箱の男
要塞の中は、静かすぎた。
石の廊下は迷路のように下へ下へと折れて、機械の兵隊は一体も出てこなかった。招かれているのだ。誰もそれを口にしなかったけれど、全員わかっていた。
途中で、収蔵庫を通った。
天井まで届く棚に、手のひらに載るくらいの小箱が、何千と並んでいた。私は三歩でその部屋の正体を聞き取って、四歩目で足が止まった。
箱の中から音がしていた。ひとつひとつ、違う音が。小さな笑い声。小さな泣き声。誰かの名前を呼ぶ声。雨の日の鼻歌。全部蓋の下でくぐもって、けれど確かにまだ鳴っていた。
「……抜き取った中身を」内山が低く言った。「捨てられなかったのか、こいつは」
救済のために空にした部屋の、運び出した家具の全部を、この人は捨てずに取ってある。棚に並べて、鍵をかけて、埃を払って。
怪物なら、捨てられたはずだった。
最深部の扉を開けると、そこは工房だった。
木と油と金属の匂い。作業台。壁の道具掛け。窓のない壁に、偽物の窓枠まで作ってある。そして部屋の中央に、青い硝子のランプに照らされて、それはあった。
オルゴール——だったもの。
記憶の中で手のひらに載っていた器械は、三十年かけて部屋の半分を呑む大きさに増築されていた。真鍮の櫛は幾重にも重なり、ぜんまいは塔から引いた共鳴で自動的に巻かれ続け、欠けた子守唄を、世界へ向けて回し続けている。
その前に男の人が座っていた。
古びた作業着の背中。白いものの混じった、無造作な髪。振り向いた顔は思ったよりずっと普通の、どこの工房にでもいそうな職人の顔で、ただ目だけが、底が抜けていた。
私の耳はその中身を聞いた。
更地じゃなかった。空き部屋ですら、なかった。全部の部屋を自分で運び出して空にした家の、一番奥の一室だけに、灯りがついている。その部屋だけが三十年、鳴りやまない。
——この人、失敗してるんだ。
自分の悲しみだけ、どうしても抜けなかったんだ。
「よく通ったな、あの網を」
箱の男は、立ち上がりもしなかった。
「ヴェルナー。お前の仕込みか。相変わらず、回りくどい」
「……三十年ぶりの挨拶が、それですか」
「挨拶は捨てた。三十年前に」
男の目が私に移った。底の抜けた目のまま、けれど何かを確かめる目で。
「近くで聞くと、よくわかる。……エマと同じ耳だ。同じ鳴り方をする。同じ減り方も、もう始まってるな」
「————」
「知ってるか、娘。その耳の持ち主がどうなるか。俺は知ってる。十二年かけて、一日ずつ見た」
男は、増築されたオルゴールに手を置いた。
「だから、迎えに来させた。攫うためじゃない。間に合ううちに、救うためだ」
「空にするのが、救い?」
「そうだ」
即答だった。揺れも迷いもない、三十年反芻され続けた結論の音だった。
「感情は痛みの前兆だ。愛したものは必ず失われ、感じる器官は必ず砕ける。ならば前兆の段階で摘めばいい。……お前はもう知ってるはずだ。師を失った夜、自分で組み立てただろう。大切を作らなければ、痛みは起きない、と」
心臓が冷たい手で掴まれた。
知っている。この人は楔の向こうから、私の中身を聞いていたのだ。私が聴きに行ったように、向こうも。
「お前は俺に似ている。閉まらない棚に耐えられない。手順で世界を留めてきた。線を引いて、自分の輪郭を守ってきた。——薄まるのが、怖いんだろう」
男の声が初めて柔らかくなった。恐ろしいのは、それが本物の柔らかさだったことだ。
「処理は、お前のその怖さを終わらせる。混ざらない。減らない。誰にも踏み越えられない。完璧な境界線を、永遠に」
————ああ。
この人は、私の一番古い願いの言葉で話している。
知らない世界の一日目、震える手で床に引いた、あの炭の線。あれの完成品を、この人は差し出している。もう誰にも踏み込まれない。もう誰を失っても痛まない。もう私は、私のまま——
ポケットの中で指が固いものに触れた。
賽子だった。
空き部屋の男が、最後まで手放さなかったイカサマ。全部運び出された部屋に、それでも残った、たった一つの選ぶ力。目の意味は、俺が決めてた。あんたにだけは、最後まで。
「……一つ、間違ってます」
自分の声が静かなのに驚いた。
「ダイスは、空にされても選んでました。バロウは更地にされても、私たちを通しませんでしたけど、殺しもしなかった。あなたは三十年かけて自分を空にして——それでも、この部屋を作った。箱を、何千も捨てられずにいる。……全部、失敗してる。中身って、そんなに綺麗に運び出せないんですよ」
「詭弁だ」
「観測結果です」
カイの言葉を借りた。男の眉が、初めて動いた。
「それに——確かに私は、あなたに似てます。師を失った夜、あなたと同じ手順書を組みかけた。楽になりたい夜は、今もあります。でも」
息を吸った。半年ぶんの空気を、全部。
「楽になりたくない。痛くてもいい。——ちゃんと、痛みたい」
「————」
「ちゃんとするって、ずっと、痛みが起きないように世界を整えることだと思ってました。違った。ちゃんとするって、起きた痛みに、ちゃんと痛むことだった。レンさんの分も、ダイスの分も、私はまだ全然、痛み終わってない。それを取り上げられるのは——救いじゃなくて、ただの、横取りです」
工房が静まり返った。
青いランプの炎だけが小さく揺れて、それから、箱の男は目を閉じた。
「……そうか」
ぜんまいの音が、変わった。
「なら、手順に戻る」
旋律が、牙を剥いた。
増築された真鍮の櫛が一斉に鳴って、欠けた子守唄が音の質量で部屋を満たした。楔が軋む。私の耳が穴に向かって引きずられる。処理が、始まる。感覚が端から白く飛んでいく。誰かが私の名前を呼んでいるのに、音の仕分けができない。棚が、全部の棚が一度に開いて——
鈴が、鳴った。
一拍。一拍。正確に。八時間鳴らし続けた不器用な指が、また鳴らしている。うるさいくらい生きてる方の世界の、私のための音。柊の腕が私を抱えて、耳元で、あの浮かない声が言った。
「のびた麺、まずかったよな」
「————っ、は?」
「九割の味噌汁も、正座会議も、荷車も、鈴選ぶのに二時間かかったのも、全部あんたの言う痛みの前兆なんだとよ。……で、どうする。要らなかったか、あれ」
要るに、決まってるでしょう。
白く飛びかけた感覚が、生活の名前を呼ばれるたびに、一つずつ戻ってきた。私は柊の腕の中で足を踏みしめて、増築された墓標に向き直った。
そのとき、黒い影が私の横をすり抜けた。
クロだった。
機巧の犬は牙も剥かず、吠えもせず、まっすぐにオルゴールへ歩いて、真鍮の櫛の光の中へ、身体ごと入った。
「クロ————!?」
箱の男が、立ち上がった。底の抜けた目が、初めて見開かれた。
「……クロ? お前、動いて——ヴェルナー、お前が、ずっと」
「ええ。手入れを絶やしたことは、一日も」
クロの身体の芯から、あの音叉の音が今までの何倍もの強さで立ち上がった。
そして私は、やっと気づいた。三十年間この犬が鳴らし続けて、私の耳の痛みを何度も宥めてくれた、あの細く澄んだ一定の音。
エマの、音だった。
あの子の声の高さだった。走れない女の子の隣で毎晩デュエットを聴き続けた機巧の犬は、主の音を自分の芯に写して、三十年、消えないように抱えて歩いてきたのだ。
旋律が回る。上りきる手前の、あの場所が来る。
三十年間、誰も歌わなかった場所に。
クロの芯から、エマの一音が、鳴った。
————曲が、完成した。
たった一巡。世界に一つの、二人で完成する曲が、三十年遅れの一巡だけ、最後まで鳴った。
箱の男は、立ち尽くしていた。増築された墓標が軋みを止めて、真鍮の櫛が一枚ずつ静かになっていく。ぜんまいの、ほどけていく音。男は膝から崩れ、床に手をついて、三十年ぶんの声で泣いた。手順の音じゃなかった。整理も反芻もされていない、生まれたばかりの痛みの音だった。
クロが光の中で横たわった。
音叉の音が、細く、細くなって——止まった。
「クロ! おい、クロ!」
内山が駆け寄って、機巧の胸に手を重ねて押し始めた。「機械に心マは効かんだろ!」と自分で叫びながら、それでも押し続けた。医者というのは、そういう生き物らしかった。
私はまだ終わっていないことを知っていた。
曲は完成した。お墓は三十年遅れで、ちゃんと閉じた。でもそれだけなら、あの場所はまた、永遠に空白のままになる。閉じたお墓と、空にした世界を抱えて、この人はまた一人になる。
あの空白は、誰かが歌うための場所だ。
私は息を整えた。エマの音は出せない。出しちゃいけない。あそこはあの子の場所で、私の場所じゃない。だから——隣に、私の音を置く。
ほどけていく旋律の、最後の一巡。上りきる手前の、あの場所で。
私は、歌った。
私の高さで。私の、生きてる方の音で。半年ぶんの痛みと、味噌汁と、白銀と、賽子と、鈴の全部が混ざった、震えて、掠れて、お世辞にも綺麗じゃない一音を。
欠けた場所は、埋まらなかった。エマの場所は、エマの場所のまま。ただその隣に、生きてる音が一つ、並んで鳴った。揃わないまま、一緒に。
ぜんまいが、ほどけ終わった。
工房に、本物の静寂が降りた。
「…………下手だな、歌」
床に膝をついたまま、箱の男が言った。
「悪かったですね」
「————生きてる歌だ」
男はゆっくりと顔を上げて、光の中のクロを見て、それから青いランプを見た。底の抜けていた目に、何かが戻っていた。戻ってきたものは痛みで、痛みの形をした、あの子の名前だった。
「……エマ」
要塞の深いところで、大きな機関がひとつずつ、眠りに落ちていく音がした。七本の塔が沈黙する音が、壁越しに届いた。世界から、あの旋律が消えた。
静寂は、空き部屋の音とは違った。
満ちた部屋が、眠っている音がした。
そのとき、内山の手の下で——かすかに、音叉が鳴った。
弱く、途切れながら、でも確かに。ただし、前と同じ音じゃなかった。三十年抱えてきたエマの高さを主に返して、空になった芯が、新しい音を探して震えている。その震えの向かう先を、私の耳は聞き取ってしまって、目の奥が熱くなった。
クロの新しい音は、私の高さを、写し始めていた。
「……おい、嫁さん」内山が掠れた声で言った。「犬が、お前の音で鳴ってるぞ」
「————知ってます」
聞こえてますから。全部。




