お話をしましょう
長い上の空だった、ということになっている。
秋の初めのある朝から、私は半年、どこか薄かったらしい。学校には行っていた。家のことも回していた。成績も落ちていない。なのに呼べば返事が一拍遅れて、笑うところで笑わなくて、目だけがずっと留守だった——と、お母さんは言う。心配されて連れて行かれた病院でも、医者は過労と栄養の偏りがどうとか言ったけれど、検査の数字はどれも綺麗で、首をかしげながらカルテを閉じた。私自身には、その半年の実感がまるでない。ただ、我に返った朝の天井が白いクロス張りで、木目が一枚もないことに、なぜだか少しだけ驚いた。それだけだった。
変わったことはいくつかある。
まず、よく眠れるようになった。昔から物音で三回は起きる質だったのに、今はぐっすり眠れる。理由は自分でもわからない。そういう体質になったのだと思うことにした。
それから、お母さんと、よく座るようになった。
我に返って三日目の夜、私は台所を片付ける手を止めて、居間の真ん中をぱんと叩いた。座りましょう、と言った。自分でもどうしてその言葉が出たのかわからなかった。お母さんは、お茶を淹れる前に少し泣いた。ずいぶん長いこと、言ってあげていなかったらしい。
家のことは、今もやっている。ただ、前とは何かが違う。手順のために回しているのではなくて、回したいから回している。違いを説明しろと言われても困る。味噌汁の味は同じなのに、飲んでいる人間が違う、としか言えない。
説明できないことは、ほかにもある。
私は日曜の朝になると、弁当を詰める。
二人分。
理由は、ない。手が勝手に動く。卵焼きを巻いて、握り飯をきっちり同じ大きさに揃えて、水筒に味噌汁を入れる。詰め終わってから毎回、多いな、と思う。思うのに、次の日曜もまた二人分詰めている。お母さんは「彼氏でもできたの」とからかって、私は「できてない」と答える。事実だ。事実なのに、答えるたび、胸のどこかで何かが軋む。
弁当を持って、私は坂を上る。
家から二十分の、丘の上の小さな公園。町が見下ろせて、木のベンチが一つだけある。半年前までこんな場所を知りもしなかったのに、我に返ってから毎週、足が勝手にここへ来る。ベンチに座って、一人で弁当を食べて、二人分の片方を持って帰る。我ながら、どういう手順よそれ、と思う。
思うのに、やめられない。やめると、閉まらない棚を抱えているみたいな気持ちになる。
その日曜はよく晴れていた。
いつものベンチで弁当を広げて、水筒の蓋を開けたときだった。
坂の下から足音がした。
顔を上げるより先に、弁当を持つ手が固くなった。理由はわからない。まだ姿も見えない。ただの通行人かもしれない。それなのに胸のどこかが、来た、と言った。何が来たのかは、わからないままだった。
会ったことはない。断言できる。こんな顔、忘れるわけがない。
なのに、忘れていた気がした。
身体の奥の方が、この人を知っていると言い張っている。証拠はない。ないのに、譲らない。
足音が公園の入り口で止まった。
坂を上ってきたのは、同い年くらいの男の子だった。知らない制服。盛大な寝癖。間の抜けた顔。手にはコンビニの袋を提げている。
男の子は、ベンチの私を見て固まっていた。
「……あの」
素直そうな声だった。
「俺、たぶん、あなたのこと知らないんですけど」
「……うん。私も、知らない」
「なんか、毎週ここ来ちゃって。日曜の朝だけ。理由とかは、特になくて。で、その、今日、あなたがいて——」
男の子はそこで言葉を切った。切って、自分の頬に手をやって、心底困った顔をした。
「————なんで俺、泣いてるんだろ」
「…………わかんない」
私の声も、濡れていた。
いつからだろう。弁当の上に、ぽたぽたと落ちている。悲しくない。怖くもない。強いて言うなら、半年ぶんの日曜がまとめて帰ってきたような——いや、違う、言葉にならない。ならないまま、涙だけが理由を知っている顔で流れていく。
わからない涙は、怖いはずだった。名前のつかないものは、怖いはずだった。
怖くなかった。
私は弁当の蓋を閉じて、ベンチの隣をぱんと叩いた。
「————座りましょう」
「……え」
「座って。ここ」
男の子は袋を提げたまま、おずおずとベンチに腰を下ろした。距離は、腕一本ぶん。ちょうどいい。最初は、それくらいがちょうどいい。
「お弁当、二人分あるの。理由は聞かないで。私にもわからないから」
「……俺、味噌汁だけはあります。カップのやつ」
「そういうのは味噌汁って言わないの」
「え、厳しくない?」
「厳しいの。飲みなさい、こっちの」
水筒の蓋に注いで、渡した。男の子は一口飲んで、目を丸くした。
「……うまっ。え、なにこれ」
「普通の味噌汁」
「普通のレベルじゃないでしょこれ」
「普通って言ったの。……褒め言葉よ」
言ってから、二人ともなぜだか黙った。今の応酬を、口が覚えていた。台本を読んだみたいに、するすると。男の子が握り飯に手を伸ばして、私はそれが一番大きいのを選んだのを見届けて、町を見下ろした。
風が、丘を上ってきた。
「……ねえ」
「はい」
「お話を、しましょう。長くなるかもしれないけど」
「————はい」
男の子は握り飯を持ったまま頷いた。
「なんか、そんな気がしてました。今日ここ来る時から。……いや、もっと前から、かも」
そこで言葉が途切れた。
男の子は握り飯を持ったまま、自分の言った「もっと前」の中身を探すような顔をした。眉が寄る。探して、見つからなくて、でも何かがそこにある、という顔。
「……こっちの、なんて言うか」
続きは出てこなかった。本人にもわからないらしい。
私は待たなかった。理由はわからない。弁当を詰めるときと同じで、口が先に動いていた。
「三秒あげる」
「え」
「わからないなら、わからないでいい。でも三秒だけ考えて。今の、何」
男の子は目を丸くして、それから律儀に黙って考えた。一、二、三。
「……わかんない。でも、いやなものじゃない」
それで十分だった。訊いて、待って、届かない答えを届かないまま受け取った。
名前を聞いた。日野柊、と言った。神波澪、と私は言った。ふうん、と返しそうになって、やめて、よろしく、と言い直した。よろしくする予定が、今回は最初からあったので。
私たちは話した。学校のこと、家のこと、好きな食べ物のこと、どうして涙が出たのか結局わからないままのこと。会話は驚くほど噛み合わなくて、驚くほど途切れなかった。彼が三つ話す間に私は一つ訂正して、私が一つ聞く間に彼は三つ余計なことを言った。
揃っていなかった。全然、揃っていなかった。
ベンチの上で、二人分の呼吸の音がしていた。拍も深さもばらばらの、二つの音。合っているかどうかは、わからない。確かめる術も、もうない。
わからないまま、私は隣にいた。
揃わないまま、一緒に。
それだけで、十分だった。




