空の管理者
鐘の音が村中の窓に灯りをともしていく。夜空の半分を塞いだ影は月の光を裏から受けて、ようやく輪郭の全部を見せた。
船だった。石造りの村がまるごと三つは載りそうな、鉄と黒でできた飛行戦艦。それが音もなく村の真上に浮かんでいた。あれだけの質量が空気を押しているのに、駆動音がほとんどしない。静かな機械は静かな人間と同じで、ろくなものじゃない。
「澪、レンさんとこ行くぞ。あの人なら状況わかる」
「待って」
私は柊の袖を掴んだ。船の腹の音が変わった。低い開閉音、それから空気の抜ける音がいくつも等間隔に並ぶ。
「何か降ってくる。広場はだめ。裏道から」
言い終える前に、広場の石畳に黒い影が次々と着地した。人の形をした機械だった。関節の駆動音が全部同じ拍で鳴る。呼吸をしない兵隊が二十、三十と整列していく。
そして空から声が降った。
『当該区域に高位共鳴反応を確認した。これより対象の回収を開始する』
若い男の声だった。抑揚がないのではない。抑揚を丁寧に取り除いた声だ。
『住民に告げる。抵抗は非効率である。感情的行動は排除の対象となる。繰り返す。感情的行動は、排除の対象となる』
高位共鳴反応。
その一語が胸の真ん中に刺さった。レンさんの警告が耳の奥で蘇る。聞こえるということは、気づかれ得るということ。いいものは狙われる。
——私だ。この船は、私を取りに来た。
膝から力が抜けそうになった、その手前で、柊の手が私の背中を叩いた。強めに一発。
「顔に出てる。お前のせいとか考えてんだろ」
「……考えてない」
「嘘の音がしたぞ、今の」
「それ私の台詞」
「じゃあお互い様だ。行くぞ」
理屈になっていない。なっていないのに、膝は戻った。
広場に出る手前でレンさんと合流した。片手に工房の大鎚を提げて、もう片方の手でレムとゼンをこちらへ押し出す。
「二人を頼む。避難壕は北の岩場だ。道は三本ある」
「レンさんは」
「掃除だ」
それだけ言って広場へ歩いていく。機械の兵隊が一斉にそちらを向いた。最初の一体が踏み込むより早く大鎚が水平に走って、鉄の胴体が三つまとめて壁まで飛んだ。冗談みたいな光景なのに、レンさんの呼吸はまったく上がっていない。
いや——違う。
上がっていないんじゃない。呼吸の音そのものが、さっきから聞こえない。あれだけ動いて、痛みの音も軋みの音もしない。思えば私は、この人の呼吸を、初めて会った日から一度も拾ったことがなかった。
考えるのは後だ。私は棚に放り込んで蓋をした。
「レム、村の人は普段どの道で岩場に行くの」
「え、ま、真ん中の道。一番広いから」
「今夜はだめ。——ゼン、あんた声大きいでしょ。皆を東の細い道に回して」
「なんで東?」
説明している暇はなかった。でも説明しないと人は動かない。母がそうだった。理由を言われない指示は、不安な夜には届かない。
「機械の兵隊は関節の音が全部同じ拍で鳴る。今、真ん中の道の先に六体いる。西は崖沿いの納屋の梁がさっきからみしみし言ってて、人が走ったら落ちる。東は今のところ、機械の音が一体もない」
ゼンが二秒だけ私を見た。それから何も聞かずに走り出して、あの雑な大声を張り上げた。「東だ! 夫婦さんの指示だ、東の細道!」
……その呼び方はそろそろ何とかしてほしい。
避難は流れ始めた。私は辻に立って耳を澄まし、機械の巡回の拍を数えては、途切れる窓を柊に伝えた。右の路地に三体、次の交差は十二拍後、井戸の陰が死角。柊はその通りに動いて、逃げ遅れた人を窓から窓へ送り届けていく。
荷車の日と同じだった。私が聴いて、柊が動く。ただし今夜は、決定的に違うことが一つある。
今度は私が許可した。私が拍を出している。
勝手に始まる共鳴はあんなに気持ち悪かったのに、自分で振る指揮は、怖くなかった。むしろ手足が増えたみたいだった。この違いの意味を考えるのも、棚の上だ。
列の最後尾が岩場に入りかけたとき、若い母親が悲鳴みたいな声を上げた。
「ミロが、ミロがいない! さっきまで手を繋いでたのに」
五歳の男の子だという。来た道を目で戻りかけた母親をレムが抱き留めた。私は目を閉じた。
夜の音の全部を、いったん机の上にぶちまける。鐘、足音、泣き声、機械の拍、船の低い唸り、風。いらないものを一枚ずつ捨てていく。母親の泣き声を捨てるのが一番難しかった。
——いた。
浅い、必死に殺した呼吸。布か板の下でくぐもっている。方向は南西、パン屋の裏。あの店の床下には芋の貯蔵穴がある。
「柊。パン屋の床下」
「巡回は」
「今、辻を離れた。次に戻るまで四十拍。走って十五、床板剥がすのに十、戻りが十五。——ぎりぎり」
「上等」
柊は走った。私は辻の陰で機械の拍を数え続けた。二十六、二十七。床板の剥がれる音。二十九。子どもの泣き声が夜気に漏れて、心臓が縮む。三十四。二人分の足音がこちらへ。三十八、三十九——
四十拍目に、機械の兵隊が辻に戻った。その三歩手前で、柊は子どもを抱えたまま路地の陰に滑り込んでいた。
ミロが母親の腕に戻ったとき、岩場の入り口で小さな拍手が起きた。ゼンが柊の背中を叩いて笑う。
「お前ら夫婦、化けもんかよ」
「嫁の指揮がいいんで」
柊は息を切らしながら当たり前みたいにそう言った。私に向かってじゃない。ゼンに向かって、事実を告げる声で。
……本人に言いなさいよ、そういうことは。言われたら言われたで困るけど。
夜明け前に、機械の兵隊は引き上げた。壊された分を回収し、整列し、来たときと同じ静かさで船に吸い込まれていった。広場には鉄の残骸と、レンさんが一人で立っていた。大鎚を肩に担いで、傷ひとつなく。
けれど船は、去らなかった。
村の真上に浮かんだまま、あの声がもう一度だけ降ってきた。
『第一次接触を終了する。対象の特定に至らず。——当該作戦は、対象の回収まで継続される』
継続される。つまり、また来る。
岩場の避難壕で、村の人たちは互いに肩を寄せて浅い眠りに落ちていった。誰も死ななかった。怪我人は三人、いずれも軽い。上出来のはずだった。なのに壕の空気は薄く張り詰めたままで、私はその理由を知っている。全員が同じことを考えているからだ。対象って、誰。
夜明けの岩場の縁で、レンさんは一人、空の船を見上げていた。
隣に立つと、聞かれた。
「船の音は、どうだ」
私は目を閉じて、耳を空へ向けた。巨大な駆動音、循環する水音、数百の機械の拍。その全部の奥に——
「……大きい音の奥で、もっと大きい何かが、まだ黙ってます」
「だろうな」
レンさんは空を見たまま、しばらく黙った。それから、静かに言った。
「澪。俺が合図をしたら、何も聞かずに柊とレムとゼンを連れて走れ。方角は俺が手帳に書いておく」
「……なんですか、それ」
「約束だ」
「嫌です。理由を言ってください。理由を言われない指示は」
「届かない、か」
初めてレンさんが少しだけ笑った気がした。音でしかわからない、ほんのわずかな息の緩みだったけれど。
「いい耳だ。——理由は、そのうち手帳が話す」
朝日が船の鉄の腹を赤く染め始めていた。私は返事をしなかった。返事をしたら、約束が成立してしまう気がした。




