荷車と、のびた麺
「見るな。聞け」
工房の裏庭に、レンさんの声が飛ぶ。
昼食を届けに来たついでに、私は塀に寄りかかって訓練を見学していた。訓練というより公開処刑に近い。柊が木剣で打ちかかり、レンさんが最小限の動きでいなし、隙だらけの胴に寸止めが入る。もう十四回目だ。数えるつもりはなかったのに、耳が勝手に数えている。
「見てから動くから遅れる。俺の足音と、呼吸と、服の擦れる音。先に動くものは、全部音を出す」
「聞いてますって!」
「聞こえてない。十五」
十五回目の寸止め。柊が地面に転がってうめいた。
……聞こえてない、か。
私には聞こえていた。レンさんが打つ半瞬前、軸足の下で砂利がわずかに鳴く。右に出るときは高い音、左は低い音。だから次は右——と、見学者の私にはわかるのに、打たれている本人にはわからないらしい。
音というのは、そういうものだと思っていた。全部の音は最初から鳴っていて、みんな聞かずに捨てているだけ。私はそれを拾ってしまうだけ。
「休憩」
レンさんが言って、こちらに歩いてきた。弁当の礼を短く言ってから、ふと私を見た。
「お前は、今の、わかっていたな」
「……え」
「打つ前に、視線が先に動く。毎回、正しい方向に」
心臓が嫌な跳ね方をした。誰にも気づかれたことがなかった。気づかれないようにしてきた。音で当てるなんて口にしたら、気味悪がられるだけだから。
「砂利の、音が」
言い訳みたいに小さい声が出た。レンさんは眉ひとつ動かさなかった。
「だろうな。——俺も、聞こえる側だ」
それだけ言って、弁当を持って戻っていった。
聞こえる側。
その言い方を、私は多分一生忘れない。「聞こえる方」でも「耳がいい人」でもなく、聞こえる、側。こちらとあちらに世界を分けて、あなたはこっち、と言われたのは生まれて初めてだった。
事件は、その帰り道に起きた。
村の目抜き通りはゆるい坂になっている。坂の上で、穀物袋を満載した荷車が荷積みの途中だった。車輪の後ろに噛ませた石。荷の重み。老いた車軸。
——みしり。
聞こえた瞬間、全身の産毛が立った。二日前の木材と同じ音。でも今度は比べものにならない重さで、坂の下には水汲みの子どもが三人。
「柊——」
名前を呼んだときには、もう荷車は動き出していた。噛ませ石が弾け、車輪が坂を掴み損ね、荷ごと滑り出す。
そこから先のことを、私は今でもうまく説明できない。
考えなかった。観察しなかった。測らなかった。
私の身体は勝手に坂を斜めに駆け下りて、道端の平石を両手で抱え、滑ってくる荷車の進路——三秒後にそこへ来る場所へ先回りして石を噛ませていた。同じ三秒の間に、柊は荷車の側面に取り付いて車体を斜めに押し、進路を私の石の方へずらしていた。
打ち合わせはゼロ。声もゼロ。
がん、と鈍い音がして、荷車は石に乗り上げ、傾いて、止まった。穀物袋が二つ落ちただけ。子どもたちはきょとんとこちらを見ていた。
一拍おいて、通りが沸いた。
「すげえ! 夫婦さんが止めた!」「息ぴったりだねえ!」「さすが夫婦だ!」
柊が荷車に手をついたまま、こっちを見た。目がきらきらしていた。
「今の、やばくなかった!? 打ち合わせゼロだぜ!? 俺が押すってなんでわかったの、ていうか俺もお前が石持ってくの、なんか、わかった!」
「————」
「澪?」
「……はしゃがないで。荷物、直すの手伝いなさい」
私は先に歩き出した。心臓がうるさかった。荷車のせいじゃない。
気持ち悪かったのだ。
わかってもらえないと思う。完璧に噛み合ったのに。誰も怪我をしなかったのに。村の人は褒めてくれたのに。
でも、あの三秒間——私は、私の許可を取らなかった。
見て、測って、決めて、動く。それが私だ。十年かけて組み上げた、私という手順だ。なのにあの瞬間、手順は丸ごと飛ばされて、身体は誰かの拍子に合わせて勝手に踊った。糸の見えない操り人形が二体、同じ手で振られたみたいに。
境界線を引いても無駄だった。線は床にしか引けない。私と柊の間の、目に見えないどこかが、もう勝手に繋がり始めている。
このまま進んだら——「私」は、どこまで残るんだろう。
薄まる、と思った。溶ける、でもいい。神波澪の輪郭が、「私たち」という大きな液体の中に。
夕方、借りていた工具を返しに一人で工房へ行った。柊と二人でいるのが少しだけしんどかったから。
レンさんは席を外していて、作業台の上に一冊の手帳が開いたまま置かれていた。
見るつもりはなかった。ただ、視界に入った瞬間、違和感が目に刺さった。
同じページに、二種類の字が並んでいた。
一つは、定規で引いたような字。線の太さが全部同じで、間隔が寸分も狂わない、人間離れした字。もう一つは、削るみたいに書く、角ばった乱暴な字。
『左肩の軸が二度ぶれている。修正を推奨する』
『わかってる』
『わかっていない。三日前も同じ指摘をした』
『うるさい』
……会話、していた。紙の上で。
「見たか」
背後で声がして飛び上がった。レンさんが木材を担いだまま立っていた。慌てて謝ろうとした私を手のひらで制する。
「構わない」
「あの……その字」
「相棒がいる」
レンさんは手帳を閉じて、胸ポケットにしまった。
「ずっと、二人だ」
それ以上は何も言わなかった。私も聞かなかった。ただ、帰り道でずっと考えていた。
二人分の字は、最後まで二人分のままだった。綺麗な字は乱暴にならないし、乱暴な字は綺麗にならない。混ざっていなかった。溶けてもいなかった。二つのままで、同じページにいた。
……ああいう形も、あるんだろうか。
丘に寄ったのは、レムに捕まったからだ。
「澪ちゃん、顔が正座してる」
「顔は正座しない」
「してるの。ちゃんとしすぎてる時の顔。——ちょっと来て。いいとこ教えたげる」
連れて行かれたのは、村を見下ろす小さな丘だった。てっぺんに木のベンチが一つだけ。座ると、夕焼けに沈んでいく村が屋根の一枚まで見えた。
「あたしの避難場所。ゼンもレンさんも知らないんだから、光栄に思ってよね」
「……なんで私に教えるの」
「顔が正座してたから」
レムは隣に座って足をぶらぶらさせた。
「あのね、近くなるのって、怖いよ。あたしも昔、レンさんちに入り浸り始めた頃、急に怖くなって三日行かなかったことある。この人がいなくなったら、あたし戻れないかもって」
「……それで、どうしたの」
「四日目に行った。レンさん、何も聞かないで、あたしの椅子をそのまんまにしといてくれてた。……それで思ったの。怖いのは、大事になっちゃった証拠なんだって。順番が逆なんだよ。大事だから、怖いの」
夕日が村の屋根を一枚ずつ、橙色に塗っていた。
大事だから、怖い。
……この子、私より年下のはずなんだけど。
夕食の当番は柊だった。メニューは麺。市場で売っていたうどんに似た太い麺を茹でるだけの、彼の数少ないレパートリー。
湯が沸くのを待ちながら、柊は鍋の前で私に背を向けたまま言った。
「あのさ。明日から、合わせるのやめるわ」
「……は?」
「今日の荷車の、あれ。お前、嫌そうだったから。……別に、あれな、たまたまだし。次からは普通に、えっと、各自でやる感じで」
語尾が浮いていた。たまたまじゃないと、本人が一番わかっている音だった。
私はテーブルの上で手を組んだ。組み直した。……だめだ。言わないと、この馬鹿は本当に明日から一人で荷車に轢かれに行く。
「——合わせられるのが、嫌なんじゃない」
麺が鍋に投入された。
「怖いの。……あの三秒、私、何も決めてなかった。見てもないし測ってもない。勝手に身体が動いた。私はずっと、決めてから動く人間で、それが私で。それが飛ばされると——私が薄まって、『私たち』っていう何かに溶けてく気がして」
言葉にすると余計に怖くなった。でも続けた。
「このまま行ったら、神波澪って、どこまで残るのかなって」
柊は菜箸を持ったまま、しばらく黙っていた。麺が鍋の中で踊っていた。そろそろいい頃合いの音がする。
「……いや、残ってたけど。めちゃくちゃ」
「は?」
「だってあれ、石だぜ? 滑ってく荷車見て、三秒後の位置に先回りして石噛ませるとか、俺、百年考えても思いつかないもん。俺がやったのは押しただけ。バカでもできるやつ。頭のいい方の仕事、全部お前だったじゃん」
柊は振り向いて、菜箸をこっちに向けた。行儀が悪い。
「揃ってなかったよ、全然。俺は俺の動きしてたし、お前はお前の動きしてた。バラバラのまんま、なんか——合っただけ」
「……なにそれ」
「俺に聞くなよ。今考えたもん」
鍋が噴きこぼれた。
麺は、のびた。盛大に。会話の間、誰も火を見ていなかったから。
「……のびてる」
「のびてるわね」
「まずい」
「まずいわね」
「でも食う」
「食べるわよ。当たり前でしょ」
二人でのびてふやけた麺をずるずると食べた。本当にまずかった。今日という日の締めくくりには、なぜだかちょうどよかった。
その夜、布団の中で、昼間の恐怖を取り出してもう一度眺めてみた。
消えてはいなかった。「私が薄まる」の怖さは、まだちゃんとそこにある。レムの言う通りなら、これは大事になり始めた証拠で、だとしたら当分消えないんだろう。
だから捨てなかった。洗濯物みたいにきちんと畳んで、胸の棚の、取り出せる場所に置いた。
手帳の、混ざらない二つの筆跡。同じページ。
……もう少しだけ様子を見てあげる。私が私のままでいられるのか。この、書類上の夫婦とやらがどこまで行くのか。
境界線の向こうの寝息を二十まで数えて、私は眠った。




