音が違う人
異世界二日目の朝は、味噌汁の匂いで始まった。
正確には、味噌汁に限りなく近い何かの匂いで。
「起きたか。……その、飯」
境界線の向こうで、柊が鍋を持ったまま気まずそうに立っていた。当番は言い出した私が初日を務めるつもりだったのに、先を越された。しかも。
「……なんで味噌汁があるの」
「市場のばあちゃんが、豆を発酵させた茶色いやつ売っててさ。匂いが完全にあれだったから」
椀を受け取って一口。……味噌汁だった。九割がた味噌汁だった。残りの一割は知らない甘みだったけれど、その一割を差し引いても、目の奥が急に熱くなるくらいには味噌汁だった。
「……まずい?」
「……普通」
「普通か〜」
「普通って言ったの。褒め言葉よ」
「どこがだよ」
普通がどれだけありがたいか。知らない世界の二日目に飲む「九割の味噌汁」がどういうものか。説明する気はないので、私は黙って飲み干した。おかわりはしなかった。したかったけど。
「今日、買い出し行くから。夜は私が作る。リクエストは」
「なんでもいい」
「はい減点」
「なんで!?」
「『なんでもいい』が一番困るの。考える仕事をこっちに全部投げてるだけでしょ。三秒あげるから具体的に言いなさい」
「え、えっと……肉?」
「肉ね。了解」
「今の合格なの? 基準どうなってんの」
「具体的だったから」
ルールその四。献立の希望は具体的に言うこと。知らない世界に、私の知っている形のものがまた一つ増えた。
買い出しには、レムが付いてきてくれた。
「夫婦さん、市場は初めてでしょ。案内したげる」
「夫婦じゃないです」
「はいはい」
流された。この子の「はいはい」は聞き流しの音ではなくて、面白がっている音だ。……音で人の腹の中がわかるなんて言ったら気味悪がられるので、これも黙っておく。私は昔から、そういうのが少しだけわかりすぎる。
市場は思ったより賑やかだった。見たことのない紫の根菜、鶏より一回り大きい鳥の肉、量り売りの穀物。レムが店ごとに相場を耳打ちしてくれて、私は財布(ヴェルナーが置いていった当面の生活費。受け取るのは癪だったが、飢えるのはもっと癪だ)と相談しながら、夜の献立を組み立てていく。
柊は終始荷物持ちだった。頼んでいないのに袋を全部持つし、頼んでいないのに、いつの間にか道の外側を歩いている。
……いつの間にか、外側を。
たまたまだろう。荷物のバランスの問題とか、そういう。私は気づかなかったことにして、紫の根菜を一本追加した。重くしてやった。
「ね、澪ちゃんたち、帰りに工房寄ってかない?」
レムが言った。
「机とか棚とか、生活の道具、あそこで直してもらえるの。新入りの挨拶もしといた方がいいし——それに」
にっ、と笑う。
「レンさん、見とく価値あるよ」
工房は村外れにあった。石壁に木の梁、開けっ放しの大きな扉の建物だった。中から、木を削る音と金属を叩く音がしていた。
その音を聞いた瞬間、足が止まった。
——音が、違う。
木を削る音が濁らない。同じ厚さで同じ速さで、鉋の走る音がずっと揃っている。金槌の音は打点が一度もぶれない。人間の出す作業音というのは呼吸や疲れで必ず揺れるものなのに、この工房の音には揺れがなかった。綺麗すぎて、少しだけこわいくらいに。
「? どうした」
「……別に」
扉の奥に、その人はいた。
背の高い男の人だった。歳は二十代の半ばくらい。無造作な黒髪に、袖をまくった作業着をまとっている。大きな木材を軽々と担いで、こちらに気づくと静かに下ろした。
「レンさん! 新しい夫婦さん連れてきた!」
「夫婦じゃないです」と言いかけた私より先に、レンさんはただ頷いた。
「レンだ」
それだけ。よろしくも、どこから来たのかも、なし。なのに不思議と突き放された感じがしなかった。無駄な音を出さない人なのだ、たぶん。話し方まで鉋の音と同じだった。
そういえば、この人の呼吸の音を、私はまだ一度も拾っていない。静かな人は呼吸まで静かなんだろう。——そのときは、それだけの話だと思っていた。
「机の脚がガタつくんです。あと、棚を一つ」
「見る。持ってこい。……いや」
レンさんは私たちの荷物を一瞥して、
「届ける。場所は聞いてる」
「え、いいんですか」
「ついでだ」
会話の燃費が良すぎる。柊が小声で「かっけえ……」と漏らした。気持ちは少しわかる。悔しいけれど。
事故は帰り際に起きた。
工房の脇に立てかけてあった木材の束。その結び縄が緩んでいるのが見えたわけじゃない。聞こえた。繊維が一本ずつ切れていく、みしりという嫌な音の連なり。
まずい、と思ったときには、束が私たちの方へ倒れかかっていた。
私は——動けなかった。正確には、動かなかった。倒れる角度、速さ、届く範囲。見て、測って、右に二歩、と結論が出るまでの一瞬。私の身体はいつもそうやってまず観察してしまう。
その一瞬の間に、二つのことが同時に起きた。
レンさんが片手で木材の束を受け止めた。何百キロあるかわからない束を、片手で。音もなく。
そして柊が、私の前に半歩だけ出ていた。
「……っぶな。大丈夫か?」
「……別に。当たってない」
「そっか」
柊はそれだけ言って、何事もなかったように荷物を持ち直した。レンさんは木材を積み直しながら、縄の切れ端を一瞥して少しだけ眉を寄せた。
私は自分の心臓がうるさいのを聞いていた。木材のせいだ。そういうことにした。
「レンさんね、この村の守り神みたいな人なんだ」
帰り道、レムが言った。
「力持ちで、なんでも直せて、無口で。あたしとゼンは、半分あの人に育てられたみたいなもんだから」
「ご家族は」
「いない。ずっと一人。……でもね」
レムは前を向いたまま、少し声を柔らかくした。
「一人でいる人の背中と、一人が平気な人の背中って、違うでしょ。レンさんは平気なほう。あたしが隣で喋ってても、黙ったまんまなんだけど、ちゃんと『いていい』って背中してるの」
……この子は、音じゃなくて背中で聞くタイプらしい。少し敵わないなと思った。
言葉がなくても成立している距離、というものを、私はあの工房で初めて見た気がする。レムが道具を勝手に片付けて、レンさんが黙って場所を空ける。指示も礼もない。なのに二人の立てる音は綺麗に噛み合っていた。
いいな、とは思わなかった。……思わなかったったら、思わなかった。
夕食(肉。リクエスト通り)のあとで、忘れ物に気づいた。市場で買った鍋敷きの包みを、工房のあの騒ぎで置いてきたらしい。
「明日でいいだろ」
「気になるから寝られない。すぐそこだし」
歩いて数分の距離だ。夜の村は静かで、家々の窓に灯りがぽつぽつと灯っていた。工房にもまだ灯りがある。よかった、と扉に近づいて——
声が、聞こえた。
「——昼間の。なぜ先に動いた」
レンさんの声。それから柊の声。
……なんで柊がここにいるのよ。
「え、俺すか。……癖です」
「癖?」
ノックしようとした手が止まった。盗み聞きはちゃんとしていない。わかっている。わかっているけれど、私の耳はこういうとき勝手に音を拾う。壁越しでもはっきりと。
「あいつ、危ないときほど動かないで観察するんですよ。……たぶん頭がいいから、まず見て、測っちゃう。それ自体はすごいと思うんです。けど、測ってる間って、無防備じゃないですか」
「————」
「だから、その三秒ぶん。俺が前にいればいいかなって。それだけです」
「本人は知ってるのか」
「言わないっすよ。言ったら怒るんで。『勝手に守るな』って。……まあ、勝手に守るんですけど」
沈黙。それからレンさんの声がした。
「————覚えとく」
短い返事なのに、なぜだか合格と聞こえた。
「あ、それより俺、頼みがあって来たんです。あんたみたいに動けるようになりたくて。鍛えてもらえませんか。……ほら、書類上とはいえ、夫婦なんで。倒れられると、困るんで」
書類上とはいえ、って何。倒れられると困る、って何。
私は音を立てないように三歩下がって、回れ右をして、家まで歩いて帰った。鍋敷きは明日でいい。明日でぜんぜんいい。
布団に入っても目が冴えていた。
境界線の向こうはまだ空だ。あの馬鹿は工房で頭を下げている。
——動かないで観察する、か。
初対面から二日の男に、私の一番深い癖を言い当てられていた。親にも友達にも、気づかれたことがなかったのに。しかも本人には言わない、ときた。言ったら怒るから。……ええ、怒るわよ。当たり前でしょ。勝手に人の前に立って、勝手に半歩ぶんの覚悟を決めて、勝手に。
……観察してたのは、どっちよ。
耳がいいのも考えものだ。聞かなければ、今夜は普通に眠れたのに。
しばらくして、玄関の戸が控えめに開く音がした。忍び足のつもりらしい足音が、境界線の向こうで布団に潜り込む。三十秒で寝息に変わった。単純な音だ。裏も揺れもない、聞いていて拍子抜けするくらいまっすぐな音。
……明日の朝は味噌汁を作ろうと思った。九割じゃない方の作り方を、私は知っている。




