第6話「元侯爵令嬢、乗合馬車に揺られる」
翌朝。
東門の乗合馬車乗り場。
朝霧が薄く残る中、大きな荷物を持った旅人たちが続々と集まっていた。
リオも、昨日まとめた小さな荷物を抱えて立っている。
背筋はまっすぐ。
旅慣れているように見せようとしているが、目だけは大きな乗合馬車を興味深そうに観察していた。
『これが、乗合馬車……』
御者が乗客たちに声をかける。
「リーベル方面、乗るなら荷物を後ろへ積んでくれ」
リオは少し遅れて動いた。
『荷物は後ろ……』
荷台へ向かい、自分の荷物を丁寧に積む。
だが、それだけでは終わらず、他の客が置いた荷物の向きまできっちりと整え始めてしまった。
御者が不思議そうに首を傾げる。
「そこまで綺麗に並べなくていいぞ」
「崩れては危ない」
真顔で答えるリオに、御者は少し笑った。
「まあ、そりゃそうだ」
リオは馬車に乗り込み、木の硬い座席に腰を下ろした。
向かいには、旅装の若い女性が座った。
荷物は少なく、馬車旅に慣れている様子だ。
彼女がリオを見る。
「君、リーベルまで行くの?」
リオは少し考えた。
「最終的には、リーベルへ向かう」
「最終的には、って言い方が真面目だね」
小さく笑う女性に対し、リオは少しだけ胸を張った。
「旅の者なら、目的地は正確に把握すべきだ」
「そっか。なんか、大人ぶってて可愛い」
リオは固まった。
「……可愛い?」
「あ、ごめん。嫌だった?」
「嫌ではない。だが、私は子供ではない」
「うん。そういうことにしておく」
口元を押さえて笑う女性に、リオは少しむっとした。
女性は窓の外を指さした。
「リーベルなら、まず二日かけて手前の町まで行くんだよ」
「二日」
リオの表情が少し止まる。
「今日は街道の野営地で一泊。明日の夕方に手前の町。その町から、また翌朝リーベル行きの馬車に乗る感じ」
「……馬車でも、それほどかかるのか」
「歩いたらもっと大変だよ。乗合馬車にして正解だったと思う」
「分かっていた」
「今、初めて知った顔だったけど」
リオは窓の外へ視線をそらした。
「ギルドでちゃんと聞いた」
前方で御者が手綱を握り、「出るぞー」と声を飛ばす。
ガタン、と馬車がゆっくり動き出した。
窓から外を見ると、町の門が後ろへ遠ざかっていく。
リオは膝の上の剣にそっと手を置き、前を向いた。
『私は、リオ、旅の剣士』
東街道へ進む乗合馬車。
朝の光の中、リオの旅が始まる。
*
馬車の窓の外には、畑、低い石垣、洗濯物を干す家、遠くの森といった景色が流れていく。
リオは窓の外を静かに見つめていた。
『侯爵邸の周りとは、まるで違う』
回想に浮かぶのは、整えられた庭、石畳、手入れされた並木道。
だが現在、街道沿いの畑では農夫が鍬を振るい、子供が山羊を追いかけている。
リオの目が少し輝いた。
『畑って、こんなに広いのね』
麦束を背負った農夫が馬車の横を歩いていく。
小川のそばで女たちが洗濯をしている。
道端の露店では、老人が果物を並べ、小さな子供が赤い実をかじっていた。
リオはふと、その赤い実を見る。
『トマトは、ああして食べてもいいんだ』
若い旅の女性がリオの視線に気づいた。
「景色、珍しい?」
「珍しくはない。確認していただけだ」
少しだけ焦るリオに、女性が笑う。
「さっきから確認が多いね」
「旅の者に確認は必要だ」
「それはまあ、間違ってないかな」
真面目に頷くリオは、少し満足そうだった。
ガタンッ!
馬車が小さな穴を踏み、強く揺れる。
リオの身体が少し浮き、木の座席に落ちた。
「っ」
何事もなかったように背筋を伸ばす。
だが、さらにガタガタッと馬車が揺れ、リオの表情がわずかに引きつった。
『……おしりが痛い……』
姿勢を変えようとするが、どう変えても木の座席が硬い。
「大丈夫?」
「問題ない」
真顔で返すが、また大きくガタンッと揺れ、表情が一瞬だけ崩れる。
「……」
「最初の馬車旅は、だいたいみんなおしりにくるよ」
少しだけ口元を緩める女性に、リオは小さく呟いた。
「旅の者とは、過酷なのだな」
昼前になっても、馬車は揺れ続けている。
リオは窓の外を見ながら、少しずつ座席の端へ移動し、腰を浮かせていた。
「どうしたの?」
「景色をよく見るためだ」
真顔で答えるリオの腰元を、女性が見つめる。
「本当に?」
「本当だ」
目をそらした瞬間、馬車が揺れてリオは壁板に手をついて踏ん張った。
「立つならしっかり掴まってろよ。落ちても拾わねえぞ」
前からの御者の声に、リオは真剣に頷く。
「分かった」
手すりを掴みながら立つと、風が短い髪を揺らし、景色が少し広く見えた。
リオの表情が明るくなる。
『見える景色が違う』
女性が軽く笑う。
「その方が楽なら、無理に座らなくてもいいよ」
「景色のためだ」
「はいはい。景色ね」
リオは少しだけ赤くなった。
*
昼。
馬車が街道沿いの休憩所に止まった。
木陰、井戸、簡単な屋台がある。
「半刻休憩だ。水を飲む奴は井戸、飯を買う奴はあっちだ」
リオが馬車から降りると、足元が少しふらついた。
だが、何事もなかったように背筋を伸ばす。
『地面が、揺れていない』
隣に降りた女性が言う。
「お疲れ様、大変そうだったわね」
「旅の者だ、これくらい問題ない」
笑う女性をよそに、リオは井戸へ向かった。
他の旅人が手早く水を汲んでいる。
『井戸は、もう分かる』
桶を丁寧に下ろす。
まるで高価な食器を扱うように慎重だ。
ぽちゃん、と桶が水面に落ちる。
「そんなに丁寧に下ろさなくても大丈夫だよ」
「道具は丁寧に扱うべきだ」
「真面目だなあ」
女性が感心する中、リオは丁寧すぎて時間をかけて桶を引き上げる。
後ろに並んでいた旅人が苦笑した。
「兄ちゃん、水を汲むだけだぞ」
「雑に扱えば、縄が傷む」
水を汲み、手を洗ったリオは少しだけ満足そうだった。
休憩所の屋台には、硬いパン、干し肉、焼き芋のようなものが並んでいる。
「これは?」
「焼き芋だよ。銅貨一枚」
少し考えて、リオは銅貨を一枚出した。
今度は迷わない。
「一本ください」
「熱いよ」
「分かった」
そのまま真面目に受け取る。
「熱い……」
「言ったろ」
一口食べると、ほくほくと湯気が上がった。
リオの目が少し丸くなる。
『甘い。砂糖もないのに、甘い』
焼き芋をじっと見る。
『庶民の食べ物は、まだ知らないことばかりだ』
「出るぞー。乗り遅れるなよ」
御者の声に、リオは焼き芋を食べながら馬車へ戻る。
若い旅の女性がリオを見て微笑んでいる。
「気に入った?」
「甘くておいしい」
*
夕方。
乗合馬車が街道沿いの野営地に入った。
木の柵で囲まれた広場に、焚き火跡、水場、簡単な馬留めがある。
「今日はここまでだ。夜明けに出るぞ」
旅人たちが荷物を下ろし始める。
リオは周囲を見た。
宿の看板も建物もない。
「宿はどこだ」
御者が不思議そうに答える。
「宿? ここだよ。野営地だ。知らなかったのか?」
固まるリオは、一瞬だけ視線をそらした。
「確認しただけだ」
小さく笑う女性の横で、リオは野営地を見回した。
『空の下で、寝る。旅の者は、過酷なのだな』
女性が自分の外套を地面に敷く。
「寝る場所は、馬車の近くがいいよ。火のそばは人が多いし、端は冷える」
「馬車の近く」
リオも自分の外套を広げ、角をきっちり合わせて敷いた。
「外套まで綺麗に敷くんだ」
「乱れていると、落ち着かない」
「君らしいね」
焚き火のそばで、旅人たちが硬いパンや干し肉を食べている。
リオもパンを出し、膝の上に置いて背筋を伸ばして食べ始めた。
近くの中年旅人が笑う。
「兄ちゃん、楽に食えよ」
「食事中の姿勢は大事だ」
「大事だけどよ、ここは街道の野営地だぞ」
周囲を見る。
土の地面、焚き火、旅人たち。
少しだけ背筋を緩めるが、すぐにまた伸びてしまう。
女性が声を出さずに笑っていた。
夜。
星空の下、旅人たちが外套にくるまって眠っている。
リオは目を開け、風で揺れる木の枝や、遠くの虫の声を聞いていた。
『屋敷の寝台とは、まるで違う。でも、空は広い』
少しだけ体を丸め、リオの目はゆっくりと閉じた。
*
翌朝。
御者が乗客たちを起こす。
「起きろー。出るぞー」
リオはすぐに起き上がった。
髪が少し乱れている。
手で整えながら、女性の言葉に真顔で答える。
「眠れた?」
「眠った」
「答えが硬いなあ」
荷物をまとめ、再び乗合馬車が街道を進む。
木の硬い座席に座り、少し我慢するが、ガタンと揺れ、表情が引きつる。
『まだ、痛い』
静かに座席の端へ移動する。
「今日は最初から景色?」
「今日は、景色を早めに確認する」
手すりを掴んで立つリオに、女性は「そういうことにしておく」と笑った。
馬車は再び街道を進んでいた。
昨日より森が深くなり、窓の外には、一定の間隔で石柱が立っている。
表面には、見慣れない紋様が刻まれていた。
「これは何だ」
リオが尋ねると、向かいの席の若い旅の女性が答えた。
「あれは魔除け柱。街道に魔物が近づきにくくなるんだって」
「だから護衛がいないのか」
「このあたりなら、乗合馬車に護衛はあまり付かないよ。魔物なんて滅多に出ないから」
「滅多に」
リオが石柱を見つめた、その時だった。
ヒヒンッ!
馬が悲鳴のようにいななき、馬車が急に止まった。
「何だ?」
「止まったぞ!」
御者が前方を見て、顔色を変える。
「嘘だろ……」
街道の先に、黒い狼型の魔獣が立っていた。
普通の狼より二回りは大きく、口元から鋭い牙がのぞいている。
若い旅の女性が息を呑んだ。
「黒牙狼……?」
「何で街道に出るんだよ。魔除け柱があるだろうが……!」
馬車の中が一気にざわついた。
「護衛は!?」
「いるわけねえだろ! この街道でC級魔獣なんか出るはずねえんだよ!」
黒牙狼の視線は、暴れる馬に向いていた。
若い旅の女性が、リオを庇うように手を出す。
「君、下がって。あれは危ない」
だが、リオは静かに立ち上がった。
さっきまでの、少し背伸びした少年の空気が消える。
冷たく澄んだ剣士の気配をまとい、リオは馬車を降りた。
「おい、坊主! 戻れ!」
御者が叫ぶ。
「そいつはマジでやばいんだぞ!」
「分かっている」
リオは黒牙狼から目を離さず、静かに剣を抜いた。
黒牙狼が地面を蹴る。
巨体に似合わない速さで、馬へ向かって突進してきた。
リオの膝が、わずかに沈む。
次の瞬間。
ダンッ!
街道の土が跳ねた。
リオの姿が前へ伸び、黒牙狼の横をすり抜ける。
銀の線のような剣閃が、魔獣の首筋を走った。
ザンッ!
黒牙狼は突進の勢いのまま数歩進み、そのまま地面に崩れ落ちた。
馬車の周囲が、嘘のように静まり返る。
リオは剣を振って血を払い、黒牙狼が動かないことを確認した。
「もう進める」
何事もなかったように戻ってきたリオを、御者が呆然と見つめる。
「お前……冒険者だったのか」
リオは懐から木札を出した。
「E級だ」
「E級がC級魔獣を一人で斬れるかよ」
リオは少し考えた。
「旅の者だからな」
「旅の者って何なんだよ」
御者が困惑する横で、若い旅の女性が小さく息を吐いた。
「君、思ってたよりずっと強いんだね」
「思っていたより?」
「ううん。何でもない」
馬車の中の乗客たちが、リオを見る目はもう変わっていた。
御者は震える手で手綱を握り直す。
「……助かった。礼を言う」
「依頼ではない。気にしなくていい」
「そういう問題じゃねえんだけどな」
馬車が再び動き出す。
リオは窓の外を見た。
街道の端の草むらに、折れた魔除け柱が一本倒れている。
『魔除けがあっても、絶対ではないのね』
向かいの席から、若い旅の女性がまだリオを見ていた。
リオは少しだけ居心地悪そうにしながら、膝の上の剣に手を置いた。
馬車は、何事もなかったかのように街道を進んでいく。
*
夕方。
街道の先に、石造りの低い門が見えてきた。
『町だ』
「もうすぐ手前の町。今日はそこで終わりよ」
「分かった」
少し残念そうに窓の外を見る。
『リーベルは、まだ先。でも、知らない町がまた一つ増える』
その表情には、少し楽しさが混じっていた。
やがて、乗合馬車がその門をくぐり、小さな町へ入った。
馬車を降りる。
「今日はここまでだ。リーベル行きは明日の朝だぞ」
「分かった」
女性が荷物を肩にかけた。
「私はここで用事があるから。リーベルまで気をつけてね」
「ここで降りるのか」
「うん。商人に届け物。君は明日の馬車に乗り遅れないようにね」
「乗り遅れない」
「じゃあね、素敵な旅人さん」
「世話になった」
笑って人混みへ消える女性を見送り、リオは町並みを見渡した。
エルドランとも前の町とも少し違う。
石畳は荒いが、店の看板が多い。
『町が変わると、匂いも違う』
煮込み料理の匂いが鼻先に届き、リオは足を止めた。
大鍋の中で、豆と肉と野菜がぐつぐつと煮えている。
屋敷で出されていた牛肉の赤ワイン煮込みとは、まるで違う。
あれは銀の器に盛られ、香草と酒の香りまで整えられた料理だった。
けれど、目の前の大鍋から立ち上る湯気は、妙に腹を空かせる匂いがした。
リオはそのまま旅人向けの屋台のような食堂に腰を下ろす。
「いらっしゃい。煮込みとパンで銅貨四枚だ」
「お願いします」
銅貨を出すと、主人がリオを見た。
「ずいぶん丁寧な旅人だな」
素朴で湯気の立つ煮込みとパンが出された。
一口食べる。
『薄い。でも、前より分かる』
豆、肉の少しの脂、野菜の甘み。
『薄いのではなく、少ない味を拾うのね』
屋敷の料理のように、香りも味も重なってはいない。
けれど、この一皿には、鍋の底からじんわり広がる温かさがあった。
『これは、これでおいしい』
リオはもう一口、煮込みを口へ運んだ。
主人が皿の減り方を見る。
「口に合ったか?」
「温かい」
「そりゃよかった」
「それに、豆の味がした」
「……褒めてるんだよな?」
「褒めている」
「変な褒め方だな」
窓から知らない町の通りが見える。
旅人たちの声、露店の灯り。
『知らない町で、知らない料理を食べている。私は、本当に旅をしているのね』
*
夜。
旅人向けの安宿の小さな受付に、眠そうな宿番が座っている。
「一泊したい」
「素泊まり銅貨七枚。お湯は桶一杯で銅貨三枚」
「お湯も頼む」
「二階の奥だよ」
「ありがとう」
小さな宿部屋。
ベッド、机、桶を置くための床。
荷物を置くと、ノックの音がして湯気の立つ桶が運ばれてきた。
「冷める前に使いな」
扉を閉め、桶を見下ろす。
手ぬぐいを浸し、絞る。
『桶一杯のお湯。もう慣れたものだ』
顔を拭き、旅の埃を落とす。
首元、腕、手を丁寧に拭いていくと、表情が少しずつほっとしていく。
短くなった髪に手をやる。
『体を拭くのも、二日ぶり。……慣れたくないことにも、慣れていくのね』
けれど、湯気に包まれた表情は穏やかだった。
『今はこれで十分』
窓の外から、遠くで旅人たちの笑い声が聞こえていた。
*
翌朝。
リオは荷物をまとめた。
昨日より少しだけ手際がよい。
声色石と腰の剣を確認し、外套を羽織る。
受付で鍵を返す。
「もう出るのかい?」
「リーベルへ向かう」
「乗合馬車なら東側の広場だよ。遅れるなよ」
「遅れない」
朝の広場。
リーベル行きの乗合馬車が待っていた。
「荷物は後ろだ」
「分かっている」
荷物を積む。
他人の荷物の向きは直さなかったが、自分の荷物だけはきっちり角度を整えた。
御者が見守る中、馬車に乗り込む。
木の座席を見て、表情がわずかに引き締まった。
『今日も、硬い』
静かに腰を下ろす。
馬車がゆっくり動き出した。
朝日に照らされた道の先、背筋はまっすぐ。
目は少しだけ楽しそうだった。
『次は、どんな町だろう』




