しっぽで譜面あおがないの』
————ああ。
あんた、ここの子だったの。
走れない女の子のために作られた、機巧仕掛けの黒い犬。私の左隣で今も鳴っている、あの音で。
場面が、暗くなる。
ベッドが空になった工房。青いランプ。ぜんまいを巻く無骨な手。旋律が回って、あの場所で止まって、誰も歌わない。回って、止まって、誰も歌わない。回って、止まって——
『————もう、いい』
低い声がした。底の抜けた声だった。
『感じるから、失う。痛むから、壊れる。あの子も、これを聴く俺も。……なら要らない。中身は全部、要らない。箱だけでいい。箱は、痛まない』
青いランプが消えた。
旋律だけが、暗闇の中で回り続けた。欠けた場所を世界中に響かせながら。あそこはあの子が歌う場所だから、誰にも埋めさせない。埋まってしまえば、あの子が本当にいなくなるから。永遠に閉まらない棚を、あの人は自分で抱えて、世界ごと空き部屋にする道を歩き出した。
——泣いてる場合じゃないのに、私は記憶の中で泣いていた。
そのとき、旋律が、揺れた。
『————誰だ』
暗闇そのものが、こちらを向いた。
圧力。耳の中に手を突っ込まれるような照合の感触。楔が軋む。見つかる。掴まれる。
『その拍——その耳——……エ』
呼びかけの形に、声が崩れた。一瞬だけ暗闇は娘の名前の最初の音を私に向けて、それから、比べものにならない怒りが来た。
『違う。歌うな。そこは、お前の場所じゃない』
旋律が牙になって殺到する、その底の底で。
鈴が、鳴っていた。
一拍、一拍、正確に。細く澄んだ、私のための音。あの人が耳で選んだ、うるさいくらい生きてる方の世界の音。
私はそれを掴んで、遡ってきた川を一息に落ちた。
目を開けると、朝だった。
右手は握られたままで、握っている方の男は目の下を真っ黒にして、それでも鈴を鳴らし続けていた。何時間、と聞いたら、知らん、と内山が代わりに答えた。八時間だそうだ。馬鹿じゃないの。指、見せなさい。後で巻いてあげるから。
「————敵じゃなかった」
声が掠れた。言い直した。
「いえ。敵よ。あれは止めなきゃいけない。でも、怪物じゃなかった。……娘のお墓を、世界中に鳴らし続けてるお父さんなの。誰にも埋めさせないように」
部屋の隅で、ヴェルナーが目を閉じていた。
「あなた」私は言った。「あの工房に、いましたね。青いランプの横に。若い、あなたの声で」
長い沈黙のあと、紳士は帽子を胸から下ろして、深く頭を下げた。
「————私の、相棒でした」
クロが立ち上がって、ヴェルナーの足元へ歩いた。初めて自分から人に寄るのを見た、と内山が言った犬が、二度目に自分から寄った先で、静かに尻尾を振った。
「……久しいですね、クロ。良い子にしていましたか」
紳士の声が、初めて浮きも沈みもせずに震えた。
「三年前」と、内山が言った。「診療所の前にこいつを繋いで、手入れの道具と手順書だけ置いていったのは——あんたか」
「……腕が良く、口の堅い預け先を、探しておりましたので」
「道理で。うちを勧める宿の主人が、妙に多いわけだ」
紳士は答えなかった。答えないのが、答えだった。
話すべきことは山ほどあった。でも私は先に一つだけ、はっきりさせておいた。
「あの欠けた一音は、傷じゃない。あそこは、誰かが歌うための場所なの。……私はまだ、その歌い方を知らない。知らないけど——覚えるつもりでいるから」
窓の外で都市が朝の音を立てていた。九割の味噌汁の匂いが、台所から上がってきた。十割の練習は、まだ始まってもいないらしい。それでよかった。今日はまだ、九割がいい。




