最後の正座会議
箱の男は、工房に残ると言った。
ぜんまいのほどけた墓標の前で、青いランプの灯りだけを頼りに、男は棚の小箱の話をした。網が沈黙した今、抜き取られた中身は錨を失って、少しずつ持ち主の元へ滲み戻っていくらしい。岩礁のバロウが胸を押さえてうずくまっている、と見張りに立ったゼンの声が信号で届いたのは、その説明の途中だった。
「戻る痛みは、抜く痛みより重い」男は言った。「詫びて済む数じゃない。だから詫びない。ただ——全部返るまで、ここで聞いている」
「それが終わったら?」
「終わる頃には、俺も終わる。この身体はあの器械の共鳴で保たせてきた。ぜんまいと一緒にほどけるだけだ」
ヴェルナーが、一歩前に出た。
「では、それまで。……ここに、おりますよ」
「————好きにしろ」
三十年ぶりの相棒の返事は、それだけだった。それだけの返事の底で、古い痛みが二人分、同じ高さで鳴っているのを私は聞いた。同じ工房で三十年、別々の答えを抱えて生きた男たちの音は、最後にやっと同じ部屋に戻った。
村への帰り道は、行きの半分の日数に感じた。
帰る場所がある道は短い。レムの工房には鉋の音が戻っていて、それは以前のレンさんの音とは違う、まだ少し揺れる、でもまっすぐ育っていく音だった。手帳の残響は工房の共鳴板に住まいを移して、レムの仕事に相変わらず口うるさい字を書いているらしい。
そしてヴェルナーは、島から十日後に村へ来た。
看取りを終えた人の音がした。それ以上は、誰も聞かなかった。
「——お二人に、お話がございます」
ヴェルナーの話は、三つあった。
一つ。塔の技術の残りを使えば、帰還の枠は二人分に広げられること。
二つ。ただし記憶の条件は変えられないこと。器を世界から引き抜くとき、この世界で編まれた記憶は、編み目ごとほどける。技術ではなく、世界の決まりとして。——ただ、と紳士は静かに付け加えた。記憶は編み目からほどけても、したかった、と強く願われた気持ちだけは、器に染みて残るやもしれません。確約は、できかねますが。
三つ。
「私は、この転送を最後に、消えます」
紳士は、帽子を胸に当てて言った。
「もうお気づきでしょうが、私はとうに、生身ではございません。工房の技術で思念だけを保った、古い残響です。世界を渡る器械を三十年動かしてきた燃料は、私自身でした。お二人を送り届けるぶんで、ちょうど空になります」
「————そんなの」
「良い使い道です」
浮かない声だった。まっすぐ沈んで、底まで澄んでいた。
……呼吸の音は、あった。この人からは出会った日から、ちゃんと呼吸の音がしていた。レンさんが一度も聞かせなかったものを、この紳士は三十年、律儀に鳴らし続けてきたことになる。器の精度の違いか、人のふりの年季か。——どちらでもいい。あの日、私の口ずさんだ旋律に半拍だけ乱れた呼吸を、私は知っている。あれは器械の音じゃなくて、痛みの音だった。
「期日は七日後の夜。それまでに、ご結論を」
立ち去り際、紳士は帽子をかぶりながら、思い出したように付け加えた。
「そういえば——現世のお二人のお住まいは、存外お近くですよ。丘を一つ挟んで、歩いてしばらくの」
丘、と頭の中の帳簿が音を立てた。徒歩圏。日曜の朝。……使える。
その七日を、私たちはよく生きたと思う。
レムと市場を回って、ゼンの十五人に飯を作って、カイに検証データの続きを取られて、内山に最後の診察をされた。クロは私の左を歩いた。新しい音叉の音は日ごとに安定して、もう私の高さと聞き分けがつかないくらいになっていた。
六日目の夕方、私は柊に言った。
「会議。最後の正座会議を、丘でやります」
丘のベンチの横の草の上に、私たちは向かい合って正座した。夕焼けが村の屋根を一枚ずつ塗っていく、レムに教わった時刻に。私は重箱の弁当と、水筒の味噌汁を間に置いた。十割の方を。
「議題は三つ。——一、帰るかどうか」
「帰る、だろ。母ちゃんが待ってる。……座りましょうって、言ってやんないと」
即答だった。私が半年かけて畳んできたものを、この男は一言で棚から出す。
「二、忘れることについて」
これは、即答が来なかった。夕焼けの音だけがしばらく続いた。
「……なあ。ヴェルナーさんが言ってたやつ、ほんとかな。記憶は編み目ごとほどける、けど」
「手順は、身体に残る」
私は頷いた。空っぽの私が、家事を回していた。献立を組んで、掃除をして、洗濯をして。中身がなくても、十年の手順は動いていた。あのとき私はそれが怖かった。私じゃなくてもいいのかと思った。
「——だから、仕込んでいくの」
「仕込む?」
「この一週間、毎日やったでしょ。日曜の朝に弁当を詰めて、味噌汁を水筒に入れて、高いところのベンチまで歩く。身体が覚えるまで反復する。向こうに帰った私は理由を忘れてる。でも日曜が来るたび、手が勝手に弁当を詰めて、足が勝手にベンチを探す。……手順は、身体に残るから」
柊が、目を丸くして私を見た。
「あんたも仕込んだでしょ。九割の味噌汁、この一週間毎朝作ってた。私が十割の作り方をやっと教えたのに、わざと九割で」
「……だって、九割の方が、俺のだし。向こうで飲んで、なんか足りねえなって思ったら——探すだろ、足りないやつを」
欠けた一音の話を、この男は自分の味噌汁でやろうとしている。理屈になっていない。なっていないけれど、私はもう知っている。この男の理屈になっていない話は、だいたい合っている。
「一番怖かったものを、一番の味方にするんだな、お前」
「……そうね。空っぽでも回る手順が、今度は私の側」
「三つ目の議題は」
「約束」
私は背筋を伸ばした。ここからが、本題だった。
「向こうで会えても、私たちは他人です。名前も知らない。半年も、境界線も、白銀も、鈴も、全部ない。だから約束といっても、覚えていられない。それでも——」
「澪」
柊が、正座を直した。
足の甲が、重なっていなかった。膝頭が揃って、背筋が立って、初めて見る正しい正座だった。いつの間に練習したのよ、それ。
「帰ったら言うって言ったやつ、今言っていいか。会議だし」
「————どうぞ」
「帰ったら、もっかい探して、もっかい会って、もっかい始めて——今度は書類なしで、俺と夫婦になってくれ」
夕焼けの、音が止まった。
止まってなんかいないのに、私の耳が、その一言以外の全部を勝手に脇へ置いた。生まれて初めてだった。世界中の音より大きく聞こえる声なんて。
「……覚えてられないのに」
「知ってる。だから今言った。ヴェルナーさんが言ってたろ、記憶は編み目からほどけるけど、したかった気持ちは器に染みるかもしれないって。染みるなら、一番濃いやつを染み込ませとくのが、手順ってもんだろ」
私の手順の言葉で、この男はプロポーズをした。
「————議決」
声が、掠れた。構わなかった。
「全会一致。……可決です」
涙の理由は、今回はちゃんとわかっていた。わかる涙は、初めてちっとも怖くなかった。
転送の夜は、よく晴れた。
丘の上に、みんなが集まった。レムは手帳を抱えて最初から泣いていて、ゼンは笑いながら泣くという器用なことをして、カイは「データは永久保存する。君たちは俺の最良の観測結果だ」と最大級の別れを言った。内山は私の耳に最後の処方を告げた。「向こうでも、ちゃんと眠れ。八割殺して二割残せ。……達者でな、嫁さん」
クロは最後に一声、吠えた。
この世界で二度目の、クロの声だった。私はしゃがんで、その頭に額をつけた。新しい音叉が、私の高さで細く鳴った。この音はもう、この子のものだ。持っていきなさい。私の分まで、長く鳴らしなさい。
ヴェルナーが、器械の中央で私たちを待っていた。
「お預かりした半年を、お返しする時間です。……最後に、一つだけ」
紳士は、帽子を取った。
「私は仮説を立てました。共鳴は二人で分け合えば人を育てる、と。ですが本当のところ、確信はなかったのです。エマを救えなかった技術者の、祈りに近い仮説でした。——あなたたちが、証明でした。あなたたちは、ぶつかって、間違えて、失って、それでも一緒に進んだ。私と彼には、できなかった答えです」
「……ヴェルナーさん」
「お二人の存在の輪郭は、私がこの手でトレースしました。ですからこれは、職人の署名のようなものと思ってお納めください」
紳士は深く一礼した。
「良い人生を。——それで、十分なのです」
器械が鳴り始めた。世界の音が、遠くなっていく。柊の手が私の手を掴んで、私は握り返した。薄れていく視界の最後で、ヴェルナーの輪郭が光の粒になって、夜風に混ざっていくのが見えた。消えていく音は、悲しい音をしていなかった。仕事を終えた職人が、道具を置く音がした。
丘も、村も、みんなの声も、遠く——
最後まで残ったのは、鈴の音だった。
一拍、一拍、正確に。どこまでも、ついてくる——




