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知らない天井と、契約結婚

目が覚めた瞬間、私はまず天井の木目を数えた。

数えられるということは、落ち着いている。落ち着いている場合ではないのに。

薄い飴色の板が七枚。うちの天井は白いクロス張りだから、七枚どころか一枚もない。つまりここは私の部屋ではない。匂いも違う。柔軟剤ではなく、乾いた木とどこか甘い花のような匂い。

そして——呼吸の音が、二つあった。

一つは私の。もう一つは、私のものではない。低くて規則的で、無防備な寝息。

首だけ動かして横を見た。

同じベッドの、同じ掛け布団の端に、知らない男が寝ていた。幸い、距離はある。腕一本ぶんの空白を挟んで、あちらは壁の方を向いて呑気に眠っている。

——三秒だけ、状況を整理する時間をください。

一、ここは私の部屋ではない。

二、この寝息は私のものではない。

三、それなのに私は、悲鳴より先に天井の木目を数えていた。

三番の自分が一番こわい。整理は終了。私は悲鳴を上げた。

「きゃああああああああ!?」

我ながら反応が一拍遅かったと思う。でも音量で取り返した。跳ね起きた男がこちらを振り向いた瞬間、反射で平手も飛ばした。乾いた手応え。よし。

「痛っ!?」

私は布団ごと暴れて、その身体をベッドの外へ蹴り落とした。どさ、という着地音まで確認してから布団を胸元まで引き上げ、部屋の隅まで後退する。距離、確保。

「痛っ! ちょ、待っ、落ち着いて!」

「なんであんたがいるの!?」

「それはこっちの台詞だって!」

「なんで同じ布団!?」

「知らないよ!」

「最低!」

「理不尽だろ!」

理不尽なのは百も承知だった。でも、こういうときは先に大きな声を出した方が主導権を握れる。……握れたところで、この状況の何が改善するのかはわからなかったけれど。

床に転がったままの男を改めて観察する。たぶん同い年くらいで、盛大な寝癖に間の抜けた顔。凶悪さはない。というより、この男自身がいちばん混乱している顔をしていた。

「……誰よ、あんた」

「だから俺も知らないって。ていうかここどこだよ」

「知らない。こっちが聞きたい」

「俺んちじゃないのは確かだけど!」

「私の部屋でもない!」

そこで二人とも黙った。部屋を見回す。

木の壁に小さなテーブル、窓辺には見たことのない白い花。ベッドは一つ。扉も一つ。……ベッドは、一つ。

情報を並べるほど状況が悪化していく。珍しいことだった。私は昔から、並べれば大抵のことは落ち着く側の人間だったのに。

「……夢?」 男が呟いた。

「そうならあんたを殴っても無罪ね」

「夢判定の基準おかしいだろ」

「じゃあ現実。もっと最悪じゃない」

男は反論しなかった。正しい判断だと思う。

そのとき、こんこんと上品なノックの音がした。

……その音を私は知っていた。正確には、その上品さを知っていた。

昨夜——だと思う。眠りに落ちる直前、夢の中で声を聞いたのだ。

『少しだけお力をお借りしたいのです』

白い靄の向こうに、白髪の紳士が立っていた。細い目で柔らかく微笑んで。

『あなたという存在の輪郭を、異世界でトレースさせてください。見返りに、現世のあなたは心身ともに健全な状態へ導かれます』

意味は半分もわからなかった。ただ、あまりにも丁寧な声だった。丁寧なものに私は昔から弱い。丁寧なものは、ちゃんとしているから。断り方がわからなくて、寝ぼけた頭のまま頷いた。

頷いて、しまった。

扉が開いた。

夢と寸分違わない紳士が、朝の光を背負って立っていた。仕立てのいい灰色のスーツに年齢の読みにくい整った顔、そして完璧な微笑みを浮かべていた。

「おはようございます」

「あんた!」「夢の人!」

声が隣の男と綺麗に揃った。……揃ってしまった。朝から嫌な予感がする。

「おめでとうございます。お二人とも、無事にこちらの世界へ定着されたようですね。私はヴェルナーと申します」

「待ってください」「ちょっと待ちなさい」

また揃った。もうやめてほしい。

「俺、昨日たしか自分の部屋で寝てただけなんですけど!?」

「私は学校から帰って普通に寝ただけなんだけど!?」

「なのにどうして知らない部屋で」「知らない男と」「同じ布団で」「寝てるのよ!?」

最後だけ、また揃った。ヴェルナーは微笑ましいものでも見るように目を細めた。

「ええ。お二人とも大変よくお似合いです」

「はあ!?」「は!?」

「ふざけないでください! 言ったのは異世界で存在をトレースする、でしょ! なんで自我まで来てるの!」

「現世のあなた方を、心身ともに健全にする、とも申し上げました」

「……は?」

「今のあなた方の自我は、現世においていささか不健全にすり減っておりましたので。こちらへ避難していただいた次第です。現世のお身体は、空っぽのまま大変健全な状態で保護されております」

「詐欺だろそれ!!」「詐欺でしょ!!」

「おや、騙してはおりません。説明は正確でした」

「正確なら何してもいいと思ってる!?」

「いいえ。思っておりませんよ」

「絶対思ってる!」

言い返しながら、頭の隅でさっきの一言が妙に引っかかっていた。

——すり減っておりましたので。

心当たりなんてない。私はちゃんとやっていた。学校も家のことも、全部ちゃんと。……ちゃんと、やっていたはずだ。

「落ち着けるわけないでしょ!」

怒鳴ってから、自分の声が思ったより震えていることに気づいた。

だめだ。これはよくない。

怖いときほど、私は手順に頼る。頭の中に散らばったものを一列に並べ直す。目を閉じて息を一つ。それからベッドの端をぱんと叩いた。

「……座って」

「え?」

「座れって言ってんの」

男は面食らった顔でヴェルナーを見た。紳士は微笑んでいるだけで、助ける気は皆無らしい。男は諦めたようにベッドの端に腰を下ろした。私は反対側にきっちり距離を空けて座る。腕を組んで足を床に揃える。

指を一本立てた。

「確認する。私とあなたは昨日まで他人」

「うん」

「今は知らない部屋にいる」

「うん」

「しかも同じ布団で寝てた」

「……うん」

「最悪ね」

「そこは同意する」

一つ数えるたびに、指先の震えが少しずつ引いていく。よし。まだ動ける。

「次。あの人は信用できない」

「うん」

「でも状況を説明できるのは、たぶんあの人だけ」

「……それも、うん」

「つまり」 息を短く吸う。「話を聞くしかない」

男が妙な顔で私を見ていた。

「すごいな。ちゃんとしてる」

「当たり前でしょ」

褒められる筋合いはない。ちゃんとするのは、そうしないと崩れるからだ。——なんてことは言わない。

「いや、さっきまで俺を蹴ってたから」

「それは蹴るでしょ」

「理不尽だなあ」

「理不尽なのは全部そっちよ!」

「お二人とも、実に息が合っていらっしゃる」

「合ってません!!」

見事なくらい揃った。私は天井を仰ぎたくなった。七枚の木目が憎らしいほど整然と並んでいた。

ヴェルナーの説明の要点は三つだった。

一、ここは異世界である。

二、私たちは現世から存在をトレースされ、この世界へ移送された。

三、当面はとある村に滞在し、生活を送るよう手配してある。

問題は四つ目だった。

「ただし、お二人には『夫婦として』暮らしていただきます」

……ふうふ。

一瞬、言葉が頭に入ってこなかった。それから遅れて、胃の奥がすっと冷えた。

「なんで夫婦なんですか」

男が聞いた。ヴェルナーは微笑んだまま答える。

「相性の問題です。お二人の組み合わせは、この世界で非常に効果的に機能する。それに、身寄りのない若い男女が単独で暮らすより、夫婦という形をとった方が村への溶け込みもスムーズです」

「意味がわかりません」

「追々、ご理解いただけるかと」

「今わかりません」

「今は生活に慣れることが最優先です」

のらりくらり。私は紳士の顔をまっすぐ見た。丁寧で、綺麗で、完璧な微笑み。

完璧すぎる。完璧なものはたいてい、何かを隠すために完璧なのだ。

隣を見ると、男もこちらを見ていた。

(信用できないな)

声には出ていない。なのに、そう言ったのがわかった。たぶん私も同じ目をしていたからだ。

「……澪」

気づいたら名乗っていた。男が「え?」という顔をする。

「名前。神波(かみなみ)澪《みお》」

どうせ一緒に放り込まれたのなら、呼び方くらいはこちらで決める。「ねえ」とか「あんた」で始まった関係は、たぶんずっと「ねえ」と「あんた」のままになる。それはちゃんとしていない。

「……柊。日野(ひの)柊《しゅう》」

「ふーん」

それだけ返した。ありがとうも、よろしくもない。よろしくする予定は今のところないので。

村へ向かう馬車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。

山の稜線の角度を知らない。空の青が少しだけ濃い。雲の流れる速さが違う。……本当に、ここは私の知っている世界ではないらしい。

並べても、今日は落ち着かなかった。

「……あの紳士のこと、信用してないよな」

柊が言った。

「当然でしょ。でも今は動きようがない」

「夫婦設定の理由、あれだけじゃないと思う」

「絶対ある」

意見が噛み合った。癪だけど。

それから少しだけ黙って——気づいたら口が動いていた。

「……帰れると思う?」

自分でも驚くくらい小さい声が出た。

「帰る。絶対」

即答だった。

「根拠は」

「ない。でも帰る」

「………」

根拠がない。最悪の答えだ。計画もなければ手順もない、ただの気合。採点するなら零点。

なのに——胸のいちばん硬くなっていた場所が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

馬鹿の言うことに安心するなんて、私もだいぶ参っているらしい。私は窓の外へ向き直って唇を引き結んだ。

案内された村は、石造りの家が斜面に並ぶ穏やかな場所だった。

馬車を降りると、栗色の髪を後ろで結んだ女の子が駆け寄ってきた。

「あ、来た! 新しい夫婦さんだ!」

夫婦さん。その単語に私と柊は同時に固まった。

「レムです! よろしくね」

「夫婦じゃないです」

「夫婦でも、知り合いでもないです」

「ふうん」

レムはあっさり流した。

「でも管理局から夫婦として登録されてるから、まあそういうことにしといてね。村の人にも説明済みだし」

登録。説明済み。……外堀という外堀が埋まっている。悲鳴より先にため息が出た。

「なんで夫婦なんだよ」

少し離れたところで、ぼさぼさ髪の少年が腕を組んで笑っていた。ゼンというらしい。

「まあ、こっちの世界あるあるだよ。管理局の言うことは半分くらい意味わかんないから。死なない程度に頑張って」

励まし方まで雑な世界だった。

案内された家は小さかった。居間と台所と、部屋が一つ。

部屋が、一つ。

「……部屋が一つ」

柊が確認するように言った。私は口を一文字に結んで荷物を床に下ろした。

……いい。もう、いい。

天井が知らないのも、世界ごと知らないのも、夫婦として登録されているのも、部屋が一つなのも、全部いい。今の私にどうにかできることは、この部屋の中のことだけだ。なら、この部屋の中だけはちゃんとする。

台所から細い炭を持ってくる。床の真ん中にすうっと一本の線を引いた。まっすぐに。部屋をきっかり半分に分ける線を。定規が欲しかった。

「こっちが私の領域。そっちがあんたの。越えてきたら承知しない」

「いきなり領土宣言かよ」

「文句ある?」

「……ないです」

敬語になった。よろしい。

線を引き終えると、震えそうだった手がちゃんと止まっていた。

線なんてただの炭の粉だ。またげば越えられるし、守ってくれるものなんて何もない。それでも——世界のすべてが知らない場所になった日に、「ここからここまでは自分の場所だ」と決められるものが一本あるだけで、呼吸の仕方を思い出せる。

……なんて説明する気はもちろんない。怒っている几帳面な女と思われている方が、いろいろと楽だ。

荷物を自分の領域にきっちり並べ終えてから聞いた。

「……ご飯は作れる?」

「インスタントと、簡単な炒め物くらい」

「私の方がたぶん作れる。交代でやる。食べた方が片付ける。文句は言わない。それだけ」

「……了解」

「返事が遅い」

「了解!」

「よろしい」

これでルールが三つできた。境界線と、食事当番と、文句禁止。

知らない世界に、私の知っている形のものが三つ増えた。悪くない滑り出しだと思うことにする。

その夜。

自分の領域に敷いた布団に入って目を閉じた。

眠れる自信はなかったのに身体は正直で、意識はすぐに重くなり始めた。考えてみれば、人生でいちばん長い一日だった。知らない天井で目覚めて、悲鳴を上げて、契約結婚をさせられて、領土を宣言した。……字面にするとひどい。

境界線の向こうで、布団の擦れる音がした。それから、天井でも見ているらしい沈黙。

そういえば、と思う。

あの男は、線を引いた私を笑わなかった。文句は言った。「領土宣言かよ」とも言った。でも——なんで線なんか引くんだとは、一度も聞かなかった。

雑な男だ。返事は遅いし、朝は蹴り落とされるし、根拠もなく「帰る」と言い切る。

なのに、聞かれたくないことだけは聞いてこない。

……偶然だろう。きっと何も考えていないだけだ。そういうことにしておく。

遠くで虫が鳴いている。風の音。どこかの家の戸が閉まる音。知らない世界の夜の音を、私は一つずつ頭の中で仕分けていった。虫、風、木、水。並べていくと少しだけ眠くなる。

その一番底に一つだけ、仕分けられない音があった。

低くて、遠くて、何かが——欠けているような。

考える前に、眠りのほうが先に来た。

境界線のこちら側で、私は目を閉じる。明日の朝ごはんの献立を三つまで考えたところで、意識は途切れた。


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