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壊れた旋律

その音に初めてちゃんと気づいたのは、夜中の二時ごろだった。

目が覚めた理由がわからなかった。物音はない。柊の寝息はいつも通り、まっすぐで単純。虫の声、風、遠い水音。異世界の夜の音は、もう全部仕分けが済んでいる。

済んでいる、はずだった。

——いた。

仕分けの棚の一番底。ずっと「保留」に放り込んできた、あの音。村に来た最初の夜から、時々夜の底に沈んでいた音。それが今夜は少しだけ水面に近かった。

オルゴールだ、と思った。

ぜんまい仕掛けの、金属の櫛を弾く細くて硬い音。ゆっくりした子守唄のような旋律が、遠くで繰り返されている。

ただし——一音、欠けている。

旋律が上りきる手前で、あるはずの音がない。穴の空いた場所を素通りして曲は次に進み、また最初に戻って、また同じ場所で欠ける。段数を一段間違えた階段を延々と上らされているような。聞いているだけで足の裏がむずむずする。

気のせいだと思いたかった。でも、私は気づいてしまった。

——この旋律が水面に近づいている間、虫が鳴き止んでいる。

私の気のせいなら、虫まで付き合う理由がない。

旋律は明け方前にすうっと沈んで、虫が鳴き出して、私はそれからやっと眠れた。

翌日、弁当を届けるついでに工房でレンさんに聞いてみた。

「夜中に、変な音、聞こえませんか。オルゴールみたいな……一音だけ、欠けてる旋律」

鉋の音が止まった。

レンさんは手を止めたまま、少しの間黙っていた。それから作業台の手帳をちらりと見た。手帳の上に、あの定規で引いたような字がすっと一行増える——ように、見えた。

「……いつからだ」

「はっきり聞いたのは昨日の夜です。でも、たぶん、来た日から。ずっと小さく」

「俺には聞こえない」

意外だった。聞こえる側、なのに。

「だが、いるのは知っている」

レンさんは鉋を置いて、私の方にまっすぐ身体を向けた。この人がこっちに正面を向けるのは初めてだった。

「その音を、追うな。夜に聞こえても、聞こえないふりをしろ。耳で掴み返そうとするな」

「……なんですか、あれ」

「わからん。わからんが——聞こえるということは、向こうからも、聞こえ得るということだ」

背中に細い氷を入れられた気がした。

「管理局に伝えておく。……澪」

名前を呼ばれたのも初めてだった。

「お前の耳は、いいものだ。呪いみたいな顔で使うな。ただし、いいものは、狙われる」

ヴェルナーが村に来たのは、その二日後だった。

「ご無沙汰しております。ご夫婦の生活はいかがですか」

「夫婦じゃないです」

「順調そうで何よりです」

会話が成立しない。この紳士はいつもそうだ。私たちの家の居間で、ヴェルナーは持参した茶葉で優雅にお茶を淹れ(私の台所を勝手に使った。減点)、まず現世の報告をした。

「お二人の現世のお身体は、健全そのものです。日野様は学校に通い、神波様は——」

一拍。

「学校に通い、家事をこなし、お母様とつつがなく暮らしております」

「…………は?」

自分の声が変に平たくなった。

「家事を、こなしてる? 空っぽなのに?」

「ええ。生活の手順は、身体が記憶しておりますので。献立の作成、掃除、洗濯。滞りなく」

湯呑みの中でお茶が小さく揺れた。私の手が揺れたからだ。

……ちゃんと回ってるんだ。あの家。空っぽの私で。

十年かけて組んだ手順は、中身の私がいなくても動くんだ。じゃあ、私があの家でやってきたことって——「私」じゃなくても、よかったってこと?

「澪」

柊の声で我に返った。いつの間にか、テーブルの下で拳を握っていた。

「……大丈夫。続けて」

「一つだけ、違いがございます」

ヴェルナーは湯呑みを置いた。

「お母様が先日、空っぽのあなたに仰ったそうです。『最近、座りましょうって言ってくれないのね』と」

————。

「手順は身体に残ります。ですが、手順ではないものは、こちらに来ています。……本日は、その件でまいりました」

紳士は居住まいを正した。

「神波様。あなたを現世へお帰しする準備が、一枠だけ、整えられます」

「……一枠」

「転送の核が安定して運べるのは、当面、お一人分です。そして帰還の際、この世界での記憶はすべて消えます。技術ではなく、世界の決まりとして」

「なんで、私なんですか」

「あなたの耳が、この世界の『よくないもの』を捉え始めているからです。レン殿から報告を受けました。——聞こえるということは、気づかれ得るということ。私はあなたを、危険が形になる前にお帰ししたい」

「よくないものって、何ですか」

「申し上げられません。ただ」

ヴェルナーは初めて目を伏せた。

「この世界には——感情を、痛みの前触れとして憎む何かが、おります」

沈黙が落ちた。

先に破ったのは柊だった。

「……帰った方が、いいと思う」

見ると、柊はテーブルの木目を見ていた。

「母ちゃんのこと、ずっと気にしてただろ。帰れるなら帰るべきだって。俺は平気だし、ほら、レンさんもいるし、飯も、まあ、自分でなんとかするし。だから、その、いいんじゃねえの。帰れば」

————語尾が、浮いていた。

全部の文の、最後のところが。ふわふわと嘘の音を立てて。

この男は本当に嘘が下手だ。「帰った方がいい」も「俺は平気」も「いいんじゃねえの」も、一個残らず浮いている。まっすぐな音しか出せない喉で無理やり逆向きのことを言うから、そうなるのよ。

……ばか。

私は湯呑みを置いた。音を立てずに、きちんと。それから背筋を伸ばした。

「お断りします」

「澪——」

「私だけ帰るなんて、するわけないでしょ」

自分でも驚くくらい、迷いのない声が出た。

「帰るなら二人で帰る。最初からそういう話でしょ、これ。勝手に二人で連れてこられたんだから、帰りも二人。片方だけ記憶を捨てて先に帰るなんて、そんな——ちゃんとしてない終わり方、私が許さない」

理屈はあとから付けた。本当の理由はもっと単純で、もっと言えない場所にあった。テーブルの木目を見たまま下手な嘘をつく男を置いて帰る選択肢が、私の中に最初から一秒も存在しなかった。それだけだ。

ヴェルナーはしばらく私を見ていた。それから、ふ、と目元を緩めた。

「——そう仰ると思っておりました」

「思ってたなら聞かないでください」

「いいえ。お聞きする必要がありました。ご自分で選んだ、という事実が、この先あなたを支えますので」

引っかかる言い方だった。この先、って何。

帰り際、ヴェルナーが玄関で帽子をかぶったとき、ふと思い出して私は言った。

「そうだ。あの、よくないものの音——旋律なんです。オルゴールの。こういう」

覚えたままを小さく口ずさんだ。ゆっくり上がって、上がりきる手前で一音欠けて、落ちる。

ヴェルナーの手が、帽子のつばの上で止まった。

ほんの一瞬。瞬きひとつ分。でも私の耳は、紳士の呼吸が半拍途切れたのを聞いた。この人の音が乱れたのを聞いたのは、出会ってから初めてだった。

「……その旋律に、聞き覚えが?」

「いいえ」

ヴェルナーは完璧な微笑みに戻っていた。

「どうぞ、レン殿の言いつけを。聞こえないふりを、お上手に。——それでは、良い夜を」

嘘の音はしなかった。この人の嘘は浮かない。まっすぐ沈んで、底が見えない。それが一番こわかった。

その夜。

「なあ」と境界線の向こうから声がした。「怒ってる?」

「何が」

「昼の。帰れって言ったこと」

「怒ってない」

「……嘘だろ。夕飯の味噌汁、しょっぱかったもん」

「気のせいよ。寝なさい」

しょっぱかったのは認める。でも怒ってるんじゃない。あれは——うるさい、とにかく違うの。説明する気はない。

「……澪」

「何」

「ありがとな」

「————寝ろって言ったでしょ」

布団を頭までかぶった。心臓の音が自分の耳にうるさかった。地獄耳も考えものだ。自分の音まで拾ってしまう。

眠りかけた、そのときだった。

虫が——一斉に、鳴き止んだ。

旋律が、来た。

水面どころじゃない。真上だ。欠けた子守唄が夜空全体をゆっくり満たしていく。硬く、細く、巨大に。足りない一音の穴が、村ひとつを丸ごと呑む大きさで、繰り返し繰り返し開いては閉じる。

「柊、起きて」

「——もう起きてる。なんか、やばい感じすんな」

あんたにも感じるなら相当よ。

窓の外で月が翳った。雲じゃない。雲はあんなに硬い輪郭をしていない。あんなに——巨大な、船の形を、していない。

村の鐘が割れるように鳴り始めた。

私たちは同時に立ち上がって、同時に玄関へ走った。打ち合わせはなかった。今は、それでいい。

扉を開けると、夜空の半分が影だった。

「——来る」


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