七塔反転
西の海は、音まで灰色だった。
海岸の旧中継所に着いたのは出発から六日目の夕方で、崖の上から初めて私たちはそれを見た。鉛色の海のずっと沖に、黒い島。島を囲んで、海面から生えた七本の塔。距離にして数里あるはずなのに、旋律はもう蝋の栓の下まで届いていた。ここでは世界の全部の音が、少しずつあの島の方へ傾いている。
「予定を確認する」
中継所の埃っぽい机に、カイが図面を広げた。
「夜明けと同時に、俺はここから塔の中継式に書き換えを流す。網は異物に気づいて再調律を始める。その騒ぎの間に、レムと残響殿が第四塔の基部節点へ接続。内側から書き換えを承認させる。承認が通れば、第四塔と第五塔の間の網の目が四百拍だけ開く。ヴェルナー翁の船はその隙間から入る。以上」
「俺は?」とゼン。
「君と十五人は第四塔の対岸で、できる限り派手に騒げ。かがり火、銅鑼、声。網の警戒をそちらへ引きつける」
「つまり得意なことをやれと」
「そうだ。才能を無駄にするな」
夜明け前、船着き場で最後の点呼をした。
内山は薬箱を三度確認し、クロは舳先に伏せた。ヴェルナーは船の機関——というより器械の群れ——に細い端子を差し込みながら、いつもの完璧な微笑みでいた。ただしその底の古い痛みは、今日は隠す気もないらしかった。相棒の家に、三十年ぶりに帰る人の音だった。
柊は大鎚を背負い直した。レンさんの得物は、この数ヶ月でようやくこの男の振りに馴染み始めている。その胸元には、私の簪。錨の係が命綱を持つ。潜った日からの、私たちの手順だ。
「なあ。帰ったらさ——」
「その話は禁止。ルールその十二」
「まだ何も言ってねえだろ」
「帰ったら、で始まる話は帰ってからする。生きて帰る前提を、前借りしない」
「……了解。じゃあ帰ってから言う」
「よろしい」
言ってから、少しだけ後悔した。何を言いかけたのか、実は聞きたかった。でもルールはルールだ。私が作ったんだから、私が守る。
夜明けの一拍目は、カイの式だった。
崖の上の中継所から、海へ向けて、算盤を弾くみたいな規則正しい信号の拍が流れ出す。蝋の栓の下で、私はそれを聞いた。同時に、七本の塔が一斉に、耳を澄ます音がした。
網が、ざわめく。
異物。照合。再調律。塔から塔へ、確認の信号が海の上を走り回る。そこへ対岸から、銅鑼とかがり火の爆ぜる音と、あの馬鹿でかい声が割り込んだ。「おーい! こっちだこっち! 塔の親玉さんよう、苦情があるぞ!」。十五人分の足音が浜を無秩序に走り回る。網の注意が、目に見えて散った。
「今」
レムたちの舟が、第四塔の基部に取り付いた。
そこから先を、私は船の上で、耳だけで見ていた。
節点の蓋が開く音。手帳が共鳴板に置かれる音。そして——塔の中を、あの定規のような字が信号になって駆け上がっていくのが、聞こえた。
網が、一瞬、止まった。
再調律の信号が、ためらった。七本の塔が、駆け上がってきた署名を照合して、古い記録と突き合わせて、確認し合う音。それは警戒の音じゃなかった。もっと、戸惑いに似た——遠くへやった兄弟の声を、聞き分けた時の音。
『——ただいま、とでも言っておく』
残響の信号は、そう名乗った気がした。
承認が、通った。
「開きます」ヴェルナーの声。「第四と第五の間、四百拍。——参ります」
船が滑り出した。そして網の目をくぐった瞬間、世界が変わった。
蝋の栓が、要らなくなった。
塔の網は、島を守る耳だ。海の上のあらゆる音を拾い、照合し、島へ送る。その網に、残響の署名で私たちは「内側」として登録された。つまり——七本の塔が拾う全部の音が、今、私にも流れ込んでくる。
私を探すために建てられた七本の耳が、私の耳になっていた。
「————すごい」
声が漏れた。
聞こえる。全部。崖の上でカイの式が回る拍。対岸でゼンが笑いながら銅鑼を叩く音、十五人の足音のばらばらの元気。第四塔の基部でレムが手帳を抱えて震えている心臓の音と、その震えを宥めるように共鳴板が送る、字を書くみたいな細かい信号。船の機関の唸り。内山が薬瓶を握り直す音。クロの音叉。柊の呼吸。
ばらばらだった。誰一人、同じ拍では動いていない。カイの式は速すぎるし、ゼンは走り回るし、レムの心臓は不安で跳ねるし、柊の呼吸は緊張で浅い。揃っていない。全然、揃っていない。
なのに、全部が繋がっていた。
崖の式が網を騒がせ、その騒ぎの隙間でゼンの銅鑼が警戒を引きずり、引きずられた警戒の裏でレムの手が節点を支え、支えられた節点が私たちの船を通す。ばらばらの音が、互いの隙間にぴったり嵌まって、一つの——曲に、なっていた。
誰も指揮していない。いや、違う。この曲の楽譜は、半年かけて書かれたのだ。境界線と、味噌汁と、訓練と、葬式と、看病と、焚き火の夜で。生活こそが最も深く共鳴を編む器だと、あの紳士は言った。編まれていたのは私と柊だけじゃなかった。
「四百拍のうち、残り二百二十」カイの声が信号に乗って届いた。「順調——」
音が、裂けた。
海面が盛り上がって、網の目のこちら側、船の進路の真上に、黒い人影が降ってきた。甲板の先端に、音もなく着地する。
若い男だった。制服のような黒。整った、何の表情もない顔。そして私の耳は、その中身を聞いて、息が止まった。
空き部屋、ですらなかった。
ダイスには壁と床が残っていた。この人には、それもない。更地だった。人の形をした、完全な無音。
「バロウ」
あの平坦な声が、初めて肉声で言った。
「当該個体を最終防衛線と定義する。通行は認められない」
「……あんたが、船の上の声」
「感情的行動は排除の対象となる。これは通告ではない。手順である」
剣が抜かれた。踏み込みに、予備動作の音がまるでなかった。
受けたのは、大鎚だった。
火花と衝撃で船が傾ぐ。柊がバロウを押し返し、二人は狭い甲板で打ち合い始めた。速い。ダイスより二段速い。しかも揺れも迷いもない太刀筋が、揺れる船の上でまったく精度を落とさない。
「澪様、網の維持を!」ヴェルナーが叫んだ。「あなたの耳が四百拍を数え損ねれば、目は閉じます!」
わかっている。わかっているから、動けない。
残り百八十拍。私は数える。数えながら、聞いてしまう。柊の呼吸が浅くなる音。大鎚の軌道が三度目に乱れる音。左腕の布が裂けて、その下の皮膚も裂けた音。
行きたい。耳ごと全部あっちに向けたい。でも私が拍を落とせば、レムも、ゼンも、崖のカイも、開けた目ごと網に噛み潰される。
——これが、あの日のレンさんの側か。
走れと言って、自分は残る側。数えろと言われて、聞こえるのに行けない側。歯を食いしばって、私は数えた。百六十。百五十九。柊が膝をつく音。百五十八。立つ音。
信じろ。あの男は三秒の男だ。私が観察する三秒ぶん前に出る係で、私は——その三秒に、耳を貸す係だ。
一拍だけなら、貸せる。
私は網の音の全部を数えの底に敷いたまま、耳の一番いいところを、一拍だけ甲板の先へ向けた。
バロウの軸足。踏み込みの寸前、更地の身体でたった一つ鳴る音。義肢の駆動が、左膝でわずかに遅れる。
「柊————左膝、次の踏み込み、今!」
大鎚が、真横に走った。
レンさんの得物が、レンさんに教わった軌道で、バロウの左膝を薙いだ。義肢の駆動が悲鳴を上げて、完全な無音だった身体が初めて音を立てて崩れた。柊が返しの柄で剣を叩き落とし、切っ先をバロウの喉元で止めた。
止めた。突かなかった。
「……なぜ、止める」
バロウの声は、倒れても平坦なままだった。
「排除しろ。それが手順だ」
「知らねえよ、あんたの手順なんか」
柊は肩で息をしながら、剣を海へ蹴り落とした。
「あんた、ダイスの仲間だろ。だったら——生きて見とけよ。俺たちがこれから、あんたらの親玉に何て言うか」
残り、六十拍。
内山がバロウの膝に応急の処置だけして(医者を五年やると、の続きは聞かなかった)、第五塔の基部の岩に降ろすと、船は再び滑り出した。五十、四十。網の目が軋みながら狭まってくる。三十。レムの節点が最後の力で目を支える音。二十。ゼンの銅鑼。十。カイの式が終わりの拍を打つ。
三、二、一。
網の目が、私たちの船尾すれすれで閉じた。
振り返ると、七本の塔が何事もなかったように灰色の空を支えていた。前を見ると、黒い島が目の前にあった。岩でできた要塞が、海面から絶壁のようにそそり立っている。
旋律が、頭上から降ってきた。網の内側の、剥き出しの音量で。
そしてその中から、あの声がした。ダイスを焼いた放送の声でも、バロウの平坦な声でもない。もっと古くて、もっと低い、底の抜けた声が。
『————来たのか』
要塞の岩壁が軋んで、正面に、扉の形の闇が開いた。
『いいだろう。入れ。ただし——歌うな』
柊の手が、私の手を握った。私は握り返した。四百拍を数え終えた耳は疲れ切っていて、でも不思議と、怖くなかった。ばらばらのまま繋がる曲を、私はさっき、この耳で全部聞いたばかりだったから。
「行きましょう」
船は、闇の中へ滑り込んだ。




