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第1話「死んだ侯爵令嬢は、髪を切る」

 夕暮れのティワール侯爵邸。

 きれいに整えられた庭園の一角で、ヒュッ、と鋭い音が鳴った。


「っ……!」


 ドレスではなく、動きやすい服を着た少女が木剣を振っている。

 ティワール侯爵家の一人娘、リリア・ティワールだ。

 貴族令嬢らしい優雅さはない。けれど、リリアの顔は生き生きとしていた。刺繍よりも、社交よりも、リリアは剣が好きだった。


『あと少し。今の踏み込みなら、もっと速く――』


「リリア!」


 厳しい声が飛んできた。

 リリアの肩が、びくっと跳ねる。

 振り返ると、怒った顔の父――ティワール侯爵が立っていた。後ろには、困り顔の侍女たちもいる。


「明日は婚約披露だというのに、何をしている!」


「お父様……」


 リリアは木剣を下ろした。

 汗ばんだ手で、柄をぎゅっと握りしめる。


「もう剣士の真似事などやめろと言っただろう。お前はティワール侯爵家の娘だ」


 父は、まるで汚いものを見るように木剣を見下ろした。

 言い返したい。

 けれど、その言葉は胸の奥で止まってしまう。


「明日はワグセン伯爵家との大切な日だ。エルヴィン殿の前で、恥を晒すつもりか」


 父が目で合図をすると、侍女が恐る恐る近づいてきた。


「お嬢様……」


 リリアは大人しく木剣を差し出した。

 けれど、指先だけは、まだ柄から離れたがらなかった。


『真似事……』


 木剣が手から離れる。

 リリアはうつむいた。


『私は、好きなことをしていただけなのに』



 翌日の夜。

 大広間には豪華なシャンデリアが輝き、着飾った貴族たちが集まっていた。

 美しいドレスを着たリリアの隣には、婚約者のエルヴィンが立っている。

 エルヴィンは穏やかな笑みを浮かべていた。


「今日は一段とお美しいですね、リリア嬢」


「ありがとうございます、エルヴィン様」


 リリアは完璧な作り笑いを浮かべ、優雅に礼をした。

 周りの貴族夫人たちが、扇で口元を隠して微笑む。


「お似合いのお二人ね」


「ティワール侯爵家も安泰ですわ」


 誰もが、リリアを幸せな令嬢だと思っている。

 ふと窓の外を見ると、昨日、剣を振っていた庭が見えた。


『私は、これからずっと……こうして笑うのだろうか』


「両家の未来に」


「両家の未来に」


 父とエルヴィンが杯を掲げる。

 リリアも静かにグラスを持ち上げた。


 乾杯の声が響く。

 リリアは、ワインを一口飲んだ。


 ――その瞬間。


「……っ?」


 喉の奥が、焼けるように熱くなった。

 指先から力が抜ける。

 グラスが床に落ち、激しく砕け散った。


 ガシャンッ!


「リリア嬢?」


「お嬢様!?」


 体が大きく傾く。

 リリアはそのまま床に倒れ込んだ。

 指一本、動かせない。


『息が……』


「リリア!」


「医師を! 早く!」


 怒声と悲鳴が遠くなる。

 父やエルヴィンの顔が、水の底から見上げているみたいにぼやけていく。


『なに……これ……』


 そして、リリアの世界は暗闇に沈んだ。



 その日の深夜。

 静まり返った屋敷の奥で、安置棟だけが異様な騒ぎに包まれていた。


「火だ!」


「安置棟が燃えているぞ!」


 黒い煙が空へ上がる。

 真っ赤な炎が、建物を飲み込んでいく。

 豪華な布も、頑丈な木材も、すべてが炎に焼かれていた。


 ゴォッ、と大きな音を立てて、棺の蓋が焼け落ちる。


「リリアの棺は!?」


 血の気を失った父が駆けつけた。

 けれど、炎に包まれた棺の中身は、もう何も分からない。

 リリア・ティワールの遺体を納めた棺は、跡形もなく焼け落ちたのだった。



「……ここ……どこ……?」


 まぶしい朝の光と、鳥の声。

 リリアは目を覚ました。


 そこは、見慣れた自分の部屋ではなかった。

 ふかふかのベッドもない。

 やわらかな布団もない。

 あるのは、木々に囲まれた知らない森だけだった。


 体は鉛のように重い。指先も青白い。

 横を見ると、布包みが置かれていた。

 リリアは震える手で、それを開く。


 中には、質素な町娘の服。古い外套。水袋。革袋。

 そして、一枚の紙切れ。

 紙には、乱暴な字でたった一言だけ書かれていた。


『逃げろ』


「何が……起きてるの……?」


 革袋を開けると、金貨が10枚入っていた。


「金貨……」


 リリアは呆然と呟いた。

 それから、町娘の服を広げる。


「これに……着替えろってこと……?」


 木の枝に外套をかけ、即席の目隠しを作る。

 豪華なドレスを脱ぎ、飾りのない服へ。

 華奢な靴から、丈夫な革靴へ。

 勝手の違う服に戸惑いながらも、長い金髪を後ろでくくり、外套を羽織る。


 リリアは紙を強く握りしめた。


「……行かなきゃ」


 森を抜けると、街道沿いの小さな町に出た。

 侯爵邸のある街ではないらしい。

 通りには屋台が並び、人々の声でにぎわっている。


「聞いたか? ティワール侯爵家のお嬢様、亡くなったんだってよ」


「ああ。婚約披露の席で倒れたって話だろ?」


 外套の襟を上げて歩いていたリリアは、足を止めた。


『私のことだ……』


 別の町人たちも、声を潜めずに話している。


「しかも夜中に安置棟が燃えたらしいぞ」


「棺ごと焼けたって? なんともまあ……」


 リリアは外套をぎゅっと握りしめた。


『棺が、燃えた……?』


「ワグセン伯爵家との婚約披露だったんだろ?」


「めでたい席が、一晩で葬式か。貴族様も大変だねえ」


 リリアは壁際へ寄った。

 心臓が、うるさいくらい鳴っている。


『私は倒れた。目が覚めたら森にいた。服とお金と、逃げろという紙があった』

『多分、私は誰かに殺されかけた』


「遺体もまともに残らなかったらしいぞ」


「気の毒になあ」


 リリアは、自分が着ている逃亡用の服を見下ろした。


『そして、誰かが私を死んだことにした』


 顔を上げる。

 その瞳の奥に、小さな光が灯った。


『私がまだ生きていると知られたら、また命を狙われるかもしれない』

『もう、リリア・ティワールの名前は使えない』


 リリアは再び歩き出した。

 けれど、その歩き方は、町娘にしては妙に背筋が伸びていた。


『私は町娘。今の私は、どこにでもいる町娘。名前も、話し方も、全部変える。普通に。目立たず。何食わぬ顔で買い物をすればいい』


 そう言い聞かせる。

 けれど、動きはカクカクと硬い。

 そんな決意をあざ笑うように、お腹が間抜けな音を鳴らした。


 ――くぅ……。


 リリアは顔を赤くして立ち止まる。

 目の前には、いい匂いのする串焼きの屋台があった。


「串焼き、一本銅貨二枚だよ」


 威勢のいい声に、リリアは少しだけ迷った。

 けれど、町娘らしく落ち着いてうなずく。


「ええ。一本いただくわ」


 そして、革袋から金貨を一枚差し出した。

 店主の手が、ぴたりと止まった。


「……嬢ちゃん」


「何か?」


「串一本に金貨を出されても、釣りがねえよ」


「…………」


 リリアは石のように固まった。

 けれど、すぐに知ったかぶる。


「そ、そうよね。もちろん分かっていたわ」


「本当か?」


 店主の目は、かなり疑っている。

 リリアは少しだけ胸を張った。


「ええ。だから、隣の店で何か買って両替してくるわ」


「隣はリンゴジュース屋だぞ」


「……知っているわ」


「いや、隣も無理だ。リンゴジュース一杯に金貨を出されても、あっちも釣りがねえ」


「…………」


 リリアは完全に黙った。

 店主は呆れたように笑う。


「まず両替屋か、雑貨屋に行きな。金貨を崩してから来い」


 リリアは真っ赤な顔で金貨をしまった。


「そ、そうするつもりだったの。少し順番を間違えただけよ」


 カラカラ笑う店主に、リリアは精一杯の笑顔を作る。


「……ありがとう。助かったわ」


 屋台から逃げるように離れた直後、またお腹が鳴った。


 ――くぅ……。


 リリアは真顔で歩きながら、胸の中で深く反省した。


『町娘は、金貨で串焼きを買わない。そして、リンゴジュースでも金貨は崩せない』


 通りの向こうに、『雑貨・少額両替可』の看板が見えた。

 リリアは小さくため息を吐く。


『……町娘への道は、思ったより険しい』



 両替を済ませたリリアは、宿屋「踊る子猫亭」の扉を開けた。

 カラン、とベルが鳴る。


「いらっしゃい! お泊まりですか?」


「え、ええ。一晩、お願いします」


「一泊、素泊まりで銅貨八枚ね」


 リリアは財布から銅貨を出した。

 そして、机の上に一枚ずつきれいに並べていく。


「一、二、三……」


「……ずいぶん丁寧に並べるんですね」


「え?」


「普通に置いてくれれば大丈夫ですよ。儀式じゃないんで」


 看板娘が笑いながら、銅貨をざっと回収する。

 リリアは顔が熱くなるのを感じた。


「し、知っていました。少し、机の上が寂しかったので」


「机の上が寂しい?」


「お部屋はどちらでしょうか」


 リリアは、怪しまれる前に話を変えた。


「部屋は二階の奥です。桶と手ぬぐいは銅貨一枚で貸してますよ」


「桶と……手ぬぐい?」


「井戸は裏庭です」


 リリアは首を傾げた。


「井戸……あの……お風呂は、どちらに?」


 看板娘が、きょとんとする。


「お客さん、貴族のお屋敷でもないのに、お風呂なんてあるわけないじゃないですかー」


「…………そ、そうだったわ。それが普通よね」


 リリアの全身が固まった。

 けれど、看板娘は悪気なく続ける。


「お湯が欲しかったら、銅貨三枚で厨房から持っていきますよ。桶一杯ですけど」


「……桶一杯」


「はい。桶一杯」


 看板娘はにこにこしている。

 リリアは精一杯、知っているふりをした。


「十分です。桶一杯もあれば、ええ、もう……とても」


「そんなに気合いを入れて言うことですか?」


「い、いえ。普通です」


 リリアは鍵を握りしめ、ぎこちない足取りで階段へ向かった。

 背中には嫌な汗が流れている。


『危なかった。今のは、かなり町娘ではなかった。知らなかったわ。お風呂は……宿屋に当然あるものではないのね』


 案内された部屋は、小さかった。

 あるのは簡素なベッドと、机と、椅子だけ。


 しばらくすると、扉がノックされた。


「桶一杯、銅貨三枚です」


 リリアは銅貨を渡した。

 今度は並べないように気をつけたが、それでも手元は少しぎこちない。


「はい。お願いします」


「冷める前に使ってくださいね」


 扉が閉まる。

 部屋の中央には、湯気を上げる桶が一つ。

 リリアは無言でそれを見下ろした。


 それから、手ぬぐいを湯に浸し、きつく絞った。


『桶一杯……これが……庶民のお風呂なのね……』


 少しだけ遠い目になる。


『違う。これはお風呂ではない。けれど、今日の私は、これをお風呂と呼ぶ』


 窓の外から、夜の町のざわめきが聞こえてくる。

 リリアは自分の長い金髪に、そっと触れた。



 翌朝。

 リリアは再び町へ出た。

 昨日よりは少しだけ、歩き方も自然になっている。たぶん。きっと。


 まず向かったのは古着屋だった。

 リリアが男物の服を手に取ると、女主人が声をかけてくる。


「兄弟の服でも探してるのかい?」


「え、ええ。弟の服を」


「弟ねえ。どれくらいの背丈だい?」


「このくらいです」


 リリアは、自分の頭の高さを示した。

 女主人がじっと見てくる。


「……あんたと同じくらい?」


「弟は、私と大変よく似ているの」


「背丈まで似るとは、仲のいい姉弟だねえ」


 女主人は面白そうに笑った。

 リリアは服を受け取ると、逃げるように店を出た。


 次は雑貨屋だ。

 リリアは黄色い長い布を手に取った。


「ずいぶん長い布だけど。何に使うんだい?」


「ええと……弟に」


「弟に布?」


「弟は……布をよく使うので」


「どういう弟だい」


「……丈夫な弟です」


 店主は、まったく意味が分からないという顔をした。

 けれど、リリアは何とか布を買うことに成功した。


 次に入った魔道具屋では、小さな黒い石のついた首紐を見つけた。


「これは?」


「声色石だよ。芝居小屋や旅芸人が使うやつさ。少しだけ声を低くできる」


「それをください」


「芝居でもするのかい?」


「ええ。少しだけ」


 最後に足を止めたのは、武器屋だった。


「嬢ちゃんが武器か?」


「護身用に、短剣を」


 武器屋の主人は、軽くて扱いやすい短剣を出してきた。


「これで十分だ。軽いし、隠しやすい」


 けれど、リリアの視線は壁に掛けられた安い実用剣へ向いていた。


「それと……あの剣も」


「護身用に剣まで持つのか?」


 主人は眉をひそめた。


「剣は飾りじゃない。持てば目立つし、抜けば狙われる。扱えないなら短剣だけにしとけ」


 リリアは一瞬、言葉を選んだ。

 それから、まっすぐ剣を見つめる。


「旅をするなら、必要かと思って。少しだけ、習っていました」


 主人はため息をつき、剣を差し出した。


「なら、持ってみろ」


 リリアは剣を受け取った。

 ずしり、と重みで腕が沈む。

 けれど、指は迷わず、正しい位置に収まった。

 主人の目つきが変わる。


「……少しだけ、ねえ」


 リリアは剣の重さを確かめるように、軽く構えた。

 その動きには、さっきまでのぎこちなさがなかった。


『やっぱり、私はこの重さが好きだ』


 主人は剣を見て、リリアを見て、それから短く言った。


「手入れは毎日しろ。剣は買った日から鈍る」


「……ありがとうございます」


 リリアは武器を受け取り、宿屋へ戻った。



 踊る子猫亭の小部屋。

 机の上には、買ってきたものが並んでいる。


 男物の服。

 サラシ代わりの黄色い長い布。

 声色石。

 短剣。

 そして、一振りの剣。


 リリアは扉にしっかりと鍵をかけた。

 服を脱ぎ、長い布を胸を潰すようにきつく巻きつける。

 息が少し苦しい。

 けれど、これでいい。


 布の端を結び終えると、リリアは机の上から短剣を手に取った。

 片手で、美しく手入れされてきた長い金髪を束ねる。

 短剣の冷たい刃を、髪の根元に当てた。


 そして、リリアは一気に力を込めた。


 バスンッ!


 鈍い音とともに、金色の髪の束が床へ落ちる。


『リリア・ティワール侯爵令嬢は、昨日死んだ』


 リリアは、机の上の男物の服と剣を見た。

 その瞳には、迷いも怯えもない。


『なら、ここから先は――私の人生だ』

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