第3話「元侯爵令嬢、迷う」
木漏れ日の差す、町の東の浅い森。
リオは布袋と薬草図を握りしめたまま、木々の間で立ち尽くしていた。
『迷った……』
昨日買ったばかりの男物の服には、土がついている。
短く切ったばかりの髪には、小さな葉っぱが乗っていた。
手元の薬草図には、「葉が三枚」「根元が薄い青」と特徴が書かれている。
けれど、もう薬草図の出番は終わっていた。
『薬草は採れた』
布袋の中には、指定された薬草が十束。
なぜか、どれもツルで美しいリボン結びにされている。
侯爵令嬢として育った心が、雑に束ねることを許さなかったのだ。
『問題は、帰り道だ』
リオは周りをぐるりと見渡した。
似たような木。
似たような草。
似たような小道。
どれも同じに見える。
リオは、近くの木の幹にそっと手を当てた。
「この木は……さっき見た気がする」
視線を落とす。
木の根元には、リオが目印として置いた小石が、きれいに並んでいた。
「……見た気がするのではなく、見たのだな」
リオは真剣な顔で薬草図を折りたたみ、懐にしまった。
『落ち着くのよ。私は、言われたことは守っている』
頭の中に、ギルドの受付嬢の言葉がよみがえる。
『奥には入らないでくださいね』
リオは森の奥を見た。
奥の方は暗く、木々が深く生い茂っている。
「奥には入っていない」
反対側を見る。
そちらにも、同じような木々が続いていた。
「ただ、出口も見つかっていない」
リオはため息をつき、もう一度歩き出した。
『侯爵邸の庭なら、東屋と噴水と薔薇棚で場所が分かったのに』
リオは、静かな森を見回す。
『森は、どこを見ても森だ』
布袋の中をのぞき込み、薬草の束を確認する。
きっちり結ばれた十束。
『せめて、薬草だけは無事に持ち帰らなければ』
リオは歩きながら、薬草の結び目を指先で軽く整えた。
『薬師に渡すものだ。乱れていては失礼だもの』
そんな謎のこだわりを発揮していると、遠くからかすかな音が聞こえた。
――カーン……。
リオはハッとして顔を上げる。
「鐘……!」
立ち止まり、耳を澄ます。
もう一度、同じ音が響いた。
――カーン……。
『町は、あっちね』
リオは鐘の音がした方へ歩き出した。
生い茂る枝を避ける。
外套に枝が引っかかっても、今は気にしない。
リオは少しだけ得意げに笑った。
『迷ったわけではない。少し、帰り道を探していただけ』
そう思った瞬間だった。
ぬかるみに足を取られ、体が大きく前のめりになる。
「っ!」
リオはどうにか体勢を立て直した。
泥の中に突っ込むことだけは避けられた。
けれど、その時も布袋だけは胸に抱え、絶対に汚さなかった。
泥のついた靴を見下ろし、リオは小さく息を吐く。
『……町娘への道も険しかったが、冒険者への道も険しい』
それでも歩き続ける。
やがて、木々の隙間の向こうに、町の外壁が見えた。
夕方のオレンジ色の光が差し込んでいる。
リオの表情が、ぱっと明るくなった。
「見えた……!」
*
夕方の冒険者ギルド。
朝ほどの騒がしさはない。
けれど、酒場側では、すでに何人かの冒険者がジョッキを傾けていた。
ギイッ、と扉が開く。
リオが入ってきた。
服には土。
髪には葉っぱ。
けれど、手に持った布袋だけは泥一つついていない。
近くのテーブルで飲んでいたベテラン冒険者が、座ったまま顔を上げる。
「お、薬草に勝ったか、リオ坊ちゃん」
リオはむっとして振り返った。
「勝ち負けの話ではない」
ベテラン冒険者がにやりと笑う。
「じゃあ、引き分けか?」
「採取だ」
リオはからかいを無視して、受付へ向かった。
受付嬢が少し安心した顔で出迎える。
「リオさん。戻りが遅いので、少し心配していました」
リオは布袋をカウンターに置いた。
「問題ない。少し、帰り道を探していただけだ」
受付嬢が、ふふっと笑う。
「それを迷ったと言います」
「……」
リオは固まった。
背後のテーブルから、ベテラン冒険者の笑い声が聞こえる。
「薬草には勝ったが、道には負けたな」
リオはキッと振り返った。
「負けていない。戻ってきた」
そんなやり取りをよそに、受付嬢が布袋を開けた。
「確認しますね」
袋の中には、ツルで美しくリボン結びにされた薬草が十束。
まるで贈り物のように、きれいに並んでいる。
受付嬢の手が、ぴたりと止まった。
「……ずいぶん丁寧ですね」
リオは少し誇らしげに頷く。
「薬草にも礼を尽くすべきかと思ってな」
ベテラン冒険者が、たまらず笑いそうになる。
「薬草に礼儀はいらねえよ」
「薬師に渡すものだ。乱れているより、整っていた方がいい」
リオは真顔で言い切った。
受付嬢は困ったように、けれど嬉しそうに笑う。
「指定薬草十束、確かに確認しました。初依頼達成です」
その言葉に、リオの表情が少しだけ和らいだ。
「……達成」
「報酬の銅貨十枚です」
受付嬢が数えた銅貨を、リオは手のひらで受け取った。
金貨とは違う。
小さくて、軽くて、けれど確かに重みのあるお金。
『これが……私が初めて、自分で稼いだお金』
リオは銅貨を、宝物のように丁寧に革袋へ入れた。
「お疲れさまでした。明日も依頼を受けるなら、朝に来てくださいね」
「分かった」
リオが出口へ向かうと、ベテラン冒険者が空の杯を掲げた。
「明日も薬草に勝てよ、リオ坊ちゃん」
「坊ちゃんではない」
カラン、と扉のベルを鳴らし、リオはギルドを後にした。
*
町の小さな食堂は、仕事帰りの町人たちでにぎわっていた。
服に少し土がついたままのリオが席につくと、食堂のおばさんが皿を置いた。
「はいよ。銅貨四枚」
皿の上には、黒パン、豆のスープ、薄く焼いた野菜。
「ありがとう」
リオは銅貨を渡した。
今度はカウンターに並べず、ちゃんと手渡すことができた。
木のスプーンを取り、豆のスープを一口飲む。
「……」
もう一口、ゆっくり飲む。
『昨日の食事も、味が薄かった』
焼いた野菜を口に運ぶ。
『黒パンも、ほとんど味がしない』
リオは真剣な顔で、目の前のスープを見つめた。
『庶民の食事とは、こういうものなのだろうか』
近くの机を拭いていたおばさんが、リオの様子に気づいた。
「口に合わなかったかい?」
リオは慌てて顔を上げる。
「いや。優しい味だな」
「薄いって言いたいなら、薄いって言いな」
図星だった。
リオは少し焦る。
「ち、違う。体に優しいという意味だ」
「金持ちみたいな言い方だねえ」
「金持ちではない」
即答したあと、リオは少し固まった。
おばさんはあっけらかんと笑った。
「まあ、塩も香辛料も安くないんだよ。毎日たっぷり使えるとこばかりじゃないさね」
その言葉に、リオの表情が少し変わった。
頭に浮かぶのは、侯爵邸の長い食卓。
たっぷり使われた香草。
濃いソース。
しっかり味のついた肉料理。
見た目まで美しい料理の数々。
『屋敷の食事には、当たり前のように味がついていた』
リオは、目の前の豆のスープを見る。
具は少ない。
味も薄い。
けれど、湯気はあたたかい。
『当たり前では、なかったのか』
リオはスープをすくい、今度はゆっくり味わうように飲んだ。
「……温かい」
食堂のおばさんが、少しだけ優しく笑った。
「それは本当だろうね」
リオは小さく頷き、皿に残った食事をきれいに食べた。
*
夕暮れの通り。
肉の焼ける香ばしい匂いと、白い煙が漂っている。
リオは、昨日の串焼き屋台の前で足を止めた。
『昨日は、買えなかった』
革袋の中の銅貨に、そっと触れる。
『今日は、買える』
屋台の店主が、串を焼きながら顔を上げた。
「一本銅貨二枚だ」
リオは少し背筋を伸ばす。
そして、堂々と言った。
「一本ください」
「はいよ。……ん?」
焼き上がった串を差し出そうとして、店主がリオの顔を見た。
リオは少し警戒する。
「何か?」
「いや、どっかで見た顔だと思ってな」
リオは極めて真顔で答えた。
「よくある顔だ」
「そんな顔がよくあってたまるか」
「では、気のせいだ」
まったく動揺せずに言い切るリオに、店主は笑いながら串を差し出した。
「ありがとう」
リオは銅貨二枚を渡し、湯気の立つ串焼きを受け取った。
屋台の横で、期待を込めて一口かじる。
『……おいしい』
リオの目が、少し見開かれた。
肉の表面はカリッと焼け、噛むと脂がじゅっと出てきた。
味付けは薄い塩だけなのに、とてもおいしい。
『香辛料も、ソースも、ほとんど使っていないのに』
感動しているリオを見て、店主が得意げに言う。
「うまいだろ」
「うまい」
リオは素直に深く頷いた。
店主は満足そうに笑う。
「肉は焼きたてが一番うめえんだよ」
リオは手元の串焼きを見つめた。
『昨日は、買えなかった』
『今日は、買えた』
『リオとして、初めて稼いだお金で』
もう一口食べる。
肉汁が口の中に広がった。
「気に入ったなら、また来な」
店主の言葉に、リオは少し間を置いた。
「……考えておく」
屋台から少し離れながら、リオは心の中でこっそり付け足した。
『明日も来よう』
串焼きを食べながら、夕暮れの通りを歩く。
前の方で、小さな少年が野菜の籠を積んだ荷車を押していた。
少年は一生懸命に押していた。
けれど、道には大きな石があった。
ガタンッ!
車輪が石に乗り上げ、荷車が大きく傾く。
「うわっ!」
少年がバランスを崩す。
リオは串焼きをくわえたまま、反射的に荷車の横へ飛び込んだ。
「危ない!」
ドンッ、と肩で荷車を押さえる。
倒れる寸前で、何とか持ちこたえた。
けれど、籠の一つが傾き、いくつかの野菜が地面に転がり落ちる。
ゴロゴロッ。
少年が青ざめた顔で声を上げた。
「あー、落ちた……」
リオは荷車を押さえたまま、少年に声をかける。
「怪我はないか」
「ない。兄ちゃんは?」
「問題ない」
リオはくわえていた串焼きを手に持ち替え、膝をついた。
そして、落ちた野菜を拾い始める。
『皿の上なら、色と向きをそろえるところだが……』
侯爵邸での食事を思い出しながら、リオは野菜を籠の中へ戻していく。
一つずつ、妙に等間隔で。
きれいに。
向きまでそろえて。
「兄ちゃん、そんなにきれいに並べなくていいよ。どうせ積むだけだし」
少年が不思議そうに言う。
リオは真剣な顔で、野菜の向きを少しだけ直した。
「だが、野菜にも向きがあるだろう」
「野菜に向き?」
「……ないのか?」
「ないよ。荷車だよ?」
リオは、自分がきれいに並べた野菜を見つめた。
「……そうか」
少年がカラカラと笑う。
「でも、きれいにはなったよ、ありがとな」
「なら、無駄ではなかった」
リオが立ち上がると、少年が荷車の車輪を指差した。
「あ、紐が絡まってる」
見ると、車輪の軸に古い紐が巻きついていた。
そのせいで、車輪がうまく動かなくなっている。
リオの右手が、反射的に腰の剣へ伸びた。
『町中で剣を抜くのは目立つ』
すぐに手を止める。
代わりに、懐の短剣を抜いた。
絡まった紐だけを、すぱっと切る。
迷いのない、きれいな動きだった。
「おお、動いた!」
車輪が回るのを見て、少年が声を上げる。
リオは短剣をしまった。
「これで押せるはずだ」
「兄ちゃん、ありがとな」
「礼を言われるほどのことではない」
リオが歩き出そうとした時、背後から声がかかった。
「じゃあ、これ。少し形は悪いけど、うまいよ」
少年が籠から取り出したのは、少し形の悪い、真っ赤な実だった。
リオはそれを受け取り、不思議そうに見つめる。
見覚えはある。
けれど、すぐには分からない。
「これは?」
「トマトだよ。知らないの?」
「知っている。もちろん知っている」
リオは少し焦って答えた。
頭に浮かんだのは、侯爵邸の銀の皿。
その上に美しく並べられた、薄切りの赤い野菜。
岩塩と香草で、きれいに味付けされていた。
『屋敷で食べていたトマトは……これを薄く切ったものだったのか』
リオは、真面目な顔で少年にトマトを返そうとした。
「だが、受け取れない。仕事ではない」
「でも、助けてもらったし。お礼しないと母ちゃんに怒られる」
少年は困った顔をしている。
リオは少し考え込んだ。
「……そういうものなのか」
「そういうもんだよ」
「では、ありがたく受け取る」
リオは丁寧にトマトを受け取った。
少年が笑う。
「兄ちゃん、変な言い方するな」
「普通だ」
少しむっとするリオを残して、少年は荷車を押し直した。
「じゃあな、変な兄ちゃん」
「リオだ」
「じゃあな、リオ兄ちゃん」
少年は振り返らずに手を振り、夕暮れの町へ消えていった。
リオはその場に立ち尽くし、手の中のトマトを見つめた。
片手には、食べかけの串焼き。
もう片方には、お礼にもらった赤いトマト。
リオはゆっくり歩き出した。
『薬草を採って、銅貨をもらった』
夕暮れの通りを、人々が歩いていく。
それぞれの家へ。
あたたかい夕食の待つ場所へ。
『荷車を支えて、トマトをもらった』
リオは、自分の泥のついた靴を見る。
それはもう、侯爵令嬢の華奢な靴ではない。
土の上を歩く、旅の剣士の靴だった。
『私が動けば、何かが返ってくる』
空を見上げると、一番星が瞬き始めていた。
『与えられるだけではない。奪われるだけでもない』
リオは少しだけ、誇らしげに笑った。
『これが、自分で生きるということなのかもしれない』
残っていた串焼きを、もう一口食べる。
少し冷めていた。
けれど、十分においしかった。
『それに――』
『明日も、この串焼きを食べたい』
リオとして生きた初めての一日は、泥と薬草と、少し冷めた肉と、赤いトマトで終わった。




