第2話「元侯爵令嬢、冒険者になる」
朝。
宿屋「踊る子猫亭」の小部屋。
床には、昨日まで大切に手入れされていた長い金髪が散らばっている。
机の上には、男物の服。声色石。護身用の短剣。安い実用剣。
リリアは男物の服に袖を通した。
自分の体には少し大きい袖を引っ張り、布を巻いた胸元を隠すように、腰帯をしっかり締める。
それから、首元に声色石のついた紐をかけた。小さな黒い石が、喉元で揺れる。
短くなった髪を手櫛で整え、鏡を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、ドレス姿の侯爵令嬢ではない。
華奢で、顔立ちの整った「少年」だった。
試しに声を出してみる。
「……私は」
声色石の効果で、声はいつもより少し低くなっていた。
たしかに、少年の声に聞こえなくもない。
けれど、リリアはすぐに口を閉じた。
コホン、と咳払いをする。
「俺は……」
聞き慣れない一人称に、少しだけ頬が熱くなる。
それでも、リリアは鏡の前でぎこちなく頷いた。
「俺は、リオ」
もう一度、今度は少しだけ堂々と名乗ってみる。
「リオ。旅の剣士だ」
数秒の沈黙。
リリア――いや、リオは、鏡に映る自分を真剣な顔で見つめ直した。
『……旅の剣士にしては、荷物が少なすぎる気がする』
机の上にあるのは、剣と短剣。
少しの金貨が入った財布。
そして外套だけ。
どう見ても、旅の準備というより、近所に出かける準備だった。
『まあいいわ……じゃなくて、まあいい』
リオは剣を腰に下げ、外套をばさりと羽織った。
『まずは、仕事を探す。自分の足で、生きるために』
*
町の冒険者ギルド。
そこは、剣や槍を持った冒険者たちが出入りする、大きな木造の建物だった。
入口には、剣と盾の紋章が描かれた看板がかかっている。
リオはギルドの前で立ち止まり、深く息を吸った。
『大丈夫。今の私は、どこにでもいる少年剣士。怪しまれるところなんて、何一つない』
そう自分に言い聞かせ、気合いを入れて扉を開ける。
中は、朝からひどく騒がしかった。
壁一面に貼られた依頼書。
忙しそうに働く受付。
酒場を兼ねた広間には、朝だというのに酒を飲んでいる者までいる。
ギイッ、と扉の音が鳴る。
その瞬間、冒険者たちが一斉にこちらを見た。
美しい顔立ち。
華奢な体。
そして、なぜか妙に品のある立ち姿。
悪く言えば、この場に全くなじんでいない少年だった。
近くのテーブルに座っていたベテラン冒険者の男が、にやりと笑った。
「おいおい、どこの坊ちゃんだ?」
「剣より顔の方が高く売れそうだな」
別の冒険者もからかうように笑う。
リオは一瞬、びくっとした。
けれど、すぐに男らしく振る舞おうと胸を張る。
「ぼ、坊ちゃんではない」
声色石のおかげで、声は少し低い。
だが、言葉の端々に染みついた育ちの良さは隠せない。
「私は……いや、俺は、普通の旅の者だ」
冒険者たちが顔を見合わせる。
「普通の旅の者、ねえ」
「ずいぶん姿勢のいい普通だな」
にやにやと向けられる視線。
リオは、昨日の串焼き屋台で学んだ「何食わぬ顔」を使うことにした。
すっと背筋を伸ばし、堂々と言う。
「冒険者とは、己の剣と誇りで道を切り開く者だろう」
ギルド内が、一瞬だけ静まり返った。
「「「…………」」」
次の瞬間。
「ははっ!」
ベテラン冒険者が腹を抱えて笑い出した。
「はははっ! 朝から芝居小屋みたいなこと言うじゃねえか!」
それをきっかけに、周りの冒険者たちもどっと笑う。
「剣と誇りだってよ!」
「まずは泥と草と借金からだろ!」
「吟遊詩人でも目指してんのか!」
リオはカッと顔を赤くした。
「そ、そうだな。もちろん知っていた。冗談を言ったまでだ」
「冗談にしちゃ、目が本気だったぞ」
「うるさい」
思わず言い返してから、リオははっとした。
少しだけ、男の子らしく言えた気がする。
すると、ベテラン冒険者がリオの腰にある実用剣を見た。
「まあ、剣は飾りじゃなさそうだな」
その言葉に反応して、リオの手が自然に剣の柄へ添えられる。
流れるような動きだった。
さっきまでのぎこちなさが嘘のように、そこだけは無駄がない。
ベテラン冒険者の目が少し細くなった。
「……ふうん」
「登録希望の方ですかー?」
絶妙なタイミングで、受付カウンターの若い受付嬢が声をかけてきた。
リオはそちらへ向かおうとする。
すると、背後からまた声が飛んだ。
「転ぶなよ、坊ちゃん」
リオは振り返り、むっとして言い返した。
「坊ちゃんではない。リオだ」
「はいはい。リオ坊ちゃん」
ベテラン冒険者は、ひらひらと手を振っている。
リオは悔しそうに受付へ向かった。
『坊ちゃんではない。……でも、お嬢様と呼ばれるよりは、ずっとマシだ』
受付嬢がにこりと笑う。
「お名前をお願いします」
「……リオ」
「姓は?」
リオの表情が、ぴくりと強張った。
「ない」
「ない?」
「旅の者だからな」
リオは、それが当然だと言わんばかりの顔で頷いた。
受付嬢は少し困ったように笑う。
「旅の方でも、故郷の名を登録する方は多いですよ?」
「……故郷は遠い」
リオは少しだけ遠い目をした。
受付嬢は、それ以上深く聞かなかった。
「では、リオさんで登録しますね。まずはFランクからです」
リオは木札のような仮登録証を受け取った。
小さく息を吐く。
「助かる。では、討伐依頼を頼む」
受付嬢の手が、ぴたりと止まった。
「討伐依頼?」
「魔獣でも盗賊でも構わない。危険な任務からでいい」
リオは真剣だった。
受付嬢は目をぱちくりさせる。
そして、背後のテーブルから、また爆笑が起きた。
「聞いたか!? Fランク初日で盗賊退治だってよ!」
「元気があっていいじゃねえか!」
リオは振り返り、むっとした顔を作った。
「笑うことではない。仕事は選ばず受けるべきだろう」
ベテラン冒険者が椅子に深くもたれかかり、にやりと笑う。
「選ばせてもらえねえんだよ、Fランクは」
「……選ばせてもらえない?」
リオが固まる。
受付嬢が、説明用の紙を差し出した。
「はい。登録したばかりのFランクの方には、討伐依頼は紹介できません」
「なぜだ」
リオは真剣な顔で問い返した。
受付嬢は、とても優しい笑顔で答える。
「死ぬからです」
「…………」
リオは黙った。
反論できなかった。
「それに、依頼主にも迷惑がかかります。実力が分からない新人さんに、危険な仕事は出せません」
「……筋は通っている」
侯爵令嬢として学んできた理屈にも合っている。
リオは少しだけ納得して引き下がった。
受付嬢が、依頼掲示板の一番下を指差す。
「Fランクの方に紹介できるのは、採取、荷運び、清掃、町中のお手伝いなどですね」
「採取、荷運び、清掃……」
「今日は薬草採取の依頼があります。初心者の方にはこれが一番です」
受付嬢は一枚の依頼書を見せた。
『薬草採取。指定薬草十束。報酬、銅貨十枚』
それを見たリオの表情が、すっと曇る。
「……薬草」
「はい。薬草です」
リオは自分の腰の剣に目を落とした。
「剣は使うのか?」
受付嬢は、真顔で首を横に振った。
「使わない方がいいです。薬草が切れます」
「根から抜いてきてください」
「…………」
リオは石のように固まった。
後ろのベテラン冒険者が、たまらず酒を吹き出す。
「ぶはっ! 薬草を剣で斬る気だったのか、リオ坊ちゃん!」
「き、斬らない! 確認しただけだ! 万が一ということもあるだろう!」
「薬草相手の万が一って何だよ!」
周りがまた笑う。
受付嬢は苦笑しながら、依頼書と簡単な薬草図を渡した。
「こちらが薬草の特徴です。葉が三枚に分かれていて、根元が薄い青色をしています」
「葉が三枚。根元が青」
「似た草も多いので、分からなければ抜かずにそのままにしてくださいね」
「分かった」
「これに十束入れて戻ってきてください」
受付嬢は布袋を渡した。
「場所は町の東にある浅い森です。奥には入らないでくださいね」
リオは真剣に頷いた。
「奥には入らない」
「本当に入らないでくださいね。新人の方は、なぜか奥へ行きたがるので……」
「私は、言われたことは守る」
リオは少しだけ胸を張った。
すると、背後から声が飛ぶ。
「そう言う奴ほど、だいたい迷うんだよなぁ」
リオはキッと振り返った。
「迷わない!」
「はいはい。薬草に負けるなよ、リオ坊ちゃん」
「坊ちゃんではない!」
最後までからかってくる冒険者たちから逃げるように、リオはむっとしたままギルドの扉を開けた。
*
朝のまぶしい光が差し込んでくる。
『最初の仕事が薬草採取とは思わなかった……』
手には布袋と薬草図。
腰には立派な剣。
かなりちぐはぐな姿のまま、リオは町の東へ向かって歩き出した。
『でも、これも仕事だ。お金を稼がなければ、リオとして生きていけない』
リオは薬草図をぎゅっと握る。
『リオとしての最初の仕事……薬草採取。必ず、成功させる!』
妙な悲壮感と、妙に大きな気合いを背負って。
元侯爵令嬢の初クエストが、幕を開けた。




