座りましょう
翌朝、私は十割の味噌汁を作った。
昨日のが九割だったのは、豆の癖に負けていたからだ。癖の強い味噌は出汁を濃いめにして、火を止めてから溶く。うちではずっとそうしていた。
「……うまっ。え、なにこれ」
「普通の味噌汁」
「昨日の俺のと全然違う」
「普通って言ったでしょ、昨日のも」
「基準どうなってんの、ほんとに」
作り方は教えなかった。理由も言わなかった。あんたが昨日、慣れない鍋で味噌汁を探して作った理由を言わなかったのと同じ理屈よ。
それから数日で、生活には形ができてきた。
朝、私が起きて汁物を作る。柊は工房へ行く。あの夜の直談判が通ったらしく、レンさんに鍛えてもらっているのだ。夕方、あちこちに青あざを作って帰ってくる。夜は当番制の夕食。境界線は健在。ルールは今のところ七つに増えた。
「痛っ、ちょっと、沁みる沁みる」
「動くから沁みるの。じっとして」
その日の柊はいつもよりあざが多かった。頼まれてもいないのに手当てをしているのは、放っておくと絶対に悪化させるからで、他意はない。薬草を挽いたやつ(レムに教わった)を塗り込んでやると、柊は情けない声を上げた。
「レンさんてさ、手加減が正確なんだよ。ぎりぎり折れない強さで打ってくる。逆に怖え」
「やめれば」
「やだ」
即答だった。
「……なんでそこまでするの」
「んー。……なんとなく」
嘘の音がした。まっすぐな音しか出せないくせに、この男は下手な嘘をつくときだけ語尾がわずかに浮く。知ってるのよ。あんたが工房で何て言ったか、私の耳は全部拾ってるんだから。
「ふーん」
とだけ返して、包帯をきつめに結んでやった。「痛っ」。よろしい。
その夜、眠れなかった。
理由はわかっていた。夕方、井戸端で村のおばさんに言われた一言だ。
『あんた、若いのにちゃんとしてるねえ。いいお母さんに育てられたんだね』
悪気なんてひとかけらもない言葉。にこにこと褒めてくれただけの言葉。
なのに、それが小骨みたいに刺さったまま抜けなくなっていた。
……ちゃんとしてる。ええ、してますとも。ちゃんとするのは得意なの。十年やってるから。
布団の中で目を閉じると、うちの台所が浮かんだ。流しの水切りかごと、冷蔵庫の作り置きと、三日分の献立を書いたメモ。仕事から帰ってくるお母さんの、玄関の鍵の音——疲れている日は鍵穴に二回差し損ねる。
……今、あの台所はどうなってるんだろう。
ヴェルナーは言った。現世の私は「空っぽのまま、心身ともに健全な状態で保護されている」と。
空っぽの私。健全な私。
その私は、お母さんの帰りの鍵の音を聞き分けられるんだろうか。
だめだった。考え始めたら止まらなくなった。
私は布団を出て、暗がりの中、境界線のこちら側に正座した。
背筋を伸ばして、膝の上に手を揃えて、目を閉じる。畳(に似た床材)の冷たさが、膝から静かに上ってくる。
——座りましょう。
小さい頃、お母さんがよく言った。家の中がぐちゃぐちゃになった日。お父さんの帰りが遅い、を通り越して、帰ってこなくなり始めた頃。言い争いの声のあとや、電話を切ったあとの長い沈黙のあとに、お母さんは私の手を引いて居間の真ん中に座った。
『座りましょう、澪。ちゃんと座ると、ちゃんと考えられるから』
二人で正座して、温かいお茶を一杯飲む。それだけの儀式。それだけのことで、家の空気が少しだけ呼吸できるものに戻った。
お父さんが完全にいなくなって、お母さんが働き始めて——「座りましょう」を言う人は、いつの間にかいなくなった。お母さんは帰ってくると、座る前に眠ってしまうようになったから。
だから、私が言う側になった。最初の頃は言葉で、いつからか、口には出さないやり方で。ご飯を作って、家を整えて、成績を揃えて、心配の種を一つずつ潰して。私がちゃんとしていればこの家はちゃんと回る。私が崩れなければ、お母さんは崩れない。
十年そうやってきた。
……すり減っておりましたので。
あの紳士の声が耳の奥で再生された。余計なお世話よ。すり減ってなんかいない。ちゃんとやれていた。ちゃんと——
「——何してんの」
境界線の向こうで声がした。
見ると、柊が布団の上に半身を起こしてこちらを見ていた。起こしたらしい。私の耳は他人の音ばかり拾うくせに、自分の立てた衣擦れには無頓着だ。
「……別に。座ってるだけ」
「ふーん」
聞かないんでしょ、どうせ。あんたはいつも線の理由を聞かない。
そう思っていたら、柊はもぞもぞと布団を出て——自分の領域の、境界線ぎりぎりのところに正座した。
「…………何よ、それ」
「いや、なんか。そういう会かと思って」
「会って何」
「座る会」
真顔だった。暗がりの中、青あざだらけの男が、間違った角度の正座で(足の甲が重なってる。それ五分で痺れるやつよ)、背筋だけは律儀に伸ばして線の向こうに座っている。
……なんだか急に力が抜けた。
「————ねえ」
気づいたら口が動いていた。暗いのがいけないと思う。暗いと、音だけの世界になる。音だけの世界は私の庭だ。庭の中でなら少しだけ喋れる。
「私たちって、写しなんだよね。トレース。本物は向こうで寝てる」
「らしいな」
「……向こうの私、空っぽなんだって。空っぽのまま健全に保護されてるって。ねえ、それって——お母さんのご飯、誰が作ってるの」
声が思ったより掠れた。
「うち、母親と二人なの。お母さん、働いてて、私が家のことやってて。私がちゃんとしてれば回る家だったの。なのに、その私が空っぽって——じゃあ今、あの家、誰がちゃんとしてるの」
柊は黙って聞いていた。
「それでね。……最低なこと、言っていい?」
「どうぞ」
「こっちに来て——ちょっとだけ、息がしやすかった。ご飯当番も、線を引くのも、全部自分で決めたことで、誰のためでもなくて。……朝、味噌汁の匂いで起きた日、泣きそうになった。ああ、作ってもらう側って、こんな感じなんだって」
言った。言ってしまった。
「最低でしょ。お母さんのこと放り出して、楽になってるの。しかも私、写しなのよ。楽になってるのは偽物の方で、本物は空っぽのまま向こうにいて——どっちが私なのか、時々わからなくなる」
沈黙。
夜の虫の声と、遠い水の音。線の向こうの正座の男の、規則正しい呼吸。
「——あのさ」
柊が口を開いた。
「難しいことはわかんないんだけど。今ここで、母ちゃんの飯の心配して、罪悪感で眠れなくなって、不安になってるお前は——本物だろ、普通に」
「……なにそれ。理屈になってない」
「なってるよ。だって向こうのお前は『空っぽで健全』なんだろ。心配も罪悪感も不安も、全部こっちが持ってきてんじゃん。荷物ぜんぶ持ってる方が、本人に決まってんだろ」
荷物ぜんぶ持ってる方が、本人。
……市場で頼んでもいないのに袋を全部持った男の言うことは、変な説得力があった。
「それに、楽になったのは悪いことじゃないだろ。十年ちゃんとしてたんなら、なおさら」
「……十年って言った? 私」
「言った。今」
「忘れて」
「無理。俺、肝心なことだけは覚えるタイプなんで」
知ってるわよ、そんなこと。とっくに。
私は伸ばしていた背筋を少しだけ緩めた。正座のまま、ほんの少しだけ。十年ぶんの姿勢のうち、一ミリくらいを。
「……あんた、足、痺れてるでしょ」
「よくわかったな!? もう限界。この会いつ終わるの」
「会議よ」
「え?」
「こういうのは会議って言うの。正座会議。……お開き。寝なさい」
「はい、議長」
柊は痺れた足で立ち上がろうとして盛大に転んだ。境界線ぎりぎりで踏みとどまったのは褒めてもいい。
布団に戻って目を閉じる。
台所の映像はまだ胸の奥にあった。お母さんの鍵の音も消えてはいない。帰る方法もわからないし、私が本物だという保証も、本当はどこにもない。
何も、解決していない。
なのに——ちゃんとしなかったのに、崩れなかった夜が、初めてあった。
境界線の向こうから、もう寝息が聞こえる。まっすぐで、裏のない、単純な音。
その音を三十まで数えたところで、私も眠った。




