第1話「死んだ侯爵令嬢は、髪を切る」
夕暮れのティワール侯爵邸。
きれいに整えられた庭園の一角で、ヒュッ、と鋭い音が鳴った。
「っ……!」
ドレスではなく、動きやすい服を着た少女が木剣を振っている。
ティワール侯爵家の一人娘、リリア・ティワールだ。
貴族令嬢らしい優雅さはない。けれど、リリアの顔は生き生きとしていた。刺繍よりも、社交よりも、リリアは剣が好きだった。
『あと少し。今の踏み込みなら、もっと速く――』
「リリア!」
厳しい声が飛んできた。
リリアの肩が、びくっと跳ねる。
振り返ると、怒った顔の父――ティワール侯爵が立っていた。後ろには、困り顔の侍女たちもいる。
「明日は婚約披露だというのに、何をしている!」
「お父様……」
リリアは木剣を下ろした。
汗ばんだ手で、柄をぎゅっと握りしめる。
「もう剣士の真似事などやめろと言っただろう。お前はティワール侯爵家の娘だ」
父は、まるで汚いものを見るように木剣を見下ろした。
言い返したい。
けれど、その言葉は胸の奥で止まってしまう。
「明日はワグセン伯爵家との大切な日だ。エルヴィン殿の前で、恥を晒すつもりか」
父が目で合図をすると、侍女が恐る恐る近づいてきた。
「お嬢様……」
リリアは大人しく木剣を差し出した。
けれど、指先だけは、まだ柄から離れたがらなかった。
『真似事……』
木剣が手から離れる。
リリアはうつむいた。
『私は、好きなことをしていただけなのに』
*
翌日の夜。
大広間には豪華なシャンデリアが輝き、着飾った貴族たちが集まっていた。
美しいドレスを着たリリアの隣には、婚約者のエルヴィンが立っている。
エルヴィンは穏やかな笑みを浮かべていた。
「今日は一段とお美しいですね、リリア嬢」
「ありがとうございます、エルヴィン様」
リリアは完璧な作り笑いを浮かべ、優雅に礼をした。
周りの貴族夫人たちが、扇で口元を隠して微笑む。
「お似合いのお二人ね」
「ティワール侯爵家も安泰ですわ」
誰もが、リリアを幸せな令嬢だと思っている。
ふと窓の外を見ると、昨日、剣を振っていた庭が見えた。
『私は、これからずっと……こうして笑うのだろうか』
「両家の未来に」
「両家の未来に」
父とエルヴィンが杯を掲げる。
リリアも静かにグラスを持ち上げた。
乾杯の声が響く。
リリアは、ワインを一口飲んだ。
――その瞬間。
「……っ?」
喉の奥が、焼けるように熱くなった。
指先から力が抜ける。
グラスが床に落ち、激しく砕け散った。
ガシャンッ!
「リリア嬢?」
「お嬢様!?」
体が大きく傾く。
リリアはそのまま床に倒れ込んだ。
指一本、動かせない。
『息が……』
「リリア!」
「医師を! 早く!」
怒声と悲鳴が遠くなる。
父やエルヴィンの顔が、水の底から見上げているみたいにぼやけていく。
『なに……これ……』
そして、リリアの世界は暗闇に沈んだ。
*
その日の深夜。
静まり返った屋敷の奥で、安置棟だけが異様な騒ぎに包まれていた。
「火だ!」
「安置棟が燃えているぞ!」
黒い煙が空へ上がる。
真っ赤な炎が、建物を飲み込んでいく。
豪華な布も、頑丈な木材も、すべてが炎に焼かれていた。
ゴォッ、と大きな音を立てて、棺の蓋が焼け落ちる。
「リリアの棺は!?」
血の気を失った父が駆けつけた。
けれど、炎に包まれた棺の中身は、もう何も分からない。
リリア・ティワールの遺体を納めた棺は、跡形もなく焼け落ちたのだった。
*
「……ここ……どこ……?」
まぶしい朝の光と、鳥の声。
リリアは目を覚ました。
そこは、見慣れた自分の部屋ではなかった。
ふかふかのベッドもない。
やわらかな布団もない。
あるのは、木々に囲まれた知らない森だけだった。
体は鉛のように重い。指先も青白い。
横を見ると、布包みが置かれていた。
リリアは震える手で、それを開く。
中には、質素な町娘の服。古い外套。水袋。革袋。
そして、一枚の紙切れ。
紙には、乱暴な字でたった一言だけ書かれていた。
『逃げろ』
「何が……起きてるの……?」
革袋を開けると、金貨が10枚入っていた。
「金貨……」
リリアは呆然と呟いた。
それから、町娘の服を広げる。
「これに……着替えろってこと……?」
木の枝に外套をかけ、即席の目隠しを作る。
豪華なドレスを脱ぎ、飾りのない服へ。
華奢な靴から、丈夫な革靴へ。
勝手の違う服に戸惑いながらも、長い金髪を後ろでくくり、外套を羽織る。
リリアは紙を強く握りしめた。
「……行かなきゃ」
森を抜けると、街道沿いの小さな町に出た。
侯爵邸のある街ではないらしい。
通りには屋台が並び、人々の声でにぎわっている。
「聞いたか? ティワール侯爵家のお嬢様、亡くなったんだってよ」
「ああ。婚約披露の席で倒れたって話だろ?」
外套の襟を上げて歩いていたリリアは、足を止めた。
『私のことだ……』
別の町人たちも、声を潜めずに話している。
「しかも夜中に安置棟が燃えたらしいぞ」
「棺ごと焼けたって? なんともまあ……」
リリアは外套をぎゅっと握りしめた。
『棺が、燃えた……?』
「ワグセン伯爵家との婚約披露だったんだろ?」
「めでたい席が、一晩で葬式か。貴族様も大変だねえ」
リリアは壁際へ寄った。
心臓が、うるさいくらい鳴っている。
『私は倒れた。目が覚めたら森にいた。服とお金と、逃げろという紙があった』
『多分、私は誰かに殺されかけた』
「遺体もまともに残らなかったらしいぞ」
「気の毒になあ」
リリアは、自分が着ている逃亡用の服を見下ろした。
『そして、誰かが私を死んだことにした』
顔を上げる。
その瞳の奥に、小さな光が灯った。
『私がまだ生きていると知られたら、また命を狙われるかもしれない』
『もう、リリア・ティワールの名前は使えない』
リリアは再び歩き出した。
けれど、その歩き方は、町娘にしては妙に背筋が伸びていた。
『私は町娘。今の私は、どこにでもいる町娘。名前も、話し方も、全部変える。普通に。目立たず。何食わぬ顔で買い物をすればいい』
そう言い聞かせる。
けれど、動きはカクカクと硬い。
そんな決意をあざ笑うように、お腹が間抜けな音を鳴らした。
――くぅ……。
リリアは顔を赤くして立ち止まる。
目の前には、いい匂いのする串焼きの屋台があった。
「串焼き、一本銅貨二枚だよ」
威勢のいい声に、リリアは少しだけ迷った。
けれど、町娘らしく落ち着いてうなずく。
「ええ。一本いただくわ」
そして、革袋から金貨を一枚差し出した。
店主の手が、ぴたりと止まった。
「……嬢ちゃん」
「何か?」
「串一本に金貨を出されても、釣りがねえよ」
「…………」
リリアは石のように固まった。
けれど、すぐに知ったかぶる。
「そ、そうよね。もちろん分かっていたわ」
「本当か?」
店主の目は、かなり疑っている。
リリアは少しだけ胸を張った。
「ええ。だから、隣の店で何か買って両替してくるわ」
「隣はリンゴジュース屋だぞ」
「……知っているわ」
「いや、隣も無理だ。リンゴジュース一杯に金貨を出されても、あっちも釣りがねえ」
「…………」
リリアは完全に黙った。
店主は呆れたように笑う。
「まず両替屋か、雑貨屋に行きな。金貨を崩してから来い」
リリアは真っ赤な顔で金貨をしまった。
「そ、そうするつもりだったの。少し順番を間違えただけよ」
カラカラ笑う店主に、リリアは精一杯の笑顔を作る。
「……ありがとう。助かったわ」
屋台から逃げるように離れた直後、またお腹が鳴った。
――くぅ……。
リリアは真顔で歩きながら、胸の中で深く反省した。
『町娘は、金貨で串焼きを買わない。そして、リンゴジュースでも金貨は崩せない』
通りの向こうに、『雑貨・少額両替可』の看板が見えた。
リリアは小さくため息を吐く。
『……町娘への道は、思ったより険しい』
*
両替を済ませたリリアは、宿屋「踊る子猫亭」の扉を開けた。
カラン、とベルが鳴る。
「いらっしゃい! お泊まりですか?」
「え、ええ。一晩、お願いします」
「一泊、素泊まりで銅貨八枚ね」
リリアは財布から銅貨を出した。
そして、机の上に一枚ずつきれいに並べていく。
「一、二、三……」
「……ずいぶん丁寧に並べるんですね」
「え?」
「普通に置いてくれれば大丈夫ですよ。儀式じゃないんで」
看板娘が笑いながら、銅貨をざっと回収する。
リリアは顔が熱くなるのを感じた。
「し、知っていました。少し、机の上が寂しかったので」
「机の上が寂しい?」
「お部屋はどちらでしょうか」
リリアは、怪しまれる前に話を変えた。
「部屋は二階の奥です。桶と手ぬぐいは銅貨一枚で貸してますよ」
「桶と……手ぬぐい?」
「井戸は裏庭です」
リリアは首を傾げた。
「井戸……あの……お風呂は、どちらに?」
看板娘が、きょとんとする。
「お客さん、貴族のお屋敷でもないのに、お風呂なんてあるわけないじゃないですかー」
「…………そ、そうだったわ。それが普通よね」
リリアの全身が固まった。
けれど、看板娘は悪気なく続ける。
「お湯が欲しかったら、銅貨三枚で厨房から持っていきますよ。桶一杯ですけど」
「……桶一杯」
「はい。桶一杯」
看板娘はにこにこしている。
リリアは精一杯、知っているふりをした。
「十分です。桶一杯もあれば、ええ、もう……とても」
「そんなに気合いを入れて言うことですか?」
「い、いえ。普通です」
リリアは鍵を握りしめ、ぎこちない足取りで階段へ向かった。
背中には嫌な汗が流れている。
『危なかった。今のは、かなり町娘ではなかった。知らなかったわ。お風呂は……宿屋に当然あるものではないのね』
案内された部屋は、小さかった。
あるのは簡素なベッドと、机と、椅子だけ。
しばらくすると、扉がノックされた。
「桶一杯、銅貨三枚です」
リリアは銅貨を渡した。
今度は並べないように気をつけたが、それでも手元は少しぎこちない。
「はい。お願いします」
「冷める前に使ってくださいね」
扉が閉まる。
部屋の中央には、湯気を上げる桶が一つ。
リリアは無言でそれを見下ろした。
それから、手ぬぐいを湯に浸し、きつく絞った。
『桶一杯……これが……庶民のお風呂なのね……』
少しだけ遠い目になる。
『違う。これはお風呂ではない。けれど、今日の私は、これをお風呂と呼ぶ』
窓の外から、夜の町のざわめきが聞こえてくる。
リリアは自分の長い金髪に、そっと触れた。
*
翌朝。
リリアは再び町へ出た。
昨日よりは少しだけ、歩き方も自然になっている。たぶん。きっと。
まず向かったのは古着屋だった。
リリアが男物の服を手に取ると、女主人が声をかけてくる。
「兄弟の服でも探してるのかい?」
「え、ええ。弟の服を」
「弟ねえ。どれくらいの背丈だい?」
「このくらいです」
リリアは、自分の頭の高さを示した。
女主人がじっと見てくる。
「……あんたと同じくらい?」
「弟は、私と大変よく似ているの」
「背丈まで似るとは、仲のいい姉弟だねえ」
女主人は面白そうに笑った。
リリアは服を受け取ると、逃げるように店を出た。
次は雑貨屋だ。
リリアは黄色い長い布を手に取った。
「ずいぶん長い布だけど。何に使うんだい?」
「ええと……弟に」
「弟に布?」
「弟は……布をよく使うので」
「どういう弟だい」
「……丈夫な弟です」
店主は、まったく意味が分からないという顔をした。
けれど、リリアは何とか布を買うことに成功した。
次に入った魔道具屋では、小さな黒い石のついた首紐を見つけた。
「これは?」
「声色石だよ。芝居小屋や旅芸人が使うやつさ。少しだけ声を低くできる」
「それをください」
「芝居でもするのかい?」
「ええ。少しだけ」
最後に足を止めたのは、武器屋だった。
「嬢ちゃんが武器か?」
「護身用に、短剣を」
武器屋の主人は、軽くて扱いやすい短剣を出してきた。
「これで十分だ。軽いし、隠しやすい」
けれど、リリアの視線は壁に掛けられた安い実用剣へ向いていた。
「それと……あの剣も」
「護身用に剣まで持つのか?」
主人は眉をひそめた。
「剣は飾りじゃない。持てば目立つし、抜けば狙われる。扱えないなら短剣だけにしとけ」
リリアは一瞬、言葉を選んだ。
それから、まっすぐ剣を見つめる。
「旅をするなら、必要かと思って。少しだけ、習っていました」
主人はため息をつき、剣を差し出した。
「なら、持ってみろ」
リリアは剣を受け取った。
ずしり、と重みで腕が沈む。
けれど、指は迷わず、正しい位置に収まった。
主人の目つきが変わる。
「……少しだけ、ねえ」
リリアは剣の重さを確かめるように、軽く構えた。
その動きには、さっきまでのぎこちなさがなかった。
『やっぱり、私はこの重さが好きだ』
主人は剣を見て、リリアを見て、それから短く言った。
「手入れは毎日しろ。剣は買った日から鈍る」
「……ありがとうございます」
リリアは武器を受け取り、宿屋へ戻った。
*
踊る子猫亭の小部屋。
机の上には、買ってきたものが並んでいる。
男物の服。
サラシ代わりの黄色い長い布。
声色石。
短剣。
そして、一振りの剣。
リリアは扉にしっかりと鍵をかけた。
服を脱ぎ、長い布を胸を潰すようにきつく巻きつける。
息が少し苦しい。
けれど、これでいい。
布の端を結び終えると、リリアは机の上から短剣を手に取った。
片手で、美しく手入れされてきた長い金髪を束ねる。
短剣の冷たい刃を、髪の根元に当てた。
そして、リリアは一気に力を込めた。
バスンッ!
鈍い音とともに、金色の髪の束が床へ落ちる。
『リリア・ティワール侯爵令嬢は、昨日死んだ』
リリアは、机の上の男物の服と剣を見た。
その瞳には、迷いも怯えもない。
『なら、ここから先は――私の人生だ』




