第7話「元侯爵令嬢、猫を説得する」
乗合馬車が、リーベルの大きな石造りの門をくぐった。
エルドランの隣にあった小さな町とは、まるで違う。
荷馬車が土ぼこりを上げ、旅人や商人、重装備の冒険者たちが大通りを行き交っている。
人の声、馬の足音、屋台の呼び込みが、あちこちから重なって聞こえてきた。
窓からその光景を眺め、リオは目を見開いた。
『人が多い』
通りには、数え切れないほどの屋台が並んでいる。
『馬車も多い』
さらに、香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。
視線の先では、串焼き屋台から煙が上がっている。
リオの視線が、自然とそちらへ吸い寄せられた。
『串焼き屋も……多い』
馬車が広場に止まり、御者が大声を上げた。
「リーベルだ。降りる奴は荷物を忘れるなよ」
リオは馬車から降りた。
長旅で少しだけ足元がふらついたが、すぐに何事もなかったように背筋を伸ばす。
その様子を見ていた御者が声をかけた。
「坊主、リーベルは初めてか?」
リオは真顔で答える。
「初めてではない」
「そうなのか?」
リオは堂々と胸を張った。
「地図で見た」
御者は一瞬黙り込み、それから苦笑した。
「それは初めてって言うんだよ」
「確認済み、という意味だ」
少しだけ目をそらすリオに、御者は呆れたように荷物を渡した。
「はいはい。確認済みの初めてな」
「世話になった」
「気をつけろよ。リーベルは小さい町より人が多い。迷うなよ」
「迷わない」
少しむっとして答えるリオに、御者が笑う。
人波であふれるリーベルの通りへ、リオは歩き出した。
混み合う通りの中で、リオの背筋だけが妙にまっすぐだった。
*
宿屋が並ぶ通りには、大小さまざまな看板が並んでいた。
旅人たちが出入りし、荷物を運ぶ人が忙しそうに走っている。
リオは通りを歩きながら考えた。
『旅の者なら、まず宿を確保する』
手頃そうな一軒の宿屋の前で足を止める。
看板には「三羽鴉の宿」と書かれていた。
中に入ると、受付の男が帳簿に何かを書き込んでいる。
「一泊したい」
宿屋の主人が顔を上げた。
「素泊まり銅貨十二枚。お湯は桶一杯で銅貨四枚だ」
リオは固まった。
「高い」
「町が大きいからな」
リオは真剣な顔で考え込んだ。
「町が大きいと、お湯も高くなるのか」
主人が少し笑う。
「まあ、だいたいそんなもんだ」
リオは小さく息を吐いた。
「……都会は厳しい」
「それでも泊まるか?」
「泊まる」
リオは鍵を受け取った。
「二階の奥だ。荷物は自分で持っていけよ」
「分かった」
部屋は、ベッドと机だけの小さな部屋だった。
窓からは、にぎやかな通りが見える。
リオは荷物を机に置き、一つ頷いた。
『宿は確保したわ』
懐から登録札を取り出し、表面のEの文字を確認する。
『次は、ギルドね』
*
リーベルの冒険者ギルドは、前の町とは比べものにならないほど大きかった。
大きな依頼掲示板。
いくつも並ぶ受付。
広い酒場。
そこには、大勢の冒険者が集まっていた。
リオが扉を開けて入ると、近くにいた冒険者たちがちらっと視線を向けた。
美しい顔立ち。
華奢な少年。
安い男物の服。
だが、背筋だけは不自然なほどまっすぐだ。
少し目立ったが、冒険者たちはすぐに興味を失い、酒や依頼書へ視線を戻した。
リオは堂々とした足取りで受付へ向かう。
「こんにちは。ご用件をどうぞ」
笑顔で迎えた受付嬢の前に立ち、リオは登録札を両手で丁寧に差し出した。
「移動登録を頼む」
受付嬢が登録札を受け取る。
「E級冒険者のリオさんですね。前の町からの移動ですか?」
「そうだ。旅の者だからな」
受付嬢は登録札を確認しながら、ふとリオを見た。
「旅の方でしたか。ずいぶん丁寧ですね」
「普通だ」
「普通のE級冒険者は、登録札を両手で差し出しませんよ」
リオは少し首を傾げた。
「大切なものだろう」
受付嬢は少し困ったように笑った。
「それは、そうですが」
手続きはすぐに終わった。
「はい。これでリーベルでも依頼を受けられます。E級向けの依頼は、あちらの掲示板です」
「ありがとう」
リオは登録札を受け取り、掲示板へ向かった。
巨大な掲示板には、たくさんの依頼書が貼られている。
討伐。
護衛。
採取。
運搬。
雑務。
リオは真っ先に討伐依頼の欄を見た。
しかし、そこに並んでいるのはC級やD級ばかりだった。
視線を下げ、E級欄を見る。
荷運び。
倉庫整理。
薬草採取。
迷子猫探し。
馬小屋掃除。
リオの表情が少し沈んだ。
「討伐依頼は」
いつの間にか横に来ていた受付嬢が説明する。
「E級向けは少ないですね。リーベル周辺は、町の近くに弱い魔物があまり出ませんので」
「そうか」
リオの表情が、少しだけ沈む。
「残念そうですね」
「私は剣士だからな」
「剣を使う依頼を探していたんですか?」
「そうだ。剣で人々の役に立ちたい」
受付嬢が少しだけ困ったように笑う。
「その気持ちは立派ですが、E級のうちは地道な依頼も大事ですよ」
「地道な依頼」
リオは掲示板へ視線を戻した。
そこで、一枚の依頼書に目が止まる。
『迷子猫探し。白い猫。名前はミルク。南市場周辺。報酬銅貨十五枚』
リオは依頼書をじっと見つめた。
「猫の捜索」
「はい。E級でも受けられます」
リオは迷わず依頼書を剥がした。
「これを受ける」
受付嬢が少し驚く。
「いいんですか?」
「命を預かる依頼だ」
真剣に答えるリオに、受付嬢は一瞬黙った。
そして、柔らかく笑う。
「……そうですね。大切な依頼です」
「任せてほしい」
受付嬢が依頼書に受付印を押した。
「では、南市場周辺を探してください。白い猫で、首に赤い紐がついています」
「白い猫。赤い紐。名前はミルク」
「見つけたら、依頼主の雑貨屋さんへ連れて行ってください。南市場の角にあります」
「分かった」
依頼書を懐にしまい、リオはギルドを出ていった。
受付嬢はその小さな背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「……本当に、真面目な人ですね」
*
昼過ぎの南市場。
魚屋、野菜屋、布屋などの露店がぎっしり並び、客と商人の声が飛び交っていた。
リオは依頼書を確認しながら歩き、一軒の魚屋の前で足を止める。
桶には、新鮮な魚が並んでいた。
「失礼」
「なんだい、兄ちゃん」
リオは依頼書を見せた。
「白い猫を見なかったか。首に赤い紐をつけている」
魚屋は少し考え込んだ。
「白い猫? ああ、魚くわえて逃げたやつか?」
リオの表情が、一気に真剣になる。
「盗みを働いたのか」
「ぶはっ! 猫だからな」
「罪に問われるのか」
さらに真剣に尋ねるリオに、魚屋は腹を抱えて笑った。
「問わねえよ。魚の切れ端くらいで役所に突き出してたまるか」
リオは少し安心したように胸を撫で下ろす。
「そうか」
「そこの細い道に入ってったぞ。屋根の方に逃げたかもな」
魚屋が路地を指さす。
リオは丁寧に頭を下げた。
「助かった」
「猫探しでそんな礼を言われたのは初めてだな」
「情報は重要だ」
「真面目な兄ちゃんだ」
まだ笑っている魚屋を残し、リオは細い路地へ向かった。
*
細い路地には木箱が積まれていた。
その先の低い屋根の上に、首に赤い紐をつけた白い猫が丸くなっている。
リオは屋根を見上げた。
「ミルク」
「にゃあ」
白い猫がリオを見る。
リオは極めて真剣な顔で話しかけた。
「依頼主が心配している。戻るべきだ」
「にゃあ」
猫がのんきに尻尾を揺らす。
リオは少し考えた。
「拒否か」
猫が立ち上がり、屋根の上を歩いてさらに奥へ行こうとする。
リオは一歩踏み出した。
「待て。話は終わっていない」
当然、猫は止まらない。
リオは周囲を見た。
木箱、樽、低い屋根、細い塀。
『相手は高所を取っている』
まるで戦いの作戦を立てるように、リオは状況を確認した。
木箱に足をかける。
足場は悪い。
だが、リオはまるで平らな床を歩くように、軽々と木箱の上へ上がった。
猫が屋根の端からリオを見下ろしている。
「にゃあ」
「笑っているのか」
真顔で見上げるリオに、猫は尻尾を揺らすだけだった。
リオは一度、静かに木箱から降りた。
『力づくでは、依頼主の猫を傷つける恐れがある』
真剣に考える。
ふと、魚屋の方を見た。
リオの目が光った。
「交渉材料が必要だ」
*
魚屋に戻ってきたリオを見て、店主が声をかけた。
「どうした、兄ちゃん。猫は捕まったか?」
「交渉は難航している」
真顔で答えるリオに、魚屋は一瞬言葉を失う。
「……猫と交渉してんのか?」
「相手にも意思がある」
魚屋は笑いをこらえながら、魚の切れ端を紙に包んで差し出した。
「ほらよ。銅貨一枚でいい」
「助かる」
銅貨を渡すリオに、魚屋がにやっと笑う。
「逃げられるなよ」
「次は、成立させる」
再び細い路地。
リオは魚の切れ端を手に、屋根の上の猫へ見せるように掲げた。
白い猫がぴくっと反応する。
「ミルク。こちらへ来れば、魚がある」
落ち着いた声で呼ぶと、猫が屋根の端までやってきた。
リオは刺激しないよう、ゆっくり一歩下がる。
「落ち着いて降りるのだ」
猫が積まれた木箱へ飛び降りた。
リオが魚を差し出すと、猫がすぐに食いつく。
その隙に、そっと猫の胴を抱えようと手を伸ばした。
するっ。
「……」
猫が見事に腕を抜け、少し離れた木箱の上で魚を食べ始めた。
リオの手は、空を掴んでいる。
「魚だけを取られた」
「にゃあ」
魚をくわえたまま、猫がのんきに鳴く。
リオは少しだけ目を細めた。
「……手強い」
食べ終えた猫が、路地の奥へ逃げようとする。
リオは静かに息を吐いた。
「仕方がない」
リオの膝が、わずかに沈む。
足裏が石畳を捉えた。
次の瞬間。
タンッ!
リオの体が、低く滑るように前へ出る。
外套が遅れて揺れ、石畳の砂が後ろへ跳ねた。
猫が路地の奥へ跳ぼうとする。
だが、リオの手の方が、わずかに早い。
両手が、空中の猫の胴をやわらかく包み込んだ。
「にゃっ」
腕の中で、猫がじたばたする。
リオはしっかり抱えたまま、静かに言った。
「すまないな。依頼主が心配している」
猫は魚をくわえたまま、少しずつ大人しくなっていく。
リオはほっと息を吐いた。
「交渉成立だ」
*
南市場の角にある小さな雑貨屋。
店先には、布や紐、日用品が並んでいる。
店の前では、小さな女の子が不安そうに通りを見ていた。
リオが猫を抱えて近づくと、女の子の顔がぱっと明るくなる。
「ミルク!」
「にゃあ」
猫が腕から身を乗り出す。
リオは慎重に猫を渡した。
「無事だ」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
ミルクを抱きしめる女の子に、リオは少しだけ戸惑う。
「依頼だからな」
奥から雑貨屋の母親が出てきた。
「本当に助かりました。すばしっこくて、いつも逃げるんです」
「交渉は難しかった」
真剣に頷くリオに、母親がきょとんとする。
「交渉?」
「ミルクと話したの?」
女の子が笑う。
リオは真顔で答えた。
「説得を試みた」
母親と女の子が顔を見合わせ、楽しそうに笑う。
リオは、なぜ笑われたのか分かっていなかった。
母親が依頼票に達成印を押して渡してくれる。
「ギルドにこれを出してください。ありがとうございました」
「こちらこそ」
リオが店を出る。
背後で、女の子が猫に頬ずりしている声が聞こえた。
「もう逃げちゃだめだよ」
「にゃあ」
リオは少しだけ振り返る。
『無事でよかった』
*
夕方の南市場。
屋台に次々と灯りがともり始め、串焼き屋の香ばしい煙が上がっていた。
リオは迷わず足を止める。
「一本銅貨三枚だよ」
屋台の店主の声に、リオは少し驚いた。
「三枚……高いな」
「町が大きいからな」
「また町の大きさか」
小さく呟いたリオに、店主がきょとんとした顔をする。
「何の話だ?」
「一本ください」
リオは銅貨を出し、串焼きを受け取った。
一口食べる。
リオは少し目を丸くした。
『前の町と、味が違う』
香草の香りが少し強い。
肉も少し厚く切られている。
もう一口食べる。
『同じ串焼きでも、町が違えば味も違う』
リオは市場の通りを見る。
人々の声。
屋台の灯り。
雑貨屋の看板。
遠くに見える冒険者ギルドの大きな建物。
リオの表情が、少し穏やかになる。
『リーベルの暮らしも、少しずつ覚えればいい』
串焼きを持ったまま、夕方の町を歩き出す。
背筋はまっすぐ。
けれど、その足取りは以前よりも少しだけ軽い。
『私は、リオ』
リーベルの夕暮れ。
人混みの中へと、リオの小さな背中が溶け込んでいく。
『旅の冒険者だ』




