第九章「演技が国家を動かす」
話が大きくなったのは、私のせいではない。
少なくとも、意図してそうしたわけではない。
——とだけ、最初に言っておきたい。
父から呼ばれたのは、ある晴れた午前のことだった。
エーデルハイト公爵、私の父は普段から口数が少なく、感情をあまり表に出さない人だ。
その父が、珍しく少し困ったような顔をして私を書斎に呼んだ。
「フローラ、王家から打診があった」
「どのような?」
「来月、隣国ヴェルガント王国との外交晩餐会がある。……お前に同席してほしいと、王家から直々に要請が来た」
私は少し驚いた。
婚約破棄された令嬢を、なぜ外交の場に。
父が続けた。
「ヴェルガントとの関係は、ここ数年冷え込んでいる。向こうの使節団の中に、社交的な場での印象を重視する者が多いと聞いている。……王家としては、エーデルハイト家の令嬢の評判が最近高いため、場の雰囲気作りに一役買ってほしいということらしい」
なるほど、と思った。
外交というのは中身だけでなく、雰囲気と印象が大きく物を言う。
特に初期段階では。
(つまり、営業担当として呼ばれたわけね)
前世でも似たような経験がある。
企業のパーティに「場を盛り上げる役」として招かれたことが、何度かあった。
本質的には同じだ。
「承知いたしました」
父が少し目を細めた。
「……最近のお前は、落ち着いたな」
「そうですか?」
「婚約破棄の後、もっと取り乱すかと思っていた。あの舞踏会の夜も、よく耐えたと思う」
耐えたというより演じた、というのが正確だが、それは言わないことにした。
「父上にご心配をおかけしました」
「いや……お前が心配でなくなったわけではないが」
父は少し言いにくそうにしてから、続けた。
「よくやっている、と思っている」
不器用な褒め言葉だった。
でもそれがかえって、真心のように感じられた。
「ありがとうございます、父上」
これは演技ではない。
少しだけ、胸が温かくなった。
外交晩餐会まで二週間。
私は入念に準備した。
ヴェルガント王国の文化、歴史、現在の政治状況——父の書斎から資料を借りて読み込んだ。
前世で難役に挑むとき、徹底的に役の背景を調べたのと同じやり方だ。
(相手のことを知らずに演じるのは、礼儀に反するわ)
これは演技の哲学みたいなものだ。
観客を——今回で言えば相手の国の人間を——動かしたいなら、まず相手を理解しなければならない。
当日の装いも慎重に選んだ。
両国の文化を尊重しながら、どちらにも親しみやすい色と形。
華やかすぎず、地味すぎず。
「この人と話してみたい」と思わせる佇まいを目指す。
晩餐会の会場は、王宮の大広間だった。
ヴェルガントの使節団は十数名。
中心にいるのは、壮年の男性だ。
名をオスカル・フォン・ライネックという、ヴェルガントの宰相だと事前に聞いていた。
表情が硬い。
全体に、使節団の空気が重い。
両国の関係が冷え込んでいるのが、人の雰囲気にも出ている。
晩餐が始まり、席が定まった。
私の隣はヴェルガント側の若い外交官だった。
二十代半ばくらいで、緊張した面持ちをしている。
「お隣の席ですね。フローラ・エーデルハイトと申します」
穏やかに、でも自然に声をかけた。
相手が驚いたような顔をする。
こちらから話しかけてくると思っていなかったのかもしれない。
「……ハンス・クラーマーです。ヴェルガント外務省の者です」
「クラーマー様、この国へは初めてですか?」
「はい。……正直、少し緊張しています」
正直に言ってくれた。
それだけでこの人の誠実さがわかる。
「それはよかった」
「よかった、とは?」
「緊張しているということは、この場を大切に思っていらっしゃるということでしょう。大切に思っていない人は緊張しませんから」
クラーマーが少し目を瞬いた。
それから、小さく笑った。
「……そういう見方をされるのですね」
「前向きに考えるのが好きなので」
料理が運ばれ、会話が続いた。
私はヴェルガントのことをいくつか質問した。
事前に調べた内容をもとに、相手が話しやすいことを選んで聞く。
自国の文化や食について聞かれると、人はだいたい嬉しそうに答えてくれる。
これは前世でのインタビュー対応の経験からわかっていることだ。
クラーマーが次第に表情を和らげていくのが見えた。
テーブルの向こう側では、他の使節団の面々も少しずつ会話が増えてきている。
全体の雰囲気が、わずかに柔らかくなっていた。
食後の歓談の時間になったとき、宰相のライネックが近づいてきた。
硬い表情のまま、私の前に立った。
「エーデルハイト嬢、少し話してもよいか」
「もちろんです」
彼は少し間を置いてから、静かに言った。
「クラーマーが珍しく笑っていた。あれは人見知りでな、外交の場ではいつも固くなる」
「素直な方ですね。お話ししやすくて、こちらが楽しかったですわ」
ライネックがわずかに眉を上げた。
「楽しかった、と」
「ええ。ヴェルガントの春祭りの話を聞かせてくださって——花冠を川に流す風習が素敵だと思いました。こちらにはない習慣ですから」
「……よく知っているな」
「少し調べました。お伺いする前に相手の国のことを知りたいと思うのは、礼儀だと思っていますので」
ライネックが黙った。
長い沈黙だった。
それから彼は、ゆっくりと口を開いた。
「ヴェルガントに来たことは?」
「ございません。でもいつか伺えたらと思っています」
「……本当に思っているか」
「本当に」
これも演技ではなかった。
調べているうちに、本当に行ってみたいと思っていた。
前世でも、役の舞台となった国を実際に訪れたくなることがよくあった。
ライネックがため息をついた。
でも今度は、圧のため息ではなく、何かが緩んだような感じのため息だった。
「エーデルハイト嬢」
「はい」
「あなたのような方が外交官なら、両国の関係はとっくに改善していたかもしれんな」
「それは……宰相閣下がそれだけお力のある方だからこそ、おっしゃれる言葉だと思います」
ライネックが、初めて微笑んだ。
その夜の晩餐会は、事前の予想を大きく超えた成果で終わった。
翌日、父からその報告を聞いた。
「ヴェルガント側が、非公式ながら友好的な姿勢を示してきた。宰相ライネックが『エーデルハイト嬢に礼を』と言っていたそうだ」
「まあ」
「王家からも感謝の言葉が来ている。……一体何をしたのだ、お前は」
「お話しただけですよ。ただ、相手の話をよく聞いて」
父がしばらく私を見てから、小さくため息をついた。
それからさらに数日後。
今度はセシルが血相を変えて私の屋敷にやってきた。
「フローラ様! あの晩餐会のこと、もう王都中に広まっています!」
「どんなふうに?」
「『フローラ様の慈愛がヴェルガントの心を開いた』とか、『まるで聖女のようだ』とか……! 民衆の間にまで!」
(民衆にまで?)
さすがに少し驚いた。
「大げさな話になっているのね」
「大げさじゃないと思います! 宰相があれほど態度を軟化させたのは十年ぶりだと、父が言っていました!」
セシルがまくし立てる。
私はそれを聞きながら、内心で静かに整理した。
(ただの営業スマイルだったのだけれど)
相手の話を聞いて、共通点を探して、相手が心地よく話せる空気を作る。
前世で何百回とやってきたことだ。
特別なことは何もしていない。
「フローラ様は本当に、何か特別な力をお持ちなのでは?」
セシルが真剣な目で聞いてくる。
「特別な力なんてないわよ」
「でも——」
「ただ、相手のことが気になるだけ。どんな人で、何が好きで、何を大切にしているか。それを知りたいと思うだけ」
セシルがしばらく黙った。
考え込んでいる顔だ。
「……それって、誰に対してもそうなんですか?」
「そうね、大体は」
「フローラ様の周りにいる人が皆、自然と味方になっていくのは……そういうことなのかもしれないですね」
私は少し考えた。
「どうかしら。そんな深いことを考えてやっているわけではないのだけれど」
窓の外で、王都の空が広がっている。
晴れた午後の光が、部屋の中に長く差し込んでいた。
国家規模の話になってしまったことは、少し想定外だった。
でも誰も傷ついていないならそれでいい。
(営業スマイルが外交を動かすなんて、前世でも聞いたことがないわ)
苦笑いしながら、私は紅茶のカップを口に運んだ。
温かくて、少し甘かった。




