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第10話「元侯爵令嬢、朝焼けの向こうへ」

 朝。

 三羽鴉の宿の小部屋。

 窓の外から、通りを行き交う荷車や人々の声が聞こえてくる。


 リオは男物の上着を整え、腰に剣を帯びた。

 机の上には、丁寧に畳まれた黄色い布が置かれている。


 リオは、腰の革袋にそっと触れた。

 中に入っているのは、森で目覚めた時、服や外套と一緒に置かれていた金貨だ。

 宿代や食事代で、いくらか減っている。

 それでも、まだずっしりとした重みがあった。


『このお金は、むやみに使えない』


 リオは革袋を見下ろした。


『これを用意した者が、誰なのかも分からない』


 森で目覚めたあの日の記憶がよみがえる。


 草の上に置かれていた布包み。

 質素な服。

 古い外套。

 革袋。

 そして、一枚の紙切れ。


『逃げろ』


 あの時は、その言葉の意味を考える余裕もなかった。


 ただ、リリアのままではいられないことだけは分かった。


 髪を切り、声を変え、リオになった。


 侯爵令嬢として生きていた頃、リリアが自分で決められることは多くなかった。


 ふと、幼い日の光景が目に浮かぶ。


 侯爵邸の明るい小部屋。

 白いテーブルの上には、小さな焼き菓子が三つ並んでいた。


「リリア。お菓子は三つまでですよ」


 幼いリリアは、大真面目な顔で菓子を数えた。


「一つ、二つ、三つ」


 母が部屋を出ていくと、リリアは皿をじっと見つめた。

 そして、そばに控える侍女を見上げる。


「ねぇ、もう一つ食べてもいい?」


 侍女は扉の方をそっと確認し、小さく笑った。


「……内緒ですよ」


 小皿に、もう一つだけ焼き菓子が乗せられる。


「ありがとう」


「旦那様と奥様には、内緒です」


「ええ。内緒にするわ」


 あの頃は、お菓子を一つ増やすだけでも、誰かの許しが必要だった。


 今は、誰にも聞かずに決められる。


『望めば、串焼きを二本買うこともできる』


 リオは真剣に考えた。


『これが、自由というものか』


 リオは一人で静かに頷いた。


 もちろん、決められなかったのはお菓子の数だけではない。


 剣を握れば、令嬢らしくないと叱られた。

 魔物を討っても、褒められることはなかった。

 望んでいない婚約も、披露の席も、自分で選んだものではなかった。


 父の低い声が、耳の奥によみがえる。


「リリア。侯爵令嬢が、いつまでも剣士の真似事ばかりしていてどうする」


 幼いリリアは、木剣を握る手に力を込めた。


「お前には、お前の役目がある」


 役目。


 その言葉を聞くたびに、リリアは小さく息を飲んだ。


 けれど、今は違う。


 リオは腰の剣に手を添える。


 この剣は、自分で選んだ。

 この服も、自分で選んだ。

 今日どの依頼を受けるかも、自分で決められる。


 婚約披露の大広間。

 砕け散ったグラス。

 毒に焼かれ、床に倒れ伏す自分。


 屋敷では、リリア・ティワールは死んだことになっている。


 生きていると知られれば、また誰かが動くかもしれない。

 父や母や、侍女たちを巻き込むかもしれない。


 だから、戻らない。


 リオは机の上の黄色い布を手に取った。


『それに……今の方が、生きている気がする』


 黄色い布を外套の内側へしまう。


『今は、リオとして生きる』


 リオは部屋の扉を開けた。


 朝の光が、廊下に差し込んでいる。


 リオはその中へ、静かに歩き出した。



 朝のリーベル冒険者ギルドは、今日もにぎわっていた。

 依頼掲示板の前で、ティナがリオを見つけて元気に手を振る。


「リオ! おはよう! ちゃんと来たね」


「おはよう。逃げないと言った」


「うん。そういう真面目なところ好き」


 ティナは掲示板に貼られた依頼書を指差した。


『ワイルドボア追加討伐。最大五体』


「これ受けよう。昨日のリベンジ」


 リオはティナの顔を見る。

 ティナの手は、昨日より強く弓を握っていた。


「怖くないのか」


「怖いよ。でも、怖いまま逃げるのはもっと嫌」


 その言葉に、リオは静かに頷いた。


「なら、一緒に行こう」


「うん。今日は私も倒す!」


 二人は受付へ向かい、手続きを済ませた。

 受付嬢が真剣な顔で説明する。


「複数で行動している可能性があります。無理に深追いしないこと」


 リオとティナは頷いた。


「行ってきます!」


「行ってくる」



 午前。

 リーベル南の森。

 木々が生い茂る中、リオが前を歩き、ティナが後ろを警戒しながら進んでいた。


 足元には、荒々しく掘り返された土がある。

 細い枝も折れていた。


「昨日は一人だったから、草が揺れるだけで怖かったけど……今日はちゃんと見える」


 ティナがしゃがみ込み、湿った土に残った蹄の跡を指でなぞる。


「この跡、新しい。たぶん近いよ」


 茂みの奥から、低い鼻息が聞こえた。

 リオが剣に手を添える。

 ティナも素早く弓を構えた。


「来る」


 ガサッ!


 茂みから、ワイルドボアが一体飛び出してきた。

 猛烈な勢いで二人へ突っ込んでくる。


 リオは正面を滑らかに避けた。

 すれ違いざまに、剣を一閃する。


 ザンッ!


 ワイルドボアが地面に崩れ落ちる。


「相変わらず凄い……!」


 ティナが思わず声を漏らす。

 リオは素早く右牙を取り、黄色い布で汚れを拭った。

 ティナは周囲を警戒したまま、採取用の布袋を開く。


「よし、一体目! 次は私もやる!」


 二人はさらに森の奥へ進んだ。

 やがて、地面が大きく掘り返された場所に出る。

 低い枝も、いくつも折れていた。


「ここ、絶対いる。土が湿ってるし、枝も折れてる」


 ティナは少し得意げに言う。


「今日はちゃんと見えてる! 昨日とは違うからね」


「よく見ている」


「どうして、そこまで分かる」


「魔獣は倒してないけど、普通の獣相手の狩りはしてたし、薬草採取の時は、こうやって痕跡を見て危なそうな場所を避けてたからね」


 ティナがしゃがみ、泥に残った蹄の跡を真剣に見る。


「足跡は、二つ……いや、三つあるかも」


「複数か」


「うん。ワイルドボア祭りだね。全然うれしくないけど」


 ガサガサッ!


 茂みが大きく揺れ、二体のワイルドボアが同時に現れた。


「左を抑える。右を見ろ」


「了解! 今日は固まらない!」


 リオが左のワイルドボアへ駆け出す。

 残った一体が、ティナへ向かって一直線に走ってきた。


 その瞬間、ティナにはリオの背中を見る余裕がなくなった。

 見えるのは、迫ってくるワイルドボアだけ。


「はい来た、こっち来た! でも見えてる!」


 ティナが矢を放つ。


 ビュッ!


 矢はワイルドボアの肩に刺さった。

 しかし、止まらない。


「浅い!」


『昨日と同じだ』


 当たっている。

 なのに、止まらない。

 足がすくみかける。


『でも、今日は昨日と同じじゃだめ』


 ティナは足元の根を避け、踏み固められた地面まで一歩下がった。


「喉。止める場所。リオが言ってたやつ」


 二射目を放つ。


 ビュッ!


 矢がワイルドボアの喉元に深く刺さる。

 突進の勢いが、はっきりと落ちた。


「止まった!」


 その瞬間、横からリオが戻ってきた。

 勢いの落ちたワイルドボアに、とどめを刺す。


「今の矢は効いた」


 リオの声で、ティナはようやく息を吐いた。


「やった……! 効いた! 今の効いたよね!?」


「効いた」


「よし! 昨日の私、聞いてる!? ちゃんと止めたから!」


 喜ぶティナの声に重なるように、森の奥から重い足音が響いた。

 しかも、二つ。


「まだ来る。しかも、足音が重い。……うわ、大きいの混ざってる」


「大きい方は俺が止める。もう一体は任せる」


「任された! 今の私、ちょっと強気だからね!」


 巨大なワイルドボアがリオへ突進する。

 もう一体は、ティナへ向かってきた。


「来た来た来た! こっち来た!」


 ティナが矢を放つ。

 だが、矢は目元をかすめて外れた。


「外した! 今のはなし!」


「左へ!」


 リオの短い指示で、ティナが左へ跳ぶ。

 ワイルドボアが、すぐ横をものすごい勢いで通り抜けた。


 ティナは太い木の幹に手をつき、なんとか踏みとどまる。


「転ばない! 今日は転ばない!」


 すぐに次の矢をつがえた。


「横腹!」


 二射目が、ワイルドボアの横腹に深く刺さる。

 ワイルドボアが大きくよろめいた。


『止まった! 次!』


 三射目をつがえる。

 息は乱れている。

 それでも、ティナの目は標的から逸れない。


『怖い。でも、見える』


 三射目が、ワイルドボアの喉元へ吸い込まれた。

 ワイルドボアは地面に倒れる。


「倒した……!」


 一拍遅れて、ティナがぱっと顔を上げた。


「倒した! リオ、今の見た!? 私、倒した!」


 大きなワイルドボアを斬り伏せたリオが振り返る。


「見た」


「やった!」


 森に静けさが戻った。

 ティナは弓を握ったまま、大きく息を吐く。


「怖かったぁ……!」


「頑張ったな」


「うん。足はちょっと震えてるけど、逃げなかった」


 ティナが震える膝を軽く叩き、笑う。


「昨日の私に言ってやりたい。明日は倒せるよって」


「昨日のティナはいない」


「そこは流して!」


 ティナは少しむくれた。

 けれど、すぐに笑う。


「でも、ありがと。リオが前にいてくれたから、ちゃんと狙えた」


「ティナが見ていたから、俺は前に出られた」


 ティナが嬉しそうに笑った。


「じゃあ、私たち、ちゃんと組めてたってことだね」



 帰り道。

 二人は布袋に証拠の牙を入れて歩いていた。


「ねえ、リオ」


「何だ」


「今日、すごくやりやすかった。私たち、正式にパーティー組まない?」


 リオは少し黙った。


「……私は……俺は、旅の者だ。いずれ、この地を離れるかもしれない」


「じゃあ、その時は私も行くよ」


 ティナは少しだけ空を見上げた。


「私、孤児院育ちだから。帰る家って言われると、あんまりないんだ」


 リオが言葉を返す前に、ティナは慌てて手を振った。


「あ、暗い意味じゃないよ。先生たちは好きだし、今でも顔は出すし」


 そして、明るく笑う。


「でも、私は自由に生きたいの」


 リオはティナを見つめ、少しだけ目を伏せた。


『帰る家がない』

『……私は、帰れない家を持っている』


 リオは静かに口を開いた。


「……一緒に依頼を受けるのは、助かる」


 ティナの顔がぱっと明るくなる。


「やった、決まり!」



 夕方の冒険者ギルド。

 受付嬢が、提出された牙を確認している。


「五体討伐、達成です。良い連携だったようですね」


「はい! なので、私たち正式にパーティーを組みます!」


 ティナが意気揚々と登録用紙に名前を書く。

 リオは自分の登録札を、両手で丁寧に受付嬢へ差し出した。


「リオさん、登録札は片手で大丈夫ですよ」


「でも大切なものだろう?」


 隣でティナがふふっと笑う。


「リオのそういうところ、安心する」


「……なら、悪くない」


 報酬の銀貨十枚が渡される。

 二人は五枚ずつ分けた。


「昨日の私なら考えられない額だよ!」


「金貨十枚までは遠い」


「金貨十枚?」


「収納箱を買う」


「いきなり目標が大きいね!?」



 翌朝。

 冒険者ギルドの依頼掲示板の前には、今日の依頼を探す冒険者たちが集まっていた。

 リオとティナも、並んで掲示板を見ている。


 ティナが一枚の依頼書を見つけて、ぱっと表情を明るくした。


「これでいいんじゃない?」


 リオが依頼書を見る。


「討伐依頼か」


「うん。ちょうどよさそう」


 リオは静かに頷いた。


「これにしよう」


 ティナが先にギルドの出口へ向かう。


「リオー、行くよー」


 リオは一度だけ依頼書を確かめ、それから顔を上げた。


「ああ」


 リオはティナの後を追って歩き出す。

 ギルドの重い扉を開けると、朝の陽光に照らされたリーベルの通りが広がっていた。


『今日は、依頼が終わったら串焼きを二本買おう』


 前を行くティナが、振り返って手を振る。


『一本は、ティナにあげてもいいかもしれない』


 リオは少しだけ歩幅を早めた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


リリアとリオの物語は、ここで一区切りとなります。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


また、本作の真相については、ネタバレ補足として後日、活動報告に掲載する予定です。

どうしても気になる方は、そちらも覗いていただけると嬉しいです。

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