第4話「元侯爵令嬢、指名される」
朝。
狭い安宿の小部屋に、小さな窓から薄い光が差し込んでいる。
硬いベッドの上で、リオは静かに目を開けた。
身につけているのは男物の服。
髪は短く、喉元には声色石がついている。
上体を起こす。
その背筋だけは、相変わらずまっすぐ綺麗に伸びていた。
『……朝』
リオは部屋を見回した。
昨日まで泊まっていた「踊る子猫亭」の部屋より、さらに狭い。
机も古い。
椅子も古い。
ベッドは、寝返りを打つたびにぎしぎし鳴る。
『踊る子猫亭には、戻れない』
前日の朝のことを思い出す。
町娘として泊まった「踊る子猫亭」。
その二階廊下を、男装したリオは顔を伏せて歩いた。
受付では、看板娘が奥で別の客に対応していた。
リオは声をかけず、カウンターにそっと鍵を置いた。
「あれ? 鍵……」
看板娘が振り返りかけた時には、リオはもう宿を出ていた。
今の小部屋で、リオは喉元の声色石に触れる。
『町娘として泊まった宿に、少年として戻るわけにはいかない』
小さく息を吐いた。
『用心は大事だ』
ベッドから降りようとすると、古びた板が大きくきしんだ。
ギシッ。
リオの動きが止まる。
「……この宿は、寝返りにも用心が必要だな」
剣を腰に下げ、外套を羽織る。
安い服を着ているのに、姿勢だけは妙に綺麗なままだ。
『今日も、仕事を探そう』
リオは扉を開け、安宿を出た。
*
朝の冒険者ギルド。
依頼掲示板の前には、すでに何人もの冒険者が集まっていた。
受付にも列ができている。
朝から騒がしい。
ギイッ、と扉を開けて、リオが入ってくる。
安物の男物服。
腰には実用剣。
けれど、背筋だけは貴族のようにピンと伸びている。
朝食の黒パンをかじっていたベテラン冒険者が、座ったまま顔を上げた。
「お、薬草貴族」
リオはむっとして立ち止まる。
「誰のことだ」
「薬草に礼儀を尽くす坊ちゃんのことだ」
周りの冒険者たちが軽く笑う。
馬鹿にしているというより、すっかり面白がっている空気だった。
「坊ちゃんではない」
リオはそう言い返して、受付へ向かった。
受付嬢が顔を上げる。
「リオさん。ちょうどよかったです」
リオは少し身構えた。
「依頼か」
「はい。昨日の薬草を受け取った薬師さんから、指名依頼が来ています」
リオは目を瞬かせた。
「指名……俺に?」
「ええ。『昨日のように、崩さず丁寧に持ってくる人がいい』とのことです」
リオの表情が、少しだけ明るくなる。
「……礼儀は無駄ではなかった」
後ろの席から、ベテラン冒険者が笑いながら突っ込んだ。
「いや、そこはたぶん違う」
リオはキッと振り返る。
「違わない。薬草は丁寧に扱うべきだ」
「薬草貴族、真面目だな」
「薬草の方が緊張しそうだ」
冒険者たちがまた笑う。
リオは彼らの声を背中で受け流し、受付へ向き直った。
「内容を聞かせてほしい」
受付嬢が、カウンターに依頼書を広げる。
「今回は、薬草を三種類です。どれも傷みやすいので、潰さずに持ち帰ってほしいそうです」
依頼書には、こう書かれていた。
『薬草採取。三種類。傷をつけずに納品。報酬、銅貨三十枚』
リオは真剣に頷いた。
「分かった。薬草にも礼を尽くす」
受付嬢は少しだけ言葉に迷い、それから微笑んだ。
「ええと……はい。丁寧にお願いします」
そして、今回は布袋ではなく、小さな木箱をカウンターに置いた。
「今日は、この箱を使ってください」
「箱……」
「昨日みたいに結ぶと、種類によっては茎が傷むそうです」
リオは衝撃を受けたように固まった。
「茎が……傷む」
後ろからベテラン冒険者が口を挟む。
「薬草道、奥が深いな」
リオは真顔で深く頷いた。
「つまり、礼儀にも作法があるということか」
受付嬢が困ったように笑う。
「……たぶん、そういう話ではないです」
リオは木箱と薬草図をしっかり受け取った。
「受けた」
ベテラン冒険者が片手を上げる。
「今日も薬草に勝ってこいよ、リオ坊ちゃん」
リオは振り返らずに返した。
「坊ちゃんではない」
ギルドの扉が開く。
リオは新しい依頼へ向かって歩き出した。
*
こうして、リオの冒険者生活は少しずつ始まった。
一日目。
浅い森の中。
リオは木箱の中に、薬草を種類ごとに美しく並べていた。
その夕方。
ギルドの受付で、受付嬢が木箱を開ける。
「……標本みたいですね」
「見やすい方がよいだろう」
受付嬢はクスッと笑いながら確認を終えた。
「確かに、とても見やすいです。薬師さんからの指名依頼、達成です。状態も問題ありません」
リオの表情が少しだけ緩む。
「達成」
二日目。
町の倉庫前。
荷運びの依頼。
リオは荷物を持つ前に、箱の置き方をきっちり整え始めていた。
「いや、運んでくれればいいんだけど」
「崩れては危ない」
「まあ、それはそう」
三日目。
食堂の裏。
皿洗いの依頼。
リオは洗った皿を、まるで晩餐会の食器のように等間隔で並べていた。
「乾かすだけだよ」
食堂のおばさんが呆れたように言う。
けれど、リオは皿の間隔を少しだけ直した。
「並びが乱れていると落ち着かない」
「育ちが出るねえ」
「普通だ」
四日目。
町の通り。
掃除の依頼。
リオはほうきを握っていた。
けれど、その構えはどう見ても剣だった。
近くを通りかかった子供が、目を輝かせる。
「兄ちゃん、ほうきで戦うの?」
リオは真顔で返した。
「戦わない」
「今、構えてた」
「構えてない」
五日目。
浅い森の入口。
リオは木の幹に黄色い布を巻き、目印として丁寧にリボン結びにしていた。
『これなら、帰り道を見失わない』
黄色い布が、森の入口でやけに綺麗に揺れている。
『実用的だ』
その夕方。
リオはいつもより早くギルドへ戻ってきた。
「今日は早かったですね」
受付嬢が驚いた顔をする。
リオは胸を張った。
「目印をつけた」
テーブル席から、ベテラン冒険者が顔を上げる。
「森に何を置いてきたんだ」
リオは真面目に答えた。
「黄色い布だ」
ベテラン冒険者が少し黙る。
「……森が舞踏会になりそうだな」
リオはむっとした。
「実用的だ」
受付嬢が笑いをこらえながら、依頼書に達成印を押す。
「はい。今日も依頼達成です」
リオは小さく頷いた。
「問題なかった」
ベテラン冒険者が笑う。
「最近、リオがいると退屈しねえな」
リオが振り返る。
「私は、退屈をさせないために依頼を受けているわけではない」
周りの冒険者たちが、どっと笑った。
からかいはある。
けれど、空気は柔らかい。
「分かってるって」
「真面目だな、薬草貴族」
リオは少しだけ肩の力を抜いた。
「貴族ではない」
受付嬢がリオの登録札を確認する。
「リオさん、かなり達成数が増えてきました。この調子なら、もう少し難しい依頼も受けられるようになりますよ」
リオの目が少し輝く。
「討伐依頼か」
受付嬢は即答した。
「まだです」
リオは少しだけ落ち込んだ。
「……まだか」
ベテラン冒険者が笑いかける。
「まずは道に勝て、リオ坊ちゃん」
リオはむっとした。
「もう勝ってる」
受付嬢が微笑む。
「今日は、ですね」
リオは言い返せず、少しだけ視線をそらした。
「……今日は」
*
夜の町。
いつもの串焼き屋台から、香ばしい煙が上がっている。
リオは屋台の前に立った。
串を焼いていた店主が顔を上げる。
「今日も一本か?」
リオは少しだけ驚いた。
「……覚えたのか」
店主が快活に笑う。
「毎日そんな真面目な顔で串焼きを買う奴は、そういねえよ」
リオは革袋から銅貨を出した。
「一本ください」
「はいよ」
店主から焼きたての串を受け取る。
湯気と香ばしい煙が立ち上った。
リオは屋台の横で、串焼きを一口食べる。
『串焼きは、今日もおいしい』
店主が次の串を焼きながら言った。
「また明日も来るんだろ」
リオは少し間を置いた。
「……考えておく」
店主がカラカラと笑う。
「はいはい」
リオは串焼きを持ったまま、食堂の方へ歩いていった。
*
夜の町の食堂。
仕事帰りの客たちでにぎわう中、リオは隅の席に座っていた。
目の前には、薄味のスープと黒パン。
リオはスープを一口飲む。
もう、前のようには驚かない。
『薄い。でも、温かい』
その時、食堂の隅から町人たちの話し声が聞こえてきた。
「ティワール侯爵家の葬儀、終わったらしいな」
「気の毒な話だ」
リオは、スープを飲む手を止めた。
目が、わずかに伏せられる。
『……リリア・ティワールは、もういない』
食堂には、いつも通りの音があふれている。
笑い声。
食器の触れ合う音。
スープの湯気。
誰も、隅で食事をしている少年に気づかない。
リオは顔を上げた。
窓の外には、さっきの串焼き屋の煙が、まだ細く上がっている。
リオは残しておいた串焼きを、もう一口食べた。
『今ここにいるのは、リオだ』
背筋は、まだ不自然なほどまっすぐ伸びている。
それでも、革袋の中には、自分で稼いだ銅貨が入っている。
リオはその重みを、そっと確かめた。
『明日も、依頼を受けよう』
食堂の温かい灯り。
窓の外の夜の闇。
リオは静かに食事を続けた。
リオの新しい日々は、少しずつ形になり始めていた。




