観測者
翌朝、ヴェルナーは私たち全員を前に、帽子を膝に置いて話した。長い話を、この人らしく無駄なく。
相棒の娘は、エマといった。
生まれつき、桁外れの耳を持っていた。三つで屋根裏の鼠の数を当て、五つで雨の来る方角を言い、七つで人の嘘を聞き分けた。そして八つで、寝込むようになった。
「共鳴負荷、と私たちは呼びました。聞こえすぎる耳は、世界の全部と勝手に鳴り合ってしまう。身体がそれに耐えられない。……減る身体、という内山先生の言葉が、一番正確です」
内山が眼鏡の奥で目を細めた。私は膝の上のクロの頭に手を置いた。
機巧の犬も、あのオルゴールも——私が音の記憶の中で見たものは、全部エマのために作られた治療の道具だった。欠けた一音は、あの子が自分の共鳴を、歌として外へ逃がすための出口。
「毎晩の治療で、同時に、二人で完成する曲でした。あの子は十二まで生きた。器械がなければ、九つまでも保たなかったでしょう。……ですが親にとって、その差はたぶん慰めにならない」
エマが死んで、相棒は三月ほど、ぜんまいを巻き続けた。誰も歌わない旋律を回し続けて、それから、結論を出した。
共鳴が殺すのなら、共鳴を消せばいい。感じる器官ごと、人間から。
「私は反対しました。それは治療ではなく、殺害の丁寧な言い換えだと。……彼は工房の技術を全て持って消えました。次に噂を聞いたときには、西の海に塔を建て、名を捨て、箱、とだけ呼ばれていました。感情の除去を『救済』として施す何かに、なっていました」
島へは、自ら救済を願って渡る者も絶えないのだと、紳士は続けた。痛みに疲れ果てた人間にとって、あれは怪物ではなく——順番待ちのある、診療所なのだ。私はちらりと内山を見た。身体ごと生かして治す方の診療所は、苦い顔で黙っていた。
ダイスは、と誰かが聞く前に、ヴェルナーは頷いた。
「おそらく、あなた方の会った青年も、耳の病の子だったのでしょう。彼は本気で救っているつもりなのです。エマのような子を、二度と痛ませないために。……私はそれを止めるために、別の答えを探しました」
紳士は、私と柊を順に見た。
「共鳴は、一人で抱えれば身体を減らす。ですが二人で分け合えば——揃わないまま、支え合う形でなら——人を減らさず、育てるのではないか。それが私の仮説でした。世界を渡って、対になり得る二人を探しました。桁外れの耳と、その耳が安心して鳴れる錨を」
「————それで、夫婦」
「はい。生活こそが、最も深くゆっくりと共鳴を編む器ですので。……騙すような形で巻き込んだこと、危険に晒したこと、お詫びのしようもございません。お怒りは当然です」
「怒ります」
私は言った。
「あとで、まとめて。利子もつけて。——今は、使える話を全部出してください。塔のこと、箱のこと、あなたたちの技術のこと。全部」
ヴェルナーは一瞬だけ目を見開いて、それから深く頭を下げた。
頭を上げた紳士に、一つだけ先に確認した。
「そういえば、管理局って何なんですか。私たちを夫婦として登録した、あの」
「私です。正確には、私が幾つもの名義で回してきた、紙の上の役所です。村への登録も、当面の生活費も、レン殿への連絡も。……世界を渡る実験には、それらしい看板が必要でしたので」
外堀という外堀を埋めた犯人まで、これで確定した。怒りの利子が、また少し増えた。
使える話の在り処は、都市の禁書庫だった。
二人の工房の研究記録は、相棒の出奔ののち危険技術として封印され、都市の書庫の最下層に眠っているという。閲覧にはヴェルナーの古い資格と、もう一つ、現在の管理者の許可が要った。
管理者は、書庫の最下層に住んでいた。
積み上がった記録紙の谷間に机が一つ。その上に見たこともない器械が並び、真ん中に、白衣の若い男が座っていた。癖のない黒髪に、細い銀縁の眼鏡をかけている。年は柊と私の少し上くらいだ。
「カイだ。用件は聞いている。——が、その前に」
彼は挨拶を省略して、私を指した。
「君が第九次まで聞こえるという耳か。検証させろ。話はそれからだ」
「……人を器械みたいに」
「器械に失礼だ。器械はもっと素直に測らせる」
検証は二時間に及んだ。目隠しをして、音叉の本数を当てる。重ねた録音の層を数える。壁三枚向こうの振り子の狂いを言う。カイは結果を書き留めるたび、眼鏡の奥の目をどんどん輝かせていった。感情の薄い声のまま、目だけが正直な人だった。
「最後だ。これを聞いて所見を」
小さな共鳴板が、あの旋律の採録を低く再生した。私の肩が跳ねたのを、クロが身体で押さえた。
「……欠けた一音の場所で、他の全部の音が、少しずつ内側に傾いてる。穴に向かって。あれは音楽の形をした、引力です」
カイは書く手を止めて、しばらく黙った。
「————完璧な所見だ。うちの器械を全部積んでも、その一行は出てこない」
「便利な呪いでしょ」
自嘲のつもりで言った。カイは眼鏡を押し上げて、心底不可解そうな顔をした。
「呪い? ……観測結果を言う。君のそれは呪いでも何でもない。第九次高調波まで分離する聴覚器官と、それを実時間で処理する演算系だ。この階の器械を全部足しても君一台に負ける。それを呪いなどという非定量的な単語で呼ぶのは、科学への侮辱であり——君自身への、誤診だ」
誤診。
内山は身体の側から、この人は数字の側から、同じことを言う。優しさの形はしていないのに、優しさより深いところに刺さった。私はたぶん数週間ぶりに笑った。
「……誤診か。じゃあ、診断し直します」
「そうしろ。データは全部渡す」
レムとゼンが都市に着いたのは、その翌日だった。
ヴェルナーが村へ早馬を出していたのだ。作戦には、レンさんの手帳が要るからと。書庫の入り口でレムの顔を見た瞬間、私は自分で思っていたより速い足で歩み寄っていた。レムは手帳を胸に抱えたまま、空いた腕で私に抱きついて、耳元で言った。
「顔、ちゃんとしてない。よかった」
褒め言葉として、受け取っておいた。
ゼンは相変わらずの声量で、村の若いのを十五人連れてきたと言った。手帳の一行を、この男は本当に実行し続けている。
そして手帳は、カイの器械の横で開かれた。
共鳴板が低く鳴り、ページの上に、あの定規で引いたような字がひとりでに現れた。
『久しい、とは言わない。ずっと聞いていた』
レムが両手で口を押さえた。カイが器械に飛びつく。字は続いた。
『レンは消えた。俺は残響だ。機憶体の躯体が散る時、俺はこの紙に写っていた。……レンが、最後にそうした』
『泣くな、レム。いや——泣いてもいい。俺には拭えないのが、少し困るだけだ』
レムは手帳を抱きしめて、書庫の床にしゃがみ込んで、長いこと泣いた。ゼンがその横にどかっと座った。誰も急かさなかった。急かす理由が、どこにもなかった。
落ち着いてから、残響は仕事の話をした。レンとこの相棒は、かつて箱の男の島で造られた機憶体だったこと。回収された器の中身がどう処分されるかを見て、逃げたこと。だから塔の言葉が話せること。
作戦は、その夜のうちに骨組みができた。
西の海の島。中心の要塞に、箱の男の本体。旋律は七つの塔が中継し、増幅している。力ずくで塔を折っても、網は再調律して塞がる。だから折らずに、乗っ取る。
「塔の中継式を書き換えて、網の目を一箇所だけ、内側に開く」
カイが図面に線を引いた。
「制御棟で俺が式を回す。護衛と人手は声のでかいのと村の十五人。中継節点には手帳——残響殿に直接繋がってもらう。塔の言葉が話せるのは彼だけだ。付き添いはレム。以上、外は二箇所。開いた目から中枢へ入るのは」
「私と、柊」
「そうなる。移動と装置はヴェルナー翁、生体管理は内山医師と犬。……言っておくが、中枢で最後に物を言うのは君の耳だ。器械は持てるだけ持たせるが、最後は君だ」
「わかってます」
その夜、書庫の屋上で、ゼンが焚き火とも言えない小さな火を熾した。禁書庫の真上で火気とは、と思ったが、カイが黙認したので黙認した。乾杯は水で、献立は私が握った十五人分の飯だった。
火の番を替わりに立った時、風下から声が流れてきた。カイと、柊だった。
「一応言っておく。君の共鳴出力は彼女への依存度が高すぎる。単体戦力として非合理だ」
「でしょうね」
「否定しないのか」
「合理的にやりたきゃ、あんたが澪と組めばいい——って言いかけたけど、やめた。それは嫌だ」
「……非合理だ」
「はい。夫婦なんで」
書類上、が付かなかった。
私は火に薪を一本足して、爆ぜる音に紛れて、口元だけで笑った。地獄耳も、たまには悪くない。
火の粉が夜へ立ちのぼるのを眺めながら、観念して、棚卸しを一つだけした。——書類上、が付かないのは、たぶん私の方も同じだ。いつからかは特定できない。味噌汁の朝か、鈴の夜か、八時間の拍か。一つの音じゃなくて、積もった生活の全部がまとめて証拠だから、これはもう観測結果として認めるしかない。本人に言う予定は、当分ないけれど。言ったらあの男は、絶対に調子に乗る。
宿に戻って、机の上に並べたものを見た。ダイスの賽子。銀の鈴の簪。カイのくれた検証記録の写し。棚にしまう前に、私はそれぞれに、心の中で名前をつけた。矜持。命綱。診断書。
名前のついたものは、棚の中で軋まない。
その三日は、あっという間に過ぎた。
出発の前夜、柊が眠ってから、私は彼の寝息を数えた。
三十秒で寝息に変わる。裏も揺れもない、まっすぐな音。もう百晩ぶん知っている音だ。台帳をめくらなくても、私はこの男の眠りを暗記している。
その夜の呼吸は、吸うたびに半拍、上ずっていた。
眠っているのに。私は横になったまま、耳だけをそちらに向けた。何かの下で、何かが鳴っている。音そのものは拾える。震えの幅も、上ずる間隔も、いつも通り正確に拾える。拾えるのに、それが何なのかだけが、わからない。
聞き間違いにしたかった。でも私の耳は、聞き間違いをしない。そういう耳だから、ここまで来た。
翌朝、当番の味噌汁を彼の前に置きながら、私はなるべく何でもない声で訊いた。ちゃんと、口で訊いた。
「帰りたい?」
柊は椀を受け取って、一口飲んで、いつも通りの顔で言った。
「帰る、だろ。母ちゃんが待ってる」
——語尾が、浮いた。
全部の文の、最後のところが。あの嘘の音を立てて。
だから私は、翻訳した。
浮いた言葉の、逆が本心。工房の「レンさんもいるし」も、崖の「俺は平気」も、全部そうだった。この男は本音と逆を言うとき、喉が浮く。それが日野柊の仕組みで、私はそれを知っている。
帰りたい、が嘘。本当は帰りたくない。私を帰すために、自分は残る算段でもしているんだろう。させない。二人で帰る。
「二人で帰るからね」
私は言った。彼の音を訳して、答えを決めて、椀を下げた。訊いた口で、聞かなかった。返ってきた音を、私は自分の耳で握り潰して、都合のいい方へ畳んだ。
そのとき、畳めたと思った。
夜、彼が寝返りの拍子に、寝言みたいな声で、一言こぼした。
「……こっちの俺の方が」
続きは、なかった。寝息に戻った。
その一言だけ、語尾が浮いていなかった。
まっすぐ沈む、嘘の音のしない声で。それきり、何も言わなかった。
私は暗い天井を見ていた。「こっちの俺の方が」の続きを、耳はもう拾えない。言われていない音は、どんな耳にも聞こえない。浮いた音の下に何かが沈んでいるのは、わかる。ただ、それが何なのかは——訊かなければ、わからない。
朝、私は「帰りたい?」と訊いた。訊いておいて、答えを、耳で潰した。
——理由に、名前をつけられない。名前のつかないものは、棚に入らない。私はそれを、床に置いたまま出発することにした。
出発は、その日の朝だった。




