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第4話「元侯爵令嬢、指名される」

 朝。

 狭い安宿の小部屋に、小さな窓から薄い光が差し込んでいる。

 硬いベッドの上で、リオは静かに目を開けた。

 身につけているのは男物の服。

 髪は短く、喉元には声色石がついている。


 上体を起こす。

 その背筋だけは、相変わらずまっすぐ綺麗に伸びていた。


『……朝』


 リオは部屋を見回した。

 昨日まで泊まっていた「踊る子猫亭」の部屋より、さらに狭い。

 机も古い。

 椅子も古い。

 ベッドは、寝返りを打つたびにぎしぎし鳴る。


『踊る子猫亭には、戻れない』


 前日の朝のことを思い出す。

 町娘として泊まった「踊る子猫亭」。

 その二階廊下を、男装したリオは顔を伏せて歩いた。


 受付では、看板娘が奥で別の客に対応していた。

 リオは声をかけず、カウンターにそっと鍵を置いた。


「あれ? 鍵……」


 看板娘が振り返りかけた時には、リオはもう宿を出ていた。


 今の小部屋で、リオは喉元の声色石に触れる。


『町娘として泊まった宿に、少年として戻るわけにはいかない』


 小さく息を吐いた。


『用心は大事だ』


 ベッドから降りようとすると、古びた板が大きくきしんだ。


 ギシッ。


 リオの動きが止まる。


「……この宿は、寝返りにも用心が必要だな」


 剣を腰に下げ、外套を羽織る。

 安い服を着ているのに、姿勢だけは妙に綺麗なままだ。


『今日も、仕事を探そう』


 リオは扉を開け、安宿を出た。



 朝の冒険者ギルド。

 依頼掲示板の前には、すでに何人もの冒険者が集まっていた。

 受付にも列ができている。

 朝から騒がしい。


 ギイッ、と扉を開けて、リオが入ってくる。

 安物の男物服。

 腰には実用剣。

 けれど、背筋だけは貴族のようにピンと伸びている。


 朝食の黒パンをかじっていたベテラン冒険者が、座ったまま顔を上げた。


「お、薬草貴族」


 リオはむっとして立ち止まる。


「誰のことだ」


「薬草に礼儀を尽くす坊ちゃんのことだ」


 周りの冒険者たちが軽く笑う。

 馬鹿にしているというより、すっかり面白がっている空気だった。


「坊ちゃんではない」


 リオはそう言い返して、受付へ向かった。

 受付嬢が顔を上げる。


「リオさん。ちょうどよかったです」


 リオは少し身構えた。


「依頼か」


「はい。昨日の薬草を受け取った薬師さんから、指名依頼が来ています」


 リオは目を瞬かせた。


「指名……俺に?」


「ええ。『昨日のように、崩さず丁寧に持ってくる人がいい』とのことです」


 リオの表情が、少しだけ明るくなる。


「……礼儀は無駄ではなかった」


 後ろの席から、ベテラン冒険者が笑いながら突っ込んだ。


「いや、そこはたぶん違う」


 リオはキッと振り返る。


「違わない。薬草は丁寧に扱うべきだ」


「薬草貴族、真面目だな」


「薬草の方が緊張しそうだ」


 冒険者たちがまた笑う。

 リオは彼らの声を背中で受け流し、受付へ向き直った。


「内容を聞かせてほしい」


 受付嬢が、カウンターに依頼書を広げる。


「今回は、薬草を三種類です。どれも傷みやすいので、潰さずに持ち帰ってほしいそうです」


 依頼書には、こう書かれていた。


『薬草採取。三種類。傷をつけずに納品。報酬、銅貨三十枚』


 リオは真剣に頷いた。


「分かった。薬草にも礼を尽くす」


 受付嬢は少しだけ言葉に迷い、それから微笑んだ。


「ええと……はい。丁寧にお願いします」


 そして、今回は布袋ではなく、小さな木箱をカウンターに置いた。


「今日は、この箱を使ってください」


「箱……」


「昨日みたいに結ぶと、種類によっては茎が傷むそうです」


 リオは衝撃を受けたように固まった。


「茎が……傷む」


 後ろからベテラン冒険者が口を挟む。


「薬草道、奥が深いな」


 リオは真顔で深く頷いた。


「つまり、礼儀にも作法があるということか」


 受付嬢が困ったように笑う。


「……たぶん、そういう話ではないです」


 リオは木箱と薬草図をしっかり受け取った。


「受けた」


 ベテラン冒険者が片手を上げる。


「今日も薬草に勝ってこいよ、リオ坊ちゃん」


 リオは振り返らずに返した。


「坊ちゃんではない」


 ギルドの扉が開く。

 リオは新しい依頼へ向かって歩き出した。



 こうして、リオの冒険者生活は少しずつ始まった。


 一日目。

 浅い森の中。

 リオは木箱の中に、薬草を種類ごとに美しく並べていた。


 その夕方。

 ギルドの受付で、受付嬢が木箱を開ける。


「……標本みたいですね」


「見やすい方がよいだろう」


 受付嬢はクスッと笑いながら確認を終えた。


「確かに、とても見やすいです。薬師さんからの指名依頼、達成です。状態も問題ありません」


 リオの表情が少しだけ緩む。


「達成」


 二日目。

 町の倉庫前。

 荷運びの依頼。

 リオは荷物を持つ前に、箱の置き方をきっちり整え始めていた。


「いや、運んでくれればいいんだけど」


「崩れては危ない」


「まあ、それはそう」


 三日目。

 食堂の裏。

 皿洗いの依頼。

 リオは洗った皿を、まるで晩餐会の食器のように等間隔で並べていた。


「乾かすだけだよ」


 食堂のおばさんが呆れたように言う。

 けれど、リオは皿の間隔を少しだけ直した。


「並びが乱れていると落ち着かない」


「育ちが出るねえ」


「普通だ」


 四日目。

 町の通り。

 掃除の依頼。

 リオはほうきを握っていた。

 けれど、その構えはどう見ても剣だった。


 近くを通りかかった子供が、目を輝かせる。


「兄ちゃん、ほうきで戦うの?」


 リオは真顔で返した。


「戦わない」


「今、構えてた」


「構えてない」


 五日目。

 浅い森の入口。

 リオは木の幹に黄色い布を巻き、目印として丁寧にリボン結びにしていた。


『これなら、帰り道を見失わない』


 黄色い布が、森の入口でやけに綺麗に揺れている。


『実用的だ』


 その夕方。

 リオはいつもより早くギルドへ戻ってきた。


「今日は早かったですね」


 受付嬢が驚いた顔をする。

 リオは胸を張った。


「目印をつけた」


 テーブル席から、ベテラン冒険者が顔を上げる。


「森に何を置いてきたんだ」


 リオは真面目に答えた。


「黄色い布だ」


 ベテラン冒険者が少し黙る。


「……森が舞踏会になりそうだな」


 リオはむっとした。


「実用的だ」


 受付嬢が笑いをこらえながら、依頼書に達成印を押す。


「はい。今日も依頼達成です」


 リオは小さく頷いた。


「問題なかった」


 ベテラン冒険者が笑う。


「最近、リオがいると退屈しねえな」


 リオが振り返る。


「私は、退屈をさせないために依頼を受けているわけではない」


 周りの冒険者たちが、どっと笑った。

 からかいはある。

 けれど、空気は柔らかい。


「分かってるって」


「真面目だな、薬草貴族」


 リオは少しだけ肩の力を抜いた。


「貴族ではない」


 受付嬢がリオの登録札を確認する。


「リオさん、かなり達成数が増えてきました。この調子なら、もう少し難しい依頼も受けられるようになりますよ」


 リオの目が少し輝く。


「討伐依頼か」


 受付嬢は即答した。


「まだです」


 リオは少しだけ落ち込んだ。


「……まだか」


 ベテラン冒険者が笑いかける。


「まずは道に勝て、リオ坊ちゃん」


 リオはむっとした。


「もう勝ってる」


 受付嬢が微笑む。


「今日は、ですね」


 リオは言い返せず、少しだけ視線をそらした。


「……今日は」



 夜の町。

 いつもの串焼き屋台から、香ばしい煙が上がっている。

 リオは屋台の前に立った。


 串を焼いていた店主が顔を上げる。


「今日も一本か?」


 リオは少しだけ驚いた。


「……覚えたのか」


 店主が快活に笑う。


「毎日そんな真面目な顔で串焼きを買う奴は、そういねえよ」


 リオは革袋から銅貨を出した。


「一本ください」


「はいよ」


 店主から焼きたての串を受け取る。

 湯気と香ばしい煙が立ち上った。

 リオは屋台の横で、串焼きを一口食べる。


『串焼きは、今日もおいしい』


 店主が次の串を焼きながら言った。


「また明日も来るんだろ」


 リオは少し間を置いた。


「……考えておく」


 店主がカラカラと笑う。


「はいはい」


 リオは串焼きを持ったまま、食堂の方へ歩いていった。



 夜の町の食堂。

 仕事帰りの客たちでにぎわう中、リオは隅の席に座っていた。

 目の前には、薄味のスープと黒パン。


 リオはスープを一口飲む。

 もう、前のようには驚かない。


『薄い。でも、温かい』


 その時、食堂の隅から町人たちの話し声が聞こえてきた。


「ティワール侯爵家の葬儀、終わったらしいな」


「気の毒な話だ」


 リオは、スープを飲む手を止めた。

 目が、わずかに伏せられる。


『……リリア・ティワールは、もういない』


 食堂には、いつも通りの音があふれている。

 笑い声。

 食器の触れ合う音。

 スープの湯気。

 誰も、隅で食事をしている少年に気づかない。


 リオは顔を上げた。

 窓の外には、さっきの串焼き屋の煙が、まだ細く上がっている。


 リオは残しておいた串焼きを、もう一口食べた。


『今ここにいるのは、リオだ』


 背筋は、まだ不自然なほどまっすぐ伸びている。

 それでも、革袋の中には、自分で稼いだ銅貨が入っている。

 リオはその重みを、そっと確かめた。


『明日も、依頼を受けよう』


 食堂の温かい灯り。

 窓の外の夜の闇。

 リオは静かに食事を続けた。


 リオの新しい日々は、少しずつ形になり始めていた。

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